自分のことは性格も含めた一切を、相手に委ねる、決めさせる、というのが自分の考えだが、「自分のことを自分で決めないでどうする」などの反論はあった。が、それらの反論は無知だと思っていた。なぜならその考えは、熟慮の中から生まれたものだった。他人に決めさせるというのは、①他人を尊重してやる、②自分は自分のことを分からない、という前提から得たもの。
ならば、他人は自分のことを理解できるのか?少なくとも自分よりは、分かっている部分が多い。なぜなら人間関係とは、他人と自分の関係であって、自分に置き換えてみると、他人といるとき自分は相手ばかり見たり考えていることがほとんどだし、相手もこちらのことばかりを見、同じように考えている。主観・客観というが、物の見方の多くはこれに該当する。
主観とは、自分の見方や意見のこと。客観とは、他人の身になって自身の意見を考えたり、物事を見ること。どちらが正しいか?というより、主観的な度合いが強いと、客観的な視点が欠落し、客観的すぎても主観的な見方が損なわれる。善悪というより、バランスが大事だろう。主観的な人間は自信家であったり、独善的な思考傾向が強く、客観的人間はその反対となる。
さらには客観的な意見というのは、多数(誰から見てもそうである)意見と考えられる。主観的な意見は自身の判断による意見であるゆえ独善になり易いが、愚者ではなく賢者の主観は正しさにおいて勝る。つまり賢者の主観は単に、「我思う」ではなく、様々な要素や広い視野から導き出されたものであるからして、そうした思考の元に決められた考えは深遠である。
「思想」もそうである。話を戻すが、自分の物の見方は正しい、自分は優秀だ、少なくとも他人よりは秀でているなどとご満悦な人間は、自分のことを他人に好き勝手判断されるのを嫌がる傾向にある。自分のことを他人に決められるのは不愉快という裏には、自尊心や独尊性が大きく関係している。そうした人間を冷やかし半分に、「神を気取った奴」などといったもの。
それが講じ、だんだん自分が見えなくなる。自分は自分を見えているようで、実は見えている自分は勝手な思い込みの自分であったりする。自分を正しく見ることがどれだけ難しいかの事例は沢山ある。自分の多くを他人から教わったが、過去、最もショックで耳が痛かったのは中学一年のときのクラス委員の選挙のときで、自分は代表に選ばれるという確信があった。
確信とは慢心であろうし、子ども心にではあるが、周囲の誰より自分が優秀と思っていたのかも知れない。科学や地理や天文や歴史などに長けていたかからか…。小学校の休憩時間には知識の宝庫である図書室に入り浸っていたし、科学図鑑、昆虫図鑑、人体、宇宙、星座、探検、地球や世界の国々に加えて、時代劇映画や伝記や未知えの好奇心が人一倍強かった。
そうした知識を勉強や学習としてでなく、遊びとして得、身につけていた。だから、「物知り博士」というあだ名があり、それがまた物知りであるべき、ありたいという相乗効果も生んだ。人からも一目置かれていたそんな自分が、クラスの代表委員になるのは当然である。ところが、自分は選出されなかった。自尊心が音を立てて崩れる、とてつもない羞恥に追いやられた。
そんな時、クラスで最もバカ(成績も悪く、知能も低い)と言われていた、Mの一言が自分を硬直させた。「○○を代表にすると威張るからな~」という、一言だった。この一言が後の自分を大きく変えたと思っている。彼の言葉を聞くまでは、そうした自覚もなければ、認識もなく、「自慢」という言葉さえ、頭に置いたこともなかっただけにショックだった。人は自分をそう見ていたのかと…
家に帰って父にそのことを話す。「自慢するって言われた…」みたいなことを言ったのだろう。記憶にないが、父が自分に言った言葉だけはハッキリと記憶している。「自慢はよくない。でも自信はもたなきゃダメだ」。子どもだから、なぜに自慢が良くないその理由は分からない。自信は持てといっても自信は自慢と違う?この二つの言葉に悩み考え続けた。
いろんな本を読むようになってその違いが理解できた。自慢というのは他人のためにあるが、自信とは自分のためにあるもの。「自・他」という点において、二つは根本から違っていた。自分自身を生きるなら自慢はまったく無意味で必要ないことが分かった。が、自分を生きて行くために自信が必要なのも分かった。このように、「自慢」と「自信」の区分は簡単明瞭だ。
子どもの自慢は他愛のないもの、悪いことではないと思っていたのは、「おくにじまん」という児童書だった。「おくにじまん」の意味すら分からない年長か小一くらいに叔父が買ってくれた本で、それこそ毎日毎日読んでいた。世界の国々の子どもが自国の名産や建造物や出身有名人などを自慢する本で、あらゆるジャンルに精通する面白くも名著であったようだ。
エッフェル塔やオランダの木靴や広大なナイアガラや、知らない場所の知らない言葉がたくさん出てきてたが、食に飢えた当時の自分に強く印象に残ったのは、南国の子どもと日本人のやり取りである。南国の少年はいう。「ぼくの国にはマンゴスチンというおいしいくだものがあるんだ。マンゴスチンはくだものの王様といわれているんだよ」と、センテンスまで覚えている。
以後、自分にとってマンゴスチンは、果物の王様としてインプットされ、どんなものかと頭は巡るばかりだった。マンゴスチンなど当時のどこの果物店にも置いていないし、見たこともなかった。やっと巡り合えたのは40年くらい後である。「これがマンゴスチンというものか」、初めて目にしたマンゴスチンに、そのことだけに満足し、買うことも食べることもしなかった。
それまでは果物店に出回っていたマンゴーをマンゴスチンだと思っていたが、実際に本物のマンゴスチンという果実を目にしたときに、これまでの誤りに気づかされた。以後しばらく経ってマンゴスチンを味わうことになるが、後にも先にもその一度だけで以後は手にすることもなかった。5歳頃に初めて知ったマンゴスチンを後年で目にし、味わう感動はあったろう。
「おくにじまん」の意味も、随分後になって理解した。子どもの知能というのは、書籍の中身・内容に追いつくものでないのだろうが、それでも本を読んで様々な知識を子どもは得、積んでいく。「おくにじまん」という言葉の意味は分からずとも、世界の子どもたちが自国の何かを自慢していることは理解できた。やがて、「おくにじまん」は、「お国自慢」であるのを知った。
「三つ子の魂は百まで」というが、子どもの頃のことを自分はあれこれ覚えている。友人などに話すと驚かれるくらいに覚えているらしく、「子どもの頃のことはほとんど覚えていない」と友人はいう。この点を自分は特別に感受性が高かった子どもと分析するが定かでない。むしろ、覚えてないという友人が不思議だった。みんなかつては子どもだったはずなのに。
あった事、起こった事だけでなく、その時自分がどう思った、何を考えた、ということまで覚えているのは、それほど奇異なことだろうか?これについては、しっかりと自分を見つめていたと自らを分析してみるが、それすら定かでない。すべては感受性の高さがなせるワザであろう。楽しかったことの記憶はほとんどない。傷ついたこと、打ちひしがれたことばかりである。
近所のおばさんにはヒドイことを言われた。一緒に遊んでいた友人がある時からまったく出てこなくなり、誘いに行くとおばさん(母親)から、「もう遊べないから誘いにこないで!」と叱られた。下級生を連れて遠出すれば、「うちの子と遊ばないように…」とキツク言われたり、自分は悪い子なのかと、悲しくも傷つきやすい少年だったが、行動が萎えることはなかった。
幼年期に受けた哀しい体験の記憶が自分の支えになっている。自分という感性の高い人間は、結局一人が向いてるのかも知れない。自分の普通が周囲の異常で、周囲の普通は自分には物足りなかった。哀れと悲しみで打ちひしがれたことは多かったが、それでも屈託のない性格が、今でいうオタク風情になることはなく、快活的・行動的に生きてこれた。
親から指示された言葉や、躾や環境から身につけた習慣にしがみついて生きる者は、たとえそれがどのような習慣であっても保守的な人間だろう。固定しないこと、常に流動的であること、そういう自分だった。止まらずに歩き続ける自分であるが、歩いているときに止まれる人間も、止まっているときに歩き出せる人間も、それもまた革新に満ちた人間であろう。
人間というのは一旦歩きだしたら、歩き続けることが楽であり、一旦止まってしまったなら、動かないでいることが楽なのかもしれない。嘘をついて、その嘘を嘘だと認めないで生きるのが楽なのと同じように。根源的に今まで作り上げられてきた自分を壊すべく必要性を感じたとき、壊すことは勇気がいるが、壊す勇気、始める勇気、それに続ける努力も欠かせない。