他人が見た自分の顔と、自分が鏡で見る顔は違っている。右手にリンゴを持って鏡に向かうと鏡に映る自分は左手でリンゴを持っている。鏡の世界では現実とは全く真逆である。これが鏡の仕組み。声だって自分で聴く声は違っている。自分の声は録音して聴き、本当の自分の顔をみたけりゃ、リバースミラーを買えばよい。何か新たな魅力や発見があるかもしれない。
顔はともかく、自分を他人がどう見ているかを知ることはできない。したがって、普段相手が自分についてあれこれ口にするのが、相手から見た自分である。ネガティブな人はそのことを気にし、怖気づいたり動揺したりする。誰でも他人の言葉は気になるものだが、気にすべき場合と、気にすべきでない場合がある。ただし、自分以上に人は自分を見ているのは間違いない。
この考えに同調する奴は、「そうそう、人は目ざといよね」などというが、批判的な奴は、「人の見方なんか気にしないようにする。いちいち気にしてたらやってらんない」とにべもない。さて、どちらが正しいのか?正しいとか、違うとかの問題ではなく、紛れもない事実であって、自分が人を見るように相手も自分を見ている。ならば、「人の見方なんか気にしない」などは…
自分の見方を否定されることになる。もし口に出して、「あなたはこんなところがあるよね?」と言った時、「だから何だというんだ?お前のいうことなんか気にしてられない」と返されたらどうであろう?思いは人それぞれだろうが、そんな相手と人間関係なんか樹立できるはずがない。それでも関係を続けるなら、二度と相手のことを言葉にしないのではないか?
もっとも自分が上記のような言い方をされたら、それで終わったも同然だ。人生を強く生きるためのあれやこれやの言葉がある。そうしたあれやこれやの言葉を正しく理解する者、そうでない者がいる。たとえば、「信じるのは自分のみ。他人の言葉に惑わされないように…」、「他人はあなたについて適当なことしかいわないもの。気にしない方がいい…」などは代表的。
これはある意味正しく、ある意味間違っている。そこの判断が的確でないと、言葉だけを鵜呑みにし、間違った生き方をすることになる。自分のことは自分以上に他人が知っていると考える自分だが、だからと言って他人の言葉や見方を無視することは結構ある。どういう場合かを説明すると、長ったらしくなるし、上手く説明しきれないので簡単に言おう。
相手の発言が、「バカげている」と判断したり、明らかなる誹謗や抽象、あるいは妬みや露骨な蔑みみしくは返報感情丸出しの気晴らしや追い落としなどなど。まだまだたくさんあるが、率直・明確にいうなら、バカなことをいうのをバカと判断した場合である。バカという言葉は便利であり、実際世の中にはバカがいるし、バカに遭遇することは時としてある。
そういう時に、相手の言葉を気にしてどうなる?気にする人は、「どうなる?」と言っても答えられないかも知れぬが、先にも言ったように、バカの言葉を気にすること自体、自分もバカになっている。そういう場合は、キチンと相手を見定め、気にし合いどころか、まったく無視できるような自分を作っておくことが大事で、それらは子どものいじめ事件に感じることだ。
例えば、「死ね」。例えば、「ブス」。例えば、「なんじゃらかんじゃら…」。言われて自殺する子はどうしたものかと考えさせられる。言われたくないこと、言ってほしくないことを言われるのは確かに辛いことだが、小学生や中学生や高校生であっても、心無い言葉や仕打ちを受けて死に急ぐのを防げないものかと、いじめ自殺の報に触れるたびに考えさせられる。
「自分の身を守るためにどうすればいいか」を…。自分なら、傷つかないためにはどうするかではなく、傷ついてどうするかを考えるが、彼らはそこをしないのか?すれば頑張れると思うのだが…。いつもいうように人をいじめる奴は、「バカ」だと見下している。バカだから人をいじめて喜んでいる、としかいいようがない。だったらなぜにバカの言葉を気にする?
いつもいつも、堂々巡りのように考えてしまう。彼らにバカの言葉を無視できない何があるのか?ここにいじめ自殺を防ぐヒントがあるように思うが、いじめられて死なない子と死を選ぶ子の違いは、精神力の差ではないだろうか?精神力とは複合的なもので、「死ぬは絶対に嫌」、「生への渇望」という素朴な思いは精神力とは言わないまでも、弱さではないだろう。
「死ね!」と言われたから死ぬではなく、「死ね!」などという奴を、「バカじゃないのか?」と見下げてやったらいい。ブスだの何だの悪口をいわれて腹を立てる子は死ぬことはないが、素直で正直な子どには、「聞き流す」という手法が身についていないのは理解できなくない。何かを言われたら言い返すのが子ども…。それが子どもの自衛手段というものだ。
自分達が子どものころ、「ば~か」と言われたら、「か~ば」。その後に、「まぬけ」、「ほいと」、「チンドン屋」と続く。さらには、「お前のとおちゃんでーべーそ」というのが定番だった。「ほいと」とは当地の方言で「乞食」のこと。これが子ども御用達の謗り言葉である。ボキャのある子はさらに延々と続くが、ない子は言葉を返せない時点で敗北となる。
他愛ない子どもの口喧嘩である。喧嘩の効用が言われた始めたのは少子化時代になってからで、歳の似かよった兄弟の、明けど暮れども繰り返す執拗で過激な喧嘩は人間として成長していくための、最高の教材である。人間がお団子のように丸ければ互いに傷つけ合うこともないが、人は所詮は角砂糖であって、自分の角には気づかないが他人の角には敏感だ。
仲良しも大事だが喧嘩も大事、兄弟喧嘩で鍛えられた子どもは社会で逞しい。自分は一人っ子だったが、母親とは食うや食われるかの喧嘩の日々であった。大人に向かっていくためには知恵も必要だったから、悔し紛れにか、『議論に絶対負けない法』などの本をそのために買ったりした。人の感情の起伏にどう対処し、自分をどう主張するか、社会の構造はこれに尽きる。
幼いころからの喧嘩の経験がないと、他人の怒りや意地悪をされたときなどの、悪意への対処の仕方が分らず、パニくってしまう。そういう人間が、自己矛盾をきたし、引きこもりという事態に至るのではないか。自他を知るのは至難だが、喧嘩の時は、普段は抑さえている自分をさらけ出すなど、心情を露わにすることになり、相手の本心を理解する絶好のチャンス。
喧嘩の効用は山ほどあるが、自制しているときの人間と、怒りをぶちまけるときの人間の違いを知ることは大事である。人間の豹変に驚いているよりも、人の本質を知っておくほうが人間対処は楽である。人間に対して人並み以上に好奇心を抱く自はさらに、人が講じる様々な言動に対し、その奥に隠される動機や理由を考える。それが人間理解に寄与することとなる。
喜怒哀楽の発散より、人間を考えることが面白い。人間とは基本的に愛すべき存在と思っている。愛されるに値しない人間もいて、そういう人間を無理に愛する必要はない。神は分け隔てなく愛するかというが、本当かどうか疑わしい。神は自分を崇め、ついてくる人間には慈悲深いらしい。神や宗教に詳しくはないが、「神を崇めよ」そんな言葉が聖書にあったように思う。
人を理解すれば、どんなことでも許せるなんかあり得ない。人を理解することの一義的目的は、己の精神の安定である。人はどうでも自分の場合はそういうことだ。奴があのような言動をする裏には、どういう精神状態であるか?彼に何が起こっているのか?何に不満なのか?どう育ったのか?短絡的な怒りの前に、こちらを考える自分にとっての、これが人間理解である。
あることを自分はこうでも人は違う。自分のちょっとした言動に対して怒る人、それも人間だ。そういう人はそのように生きているわけで、一触即発である。「なんという短気な奴だろう」と思えど言えども、改善することはない。「瞬間湯沸かし器」をあだ名に持つ人間にもそれなりの理由はあろう。あるけれども、いきなり「ドーン」では迷惑が先に立つ。
人間は生身の生き物だ。その日、その時のムシの居所もある。いきなり感情を露わにされては許容できないこともある。ただし、すぐに怒る人の中には怒ってしまったことで自己嫌悪に陥る人もいる。その時に、「つい感情的になって悪かった」、と言える人は善意で良心的ある。彼らは、自らの怒りを上手くとは言えないまでも、コントロールできている。
悪いと分かっていてもすぐに謝罪できない人がいる。悪くないからと謝らない人もいる。前者はプライドが高く、謝ったら負けくらいに思っている。競争心が強く、人間関係を勝ち負けや損得で判断するが、斯くの人は頑固な人間が多い。自分が悪くないのにすぐに謝る人は、依存心の強い人だろう。頑固な人は他人より上にいたいからか、依存心は希薄である。
これらのことを踏まえて人を見る。判断はそれを前提にしたあとで総合的でなければ、見込み違いもある。若いころは多彩な人間に困惑したが、それらの経験を基に、今は人を楽しんで眺めている。この世の面白さは、雑多な人間の存在と思えるようになった。それぞれが、「我は、我は」とひしめき合って生きている。立派な人もダメな奴も入り混じって、それが社会。
ところで自分はどうなのか?社会でどう受け入れられ、人にどう受け取られているのだろう。そんなの分かるわきゃなかろう。すべては人が決めることだ。自分が自分をどうだか決めても、人には人の見方がある。よって、自分がどうだかなどは関係ない。それが自分が導き出した、自分という存在についての解釈である。自分はひたすら向上すればいいのと。