先に書いたことだが、自分の人生の最大の転機は中学1年の時、何気にMに突き付けられた一言だった。それまで自分という人間を客観的に見たことなどなかったが、彼の発した一言で自分がどういう人間であるかを知らされた。刃を突き付けられるほどにショックだったが、もしあの時、Mを蔑み、見下げていたなら、今の自分はない。批判を素直に受け入れる柔軟さが幸いした。
それまで誰も言わなかったことをMが言えたのは、彼がクラス一の劣等生だったからと思う。テストはいつも0点で、それを恥じることもなく当たり前のように受け取っていたし、周囲も当たり前だと思っていた。あれくらいにバカを誇らしく思える彼には怖いものはなかったろう。だから、思ったこと感じたことを平気で口に出せる。自分への言葉もまさにそうだった。
0点取るからバカというより、バカだから0点を取る。『さびしんぼう』という映画の、「0点おテル」を思い出す。樹木希林扮する母親テルエは、娘役の小林聡美に、「お母さんはいつもクラスで一番」と嘘をついていた。それがある日、テルエの級友藤田弓子の高校生時代の妖精(さびしんぼう)に、「0点おテル」であったのをバラされる。(下の映像57分あたりからオモシロイ)
自分が自慢好き人間になったのは、おそらく母親の影響だろう。母は近所の親に通知表や自分がもらった賞状をわざわざ見せまくる人だった。子を自慢するのは親の特権だろうし、周囲は「親バカ」と許容する。自慢をされた側の腹の中はともかく、自慢する親を子を称えるのが、近所付き合いというものだった。今からすれば何とも素朴な時代であった。
今でも子ども自慢する親に笑顔で対応するママ友はいるが、本心は穏やかではなかろう。「自分の子を自慢して何が悪い?」という親がいた。「悪くない」と思うからするのだろうが、自分の「善い」、「悪い」は自分のものだから他人に遠慮する必要はない。それでも自慢を控えるのは、自分のいい気持が他人のいい気持でないことを悟っているからだろう。
「自慢」は絶対悪ではないが、社会生活の中で他人から嫌悪されるのは、世知辛い世の中であるからだ。親の子ども自慢を自分は「悪」とするのは、そのことで子どもが鼻持ちならぬ性格になり易いのを体験したからである。すべての子どもがそうとは思わないが、やはり親の影響は大きい。明晰な親というのは、子どもがする自慢を戒めるそんな親だと思っている。
Mのこともあって自慢を悪とし、自慢を戒める自分への自己変革を試みた。そうした中で他人の自慢を嫌悪したのは言うまでもない。もし、お酒を止めようと思うなら、他人の酒好きを嫌悪するのが効果が高まるように…。過渡期には他人の自慢を批判する苦々しい自分だった。自己変革のためとはいえ、やりすぎの点はあった。当時は他人の価値観を認めない嫌な自分だった。
自慢を嫌悪し、排除することを誓った以降、自慢がなぜに悪いかを徹底的に洗い出し、戒めとして幾度も日記に書いた。自分を変えるということは極端に徹底してやらないとできないだろう。自分の何かを変えるためには、その何かが身についた年数だけかかるといわれている。それくらい至難な道であり、自慢の権化ともいうべき母親への毛嫌い感が当然にして増した。
「ローマは一日にして成らず」というが、言語障害を直した友人がいた。自助努力は無理と悟った彼は、「話し方教室」というところに通ったと聞いたが、その発想も凄いと自分は思った。自分のハンデを克服した人間は、かつてのハンデが嘘だったかの如く新たな力を身につけるという。彼も言語障害が嘘のように、素晴らしい営業マンに登りつめたのは驚きである。
努力という言葉は、真に努力をする人にとっては努力とならない。後年になって、「努力した」というのは、相手が理解しやすい言葉に過ぎず、実際に行っている最中には、努力なんて思ってやしない。適切な言葉を借りるなら、何かを変えるためにひたむきになっているだけであろう。ところで、自己変革は可能か?「難しい」が一般的だが、叶えた人間には可能と映る。
ただし、生半可では無理、鬼神の如く徹底しなければ叶わない。人の今現在は、過去の積み重ねだろうが、過去を否定し、過去に決別した「今」を持つ人もいる。だからといって、過去の全てが決別できるなどはないが、人は自分がなろうとした自分になれるのは、多くのアスリートたちに見られる。また芸術家などの技能を有する人も、なるための研鑽を積んだ。
何かになろうとしてなれなかった人も沢山いる。運という要素もあろうが、何かになるんだと決して諦めず、思い続けた人の強さでもある。「夢は叶う。思い続けることで」という言葉は本当であろう。「自分を信じれば思いは叶う」という言葉も真実であろう。一日たりとも絶やさぬ思いは、まさに奇跡というしかない。思い続けて叶えた人がいる限り、「夢は叶う」の疑いはない。
自分の生きる世について、うごめく人間について、経験も踏まえ、思考や想像も加えててあれこれ考えるのは楽しい。この世や人間について理解をしようと思うことが楽しい。理解してしまったら楽しさなんかないだろう。あれこれ推理し、洞察するから面白いのだ。哲学者がそれを止められなかったように、これでもか、と思索する一生だったのではないかと…。
ある人がいる。彼がどのような身体的特徴を持っているか、あるいはどんな性格の人間か、また社会的にどのような役割を果たしているのか…、などの問題に答えるためには、いろいろな観察や調査が必要であり、すぐには答えられず、多くの困難を要するが、答えをどういうやり方で求めたらいいか、ということについての幾つかの方向なら最初から明らかである。
別の言い方をするなら、問い方それ自身のなかに、答えを求めるべき方向がすでに与えられている。しかし、同じ人間について、「彼をよりよく指導していくということは、どういうことか」と尋ねられたなら、我々は一般的な定義の形でこれに答えることはできない。この場合の困難は、観察したり調査したりに時間を要する、他にも障害があるという意味の困難ではない。
何を提示しても聞かなければ意味がない。もっとも人間関係にもいろいろあるから、自発的な信頼を旨とする人間関係を理想とするなら、そうした関係ははどうすれば構築されるだろうか?「信頼」というキーワードについて大事にすべき点は、互いが多くを語らず、言葉を修飾したり躍らせることなく、しかと沈黙を大切にし、つぶさに相手を見つめ、深く相手について考える事ではないか。
己の経験則を前提に、そういう関係を望むならば、人はしかと相手を見つめ、言葉少なく、自分と相手が自然に溶け合うプロセスの中に、「真生」なるものが生まれ出づる。人と人の良性は、黙すことの大切さ、思考することの大切さであるが、互いが邪悪な言葉によって虚飾に彩られていくプロセスを幾度か経験した。そうした人間関係にはどんでん返しもある。
沈黙はな~んも怖れることはない。何かを発していなければ途絶える関係はその程度のもので、沈黙で結ばれる人間関係こそ、美徳と言わないまでも真正である。「黙っていては何も伝わらないのでは…?」という懸念もあるが、昔の人は、「以心伝心」を大事にした。言葉を有する人間が言葉を使わないのは、「言葉は心を隠すために与えられた」という逆の発想から追尾できる。
いかに言葉を駆使しようと、真実だけを語り合うのは難しい。人間は誰も醜いものをことさらに突き出して生きて行くほど強靭な神経はない。我々が行っているのは、醜いものを自らにも隠して生きて行くこと。整理していえば、今我々が、他者との真正なる関係を求め結ぼうとするなら、自身の内にある好ましからざるものを、互いが突き出すことによってなし得る。
自分が真の自分に近づこうとする過程のなかで、互いの関係も変わっていく。関係が変わることでさらには自分も変わっていく。深遠な相手といることで、人は深遠になる。軽い相手と居れば軽薄になろう。女性が恋人に求める性格では、「ノリの良さ」が、「まじめ」を圧倒するが、誠実よりは楽しさ重視のようだ。楽しいだけを望むなら、楽しくない時はどうなる?
人と人などは言葉があればどのようにでもやれようし、コミュニケーションとしての言葉は便利でこの上ない。が、もしも言葉を発しないで友好な関係を結ぶとなるとこれは難しい。難しいができないことはない。何が嘘で、何が本当か分からない世の中で、相手の発する言葉すべてが本当であるのが、「信頼」である。ならば、ノリの良い会話がもたらすものは信頼か?
信頼関係を作るためには相手にすり寄らないのがいい。すり寄ってこない人間を嫌う相手なら、むしろその方が自分のためといえる。「女性は男の一方的な評価に甘んじるべきでない」と言った紫式部は、道長に「すきもの(チャーミングの意)」といわれ、「私はこれまで男になびいたことはないのに、誰がすきものなどと言いふらしのです?まことに心外です」。と返している。