世の中、善人ぶった悪人と悪ぶった善人がいる。コミュニケーション技術に修練度を重ねることで、善人・悪人どちらであるかを、簡単に見抜けるようになる。修練とはどういうものかといえば修行である。奥山に籠り、滝に打たれるなどの修行でなく、人間関係を忌避することなくブチ当たることで得る。面倒くさい人間もいるが、良い機会と捉えて向かっていく。
逃げるのは何時だって可能だから、人間関係の修養と見据えてブチ当たって行くが、自分は人間好きの一面を否定しない。「人間好き」とは、好き嫌いに関わらず人間そのものへの興味であり、害悪な人間こそが重要である。「汝の敵を愛せよ」というが、敵は痛いところを攻めてくる。「痛さ」即ち自身の欠点であり、「逃げたら負け」を常に言い聞かせていた。
敵は自分の短所攻略のヒントを与えてくれる貴重な存在で、嫌だと思う人間を避けていては自分にプラスにならない。相手のどこを嫌だと感じるのか、どう対処すればいいのか、そうしたことを考え悪人を定義付ける。何が悪人、何を善人とするかの定義は人それぞれだが、例えば卑怯者、欲な奴、無責任な奴を悪とし、正直、誠実、嘘がないのを善とした。
洞察力が向上すると上記したような、「善人ぶった悪人」や、「悪人ぶった善人」という複雑な種別ができる。表面外の裏の面が見えてくるようになるのは、場数を踏むことと感受性の高さが物を言うが、何より人間に対する好奇心がなせるワザであろう。確かに人間はそれぞれ違うが、全く違うというのではなく、個々の性向には傾向性があるのが見えてくる。
そこの部分が人間観察の面白さでもある。しばしば人間を善人・悪人などというが、定義し、断定するまえに判断移行の時期というものがある。つまり様子見の伺う段階と考えればいい。人間は奥深く多面的だから、早計に決めつけたり、分かった気になるのは危険である。人を見誤ると取り返しのつかないことになったりするが、そういう経験も少なからずあった。
されど人間が好きというのは人生の楽しさに繋がる。人間嫌いという人間もいるが、彼らの人生は苦痛であろうし、克服すべき年代をサボったように思う。人間には幸福と不幸が時々に存在するが、永続的な幸福や不幸よりも人間は、そうした時々の幸福を考えるときに絶対に避けられないのが、出会いと別離である。出会いよりも真剣に考えるべきは別離であろう。
人間は人生の中で様々な試練や訓練をするが、別離に十分耐え得る人間になることも、重要な訓練と思われるが、別れに耐え得るというのは、互いが敬愛心を抱いていなければならない。同情を良しとする人もいるが、決して同情は美徳ではなく、時と場合によっては悪徳であったりする。可哀相と思うことは、時に軽蔑につながっていることを知るべきである。
別れのときに善い人ぶるのは好きではない。どうせお別れするなら、嫌われてやるのが優しさというものだ。このことも友人などからあまり理解はされなかったが、自分なりの信念である。「別れても友達でいたい」はアリと思うが、友達でいる必要を感じないなら、嫌われてやるのが人情かと。恋人が離別し、新たに友達と関係するなど不器用な自分にはできない。
「別れても友達でいよう」は、差しさわりのない別れに際して、差しさわりのない言い方だが、それをやりたい人はやったらいい。寝食を共にし、すべてを知り尽くした同士が何の目的で友達でいるのか?それについて、「いいじゃない。それのどこが悪いの?」と、答える女がいた。女の常套的ズルい言い方で、「じゃあ聞くが、いいと思う理由は何?」と問う。
「悪くないからいいんじゃないの」というが、悪くない=良いではない。これは差し障りないを良しとする女の思考である。「別れた恋人と友達に戻るっていかなる心境か?」と、これが男の考えといえる。「私には、恋愛でなければ一緒にいられない関係というのがよく分からない。恋愛でなくても、友人として側にいてほしい人はいる」というのは男には迷惑な話。
恋愛関係を返上したことは、傷を舐め合うこと止める事だから、それをフラットに友達に戻るというのは、何かどこかを誤魔化すことになる。そういう相手と友達でいずとも、キッパリ疎遠となり、新しい友人を作る方が健全だ。そもそも腐れ縁などという関係は、視野を広げないで、手っ取り早い相手に固執する非社交的な人間ではないか?自分にはそうしか思えない。
別れ際に、「これからは友達として」という女がいるが、続いた試しがないのは、続ける意志がなかったからだ。相手がそうであっても、こちらにその気がないなら絵に描いた餅。友人関係を解消するのと、恋人を解消するのは根本が違っており、友人関係を解消したら残るのは、「無」であるように、恋人を解消したら、「友人」が残るなどの綺麗事は自分にとってはり得ない。
友人が進展して恋人になるとするなら、恋人が破綻して友人に戻るは不可解千万で、女の要望はあっても御免被りたい。「別れても友達でいよう」というのは、のは別れの際の定番である。現実的にそれを求めるというより、一種の方便であろう。「肉体関係にあった男女が普通の友達に戻れる事はあり得ない」という女の方が、綺麗ごとより現実的であろう。
否定し非難するわけではないから、別れた恋人と友人でいたい女は、そういう相手を見つけることだ。もっとも自分は相手に、「明日を見つめた方がいい」とにべもなくいう。何事にも答えはない。あるのは解釈と選択だ。「別れ」という選択においては、善人ぶった悪人でいるより、悪人ぶった善人でいたい。この場合の善人とは、自身に正直という意味をいう。
ある女はこういった。「女のズルさなのよ。友達に戻るなんて別れた時のダメージを癒す口実と、新しい彼ができるまでの一時のキープみたいなものだと思います」。こういう直言を吐ける女は信用できる。「互いが色々と知ってる分、友達に戻っても何でも相談できる仲…」というのも理論上のことで、互いが互いを知り合っているということが思い込みである。
人が人に何らかの相談をした時、相談に対する正しい回答は、相談相手の性格に基づくものであるべきだが、それほどに相手の性格や状況を知りながら、的確な回答を出せるなどあり得ないと自分は考える。所詮は、自分ならこうするという答えるにとどまるから、他人に相談する意味は、本質的には無意味である。もっとも多くの相談は、気休めであるのが実情だ。
人間関係をこのように深く取り沙汰すれば、究極的に人間は人を頼ることなく、一人で生きて行くものだ。差し障りのない程度や範囲で他人と手を取り合うべきで、究極の選択は自己の責任の上で、自己判断でなされるべきである。よしんば他人に答えを貰う場合が、結果の良否にかかわらず、自らが責任をとるという覚悟が欲しい。相談は罪を作る場合が多い。
タイムリーな話題でいえば、数日前にコメントを寄せた人物は、いかにも悪ぶった善人である。「よくも、背広やの悪口を書き込んだな!」と荒っぽい口ぶりに始まり、「覚悟しとけ!」と凄んでいるが、こうした露骨で攻撃的な物言いは、ムシも殺せないような善人が多いのが経験則である。真の悪人はこうした露骨な言い方を避け、相手を怖がらせたりするもの。
こうまでセビロ屋批判に立腹するのは、常連客というより身内関係者という推察もできるが、自分の推理はセビロ屋とは無縁の人物とみた。「プリントした。郵送する」の記述に笑ったが、文面からセビロ屋にゆかりの人物とは思えない。昵懇というなら、電話をするなり店に伺うだろうし、「損害賠償するように言うから」という文言は不自然であること極まりない。
「プリント郵送」はセビロ屋のある広島在住というより、遠方居住者の可能性が高いとの感じを抱く。あげく、「セビロ屋」を、「背広や」と誤記するなどは、セビロ屋を知る人間らしからない。これらの理由からこの人物をプロファイリングすると、自分の書き込みをクレーマーと即断して腹に据えかね、文句を言うべくセビロ屋とは近縁であるが如く振る舞っている。
「損害賠償するように言う」などの不可解さからして、ネットで苦情を書き込む消費者に嫌悪感を抱く輩か?もしくはアル中患者の戯言か?はたまたネット徘徊を楽しみとする暇人のいずれかであろう。クレーマーに怒り感情を抱く、商店主の可能性もある。いずれにしろ、心優しき善人風情が、自らに箔をつけるために凄んで見せるのが後の書き込みから明々白々である。
自分の返答で当初の目論見は外れ、「500万の訴訟の始まり」などの記述は支離滅裂な児戯ごとき振舞いで、ここまでになると笑い話というしかない。ネット内にはお店に対する消費者の憤懣やるせない記述も見るが、消費者が泣き寝入りした時代に比べ、情報交換を行えるようなったことで、悪辣な企業や店舗は名指しで批判され、敬遠されることになる。
セビロ屋の蛮行を、「あり得ない」としたのは憤懣の発露というより、商売の根本を逸脱した悪行の断罪である。今回の人物は、注文とは異なる商品を押し付けられようと、文句も言えずに代金払う奇特な人物か。であるなら、こうした気弱な善人が、物言う消費者を嫌悪し企業に加担する。あからさまな暴言は無理を承知としつつ、己が不甲斐なさの憂さ晴らしであろう。