表題如き命題を人は感じるようになるが、それを教えるのは家庭でなく学校という集団生活の場であろう。人間は社会的動物であるというのを学校教育の場で植えつけられるが、どうしてもそうした集団主義に馴染めない者がいる。学校はクラス単位で運営される以上、学校に馴染めない人はクラスに馴染めないことになる。それは個人の特質として起こることなのか。
学校に行きたくない症候群(不登校)にはさまざまな理由がある。そうした集団生活に馴染めず、引きこもりや登校拒否になってしまった子どもたちのことを、「発達障害ですね」とくくってしまう医師もいる。彼らは本当に、「障害」なのか?日本で発達障害という名前が広まり始めたのは1995年頃くらいからで、子どもをそう認定された親は、「障害」の文言に困惑する。
確かに発達に偏りがある子どもたちは、人に合わせることが苦手である。しかし、誰よりも優れた、「ひらめき」と、「こだわり」、「豊かな五感力」を持っている子どもが多いという。なのに集団生活に馴染めないというだけで、「障害」と言われなければならないのか?彼らには学校以外に彼らに即した学びの場があってしかりで、それが通信高校だったりする。
軽度の発達障害、身体障害、知的障害などの事情を抱える子、勉強についていけない、いじめを受けている、先生が苦手、学校が嫌い…など、さまざまな理由から学校に行かなくなったり、ひきこもりになる子どもたちをサポートしてくれる教育機関はたくさんあるが、そうした機関の中で特に小中校生の学びの場となっているフリースクールの存在がある。
個人経営、NPO法人やボランティア団体などが運営する民間の教育機関になり、それぞれの方針や教育理念の違いによって形態もさまざまで、かかる費用も一様ではないが、共通点としては、子どもたちの主体性を尊重しているところで、学習面に力を置くというよりは、生活面や精神面の支援を行う場所と言える。したがって、基本的に入学資格は設けられていない。
そうした自由な場であっても社会とのつながりは重要で、学校に行けない・行かないことで他人と接する機会が少なくなると、社会から取り残された感覚に陥ることにもなり兼ねない。それでますます自分の殻に閉じこもったり、ひきこもり状態が長引くことも考えられる。フリースクールに登校することは、学校復帰や学習意欲向上に直結しない場合もないとはいえない。
それでも自宅以外の場所で家族以外の人とつながっていられる環境は、社会との接点となり、子どもにとっては目には見えにくい不安や焦りや心の負担を和らげてくれている。義務教育が終わる中学生の場合、普通高校への進学をはじめ、通信制高校や定時制高校や高卒認定試験合格を目指すなど、一人ひとりの状況や希望に応じて情報を提供しているので安心感もある。
もともと集団生活が苦手な子どもゆえにか、フリースクールから通信制高校に進学し、高卒資格を目指すというケースが多い。過日話題になった中学生将棋棋士の藤井聡太四段も発達障害では?と言われているが、国立の中高一貫教育校に在籍しながらも、高校進学を迷っているというが、7冠制覇した囲碁棋士井山裕太のこともあり、高校進学はしない可能性が高い。
藤井四段の逸材からして、高校や大学が彼の将来に何らかの寄与することはなく、羽生善治も普通高校から通信高校に転籍した。一般的な子どもを有す保護者がなぜに偏差値教育に逆らえないのか、という問題で必ず浮かび上がるのが「歩留まり」論である。我が子に出世を望むとまではいわずとも、例えば就職や転職の時、昇進や結婚の時に必要なのが良い大学である。
子どもを早くから塾に入れ、成績が思ったほど上がらないと小言をいう。高偏差値大学に入りさえすれば、後はなんとか人並みに生きていけるだろうというのが親の安心であり、これが本当の子どもの成長に寄与し、親が努力しているといえるかどうか、自分は甚だ疑問である。今の親は、子どもが、「自然に育つ」過程での干渉があまりに多すぎるのではないだろうか。
子どもの数が少なくなり、経済的にも豊かになったことがこうした傾向に拍車をかけているが、その反面、個性に乏しい貧弱な大人に育とうとしている。ともすれば近視眼になり易い母親に任せきりでなく、父親が人間という全体像を通して子どもが、「育つ」ことに関心を持つべきである。「子育て」ほどに面白い事業を妻にやらせるなどとんでもないという自分だった。
広い社会の中で、人間だけが狭隘な考えでいてはあまりに侘しすぎないか?どんなものにも表裏があり、その表裏を発見し、両面から眺め、考えることができるなら、その人間は大きな人間と言えという。「人は個人だが、社会の一員でもある」という表題はあまりにもっともで、これに固執するなら、集団主義・組織主義を信奉することになり、それも実は問題だ。
「人とは何か」、「社会とは何か」。この二つの問いかけは、我々にとって根幹をなす問題である。例えば近代ヨーロッパ思想の基本は、「個人主義」といえる。つまり、個人の自我、善性、幸福を捉え、求めることこそ個人主義思想の意義であり、目的であった。確かに個人主義思想は魅力であり、賛同するが、そこには社会が無視されているという側面がある。
なぜなら個人主義の考えは、「個人とは、社会から切り離された一個の独立した存在であり、社会とは、個人の独立性を認めない全体優先の共同体」である。トヨタ生産方式と呼ばれる無駄のない合理精神は、日本の民族や風土にあったものとして喧伝されてきたが、こうした考えが生まれた背景について司馬遼太郎は、愛知三河人の滅私奉公気質にあると書いている。
極端な農民型で律儀で篤実で義理に厚く、戦場では労を惜しまずに働き、三河兵は徳川への忠誠心のみで統一されていた。同時に極めて統制的性格を持ち、売名的な豪傑もおらず、自分の能力を世間に誇示することなく徳川家のために埋没した。三河で生まれたトヨタは、まさに三河兵のようなお家のために労を惜しまぬ律義者企業軍団を擁し、世界まで登りつめた。
トヨタは資本・人的関係をもつデンソーのような譜代企業と、資本・人的関係のない外様部品会社を傘下にもち、それらを合算した運命共同体的な信頼関係を醸成し、漸進的に強さを構築してきた。また、司馬は隣の尾張人気質にも言及している。「尾張の気質は、土地にしがみつく保守的な生き方より、外に出て利を稼ぐ進取的、時には投機的な生き方を取るという。
貧農の出自である秀吉は、当時の下克上の論理と、個人の能力主義に支配されていた戦国時代にあって、忠誠心を植えつけることに知恵を絞ったという。あれこれと注釈つけずとも、日々の暮らしの中にこそ真実がある。が、真実を見極めるためには一元的な考えでは見つからない。「○○が正しい」は思い込みであり、それが正しいと勝手に信じているだけである。
「人は個人だが、社会の一員でもある」が真実なら、「人間は個人だけでもない、社会の一員だけでもない」と、こういう考えもまた真実である。真実は一つしかないと考えるから否定をするわけだから、ニーチェの言うように、「真実などはない。あるのは解釈だけ」と考える方が柔軟である。個人は大切でも、個人を社会から切り離したら、個人の心など成立しない。
なぜなら、人は決して一人では生きていけないからだ。個人の自我は大切であるけれども、個人は社会に埋没してはならず、「周りに関係なく、自分は自分」という考え(精神)を持つべきだろう。しかし、社会なくして人は生きられない。だから、自分の心をしっかりと掴んだ後に、今度は自分への拘りを捨て、社会の一員としての自覚を持つべきではないだろうか。
つまり、まずは社会を否定して自分の心をしっかり掴む。そして次に、「社会を否定した自分」を否定して、自分を社会に戻す。これが、「人間は個人だけでもない、社会の一員だけでもない」という意味となる。要するに、自分を社会の中に埋没させないで、社会の一員として機能させるということだ。さらに言えば、主体性を失うことなく、客観的に自分を眺める。
さほど難しいことは言ってないが、端的にいうと、「安易はダメ」、「何事も安易は禁物」ということ。「片方肯定、片方否定」でなく、「相互否定」の精神が人間を成り立たせる。要するに人間が安易であるというの事は、横着でズルいと自分は見る。何事も、「個人だけの状況」、「社会だけの状況」というのは悪であるとするのが人の健全な生き方ではないか。
個人優先、組織優先とするのは簡単であるが、組織の中で個人をどう生かすか、個人の中に組織をどう反映させるかを考えるのは、決して横着で安易な生き方ではない。正しい、正しくないというのも主観であるから、何が正しく、何が正しくないという疑問を常に持ち続けることが柔軟思考であり、固定と違って柔軟であることは、時代のニーズや変化に対応できよう。