「犬も歩けば棒に当たる」というのがカルタにあった。意味は、「犬が歩いていたら棒に当たる」。説明など不要だが、どうしてこんなことがカルタにあるのか、子ども時には分からなかった。カルタには慣用句や諺が多く、説明をされると、「なるほど…」と思えるような深い意味の語句が多いが、「犬も歩けば~」はいかにも変だった。ずっと疑問に思っていたのを覚えている。
犬が歩いていたら棒に当たった。だから、何だというのか?素朴な疑問としては妥当だが、「家でじっとしていれば交通事故に遭わないだろ?飛行機に乗らなければ落ちることもないだろ?」と説明してくれたオッサンがいた。小学生の高学年だったか、自分はそれに納得した。確かに、そういわれればそうである。だから家にじっとしていろってことか?
多少は不満もあったが、意味に疑いはなかった。ところが、オッサンの教えてくれた意味は正しくなかった。おそらくオッサンは自分で考えたのだろう。正しい意味は、①でしゃばると思わぬ災難にあう、余計な行動を起こすべきでないとの戒め。②じっとしていないで何でもいいからやってみれば思わぬ幸運にあうことのたとえ。①はともかく、②はオッサンの意味とは真逆。
それにしても、②の意味は本当か?棒に当たるは不幸というより、幸運のような言い草だ。①の棒に当たるは、人間に棒で叩かれるの意味で、犬にとって明らかに不幸。ところが、②の棒に当たるを、幸運に当たるという解釈が近年なされるようになった。近年がいつだかは定かでないが、20年、30年前にはなかったのではないか?とにかく、動けば幸運がくるという例え。
ふと、頭を過ったのが、寺山修司の『書を捨てよ、町へ出よう』(1967年)である。知識を貯めこんで学に寄せれば偉くなって出世できるという時代に、このタイトルは衝撃だった。が、どことなく説得力もあり、若者が部屋の中にくすんでいてはダメだと背中を押されているようだった。思うに自分は内省的なところがあったが、思春期には異性を求めることに躊躇いはなかった。
「犬も歩けば棒に当たる」が幸せを意味すると、50年前から言われ始めたということは決してないが、朴訥でナイーブで感傷的な東北人気質の寺山だが、実は行動の人でもあった。劇団『天井桟敷』を主宰し、アバンギャルドな面を持っていた。肩書の中にも前衛詩人がある。ヨーロッパの前衛芸術と、出身地である青森県の土着文化の混合的な影響を多分に持っていた。
さて、犬が外で歩いていたら、棒で叩かれる時代は現実にあった。理由はかつて犬は食肉であったからで、江戸時代には犬を使った料理を載せた料理本も発売されていた。武士階級では犬食は禁止されていたが、町民には許されていたので食されていたし、家畜という扱いが強かった。それプラス野犬の被害も多かったことで、犬は棒や刀で追い回されていたようだ。
「犬が歩けば棒に当たる」が、幸せを意味するというのはどうにも馴染めないが、最近の社会は、ネガティブな表現や、乱暴言葉が規制される風潮があり、その影響かも知れない。少なくとも寺山の『書を捨てよ、町へ出よう』の時代に言われ始まったことは断じてない。ところで、ウォーキングを再開してもう4か月になろう。気持ち的には4~5年は歩くぞの意気込みである。
そのためにスニーカーをまとめ買いした。ナイキフリークだった自分がどういうわけか、アディダスである。理由は簡単、試着した際にクッションが良かったことで、とりあえず一足買ったが、実際に歩いてみるとこれがまた良かった。ナイキよりも、少しばかりソールに厚みが増し、それがアディダスに変更となる。以前のアディダスはソールが硬かった。
自分のペースだと一年間もてばいいので、ソールが減り具合を気にし、気をつけなければ、足裏筋膜炎で歩けなくなる。それにしても2015年10月から2016年9月にかけて、総歩数5,533,175歩、距離にして 3,826.5kmは、北海道の択捉島の端っこから与那国島の端っこまでの、3328kmを500kmも超えた。自分は、「塵も積もれば山…」の格言が好きだが、まさに数字の魔力。
子どものころお金持ちのことを、「百万長者」と言ったが、いつの間に、「億万長者」になったのか。「毎日1円貯金したら1年で365円になる」などと言い合ったのを覚えているが、365円が大金だったのだろう。当時のラーメンが50円だから7杯分になるが、現在のラーメンが700円とすると、約5000円か。先日、中1女子が20万円もの詐欺被害に遭ったのには驚いた。
彼女の携帯電話に、「短時間でお金を稼ぐことができる」などといった内容のメールが届き、何やかんやで20万の現金をATMで振り込んだという。事件の一報を聞いたときは詳細がなく、女生徒が20万の現金を持っていたことに驚いたが、実は少女は自宅にあった現金に手を付けてしまったらしい。20万送金後、犯人は再び金銭要求をし、今度は祖母にお金の無心をした。
それで発覚したというが、これは少女が悪いというより、親の管理責任の一語に尽きる。自分たちが中一の頃、金儲けなんか興味もなく、考えもしなかったが、昨今はこのような誘惑、魔の手が携帯に着信されるのだという。着信されても、お金が用意できなければ被害には合わないが、少女は家のどこかに大金があるのを知っており、それを無断で持ち出す躾も問題だ。
そういえばウォーキング途中に生徒手帳を拾った。真新しい中学一年生の男子のもので、在籍の中学に届けたが、中身を見て意外だったのは、生徒の心得の最初に、インターネットについての注意や規制が書かれていた。項目だけで詳しくは読まなかったが、出会い系サイトなどのアクセスを禁止していた。最初は驚いたが、こういう時代であることを実感した。
歩いているといろいろある。棒には当たらないが、飛来物が顔に突撃されたのには驚いた。その飛来物は自分に激突したあと急カーブして木に止まった。何かと思って近づくとタガメだった。タガメは子どもの頃に川や池で掴まえた。田んぼに棲むカメだからタガメというんだろう、くらいの想像はあったが、非常に堅い甲羅に覆われ、当たった時はそりゃ~痛い。
直後に思ったのは、数センチ上だと眼球である。まさか刺さって失明したかも…、と不幸中の幸いと安堵したが、そうであるなら、棒に当たるどころではない。それにしても、タガメが飛ぶのは初めて見た。数日前は側溝に落ちた。なんでまた側溝に…。その日は猛暑で、歩きながら顔をタオルで覆い、タオルが落ちないよう顔を真上に上げ、数歩歩いたところで、ドスン!
まさかのドッキリカメラの落とし穴に落ちたようなもので、予期もしていないので驚く。その時に、瞬間的に右手で体を支えた。なぜか両手ではなく右手一本で70kgの巨体を支えたことで、体は溝に落ちたが顔をカバーできたのだった。右の手の平は毛細血管が破れ、内出血をしたが、よくぞ瞬時に顔を守ったものかと、自身の俊敏さを改めて誉め称えたのだった。
どんくさい高齢者なら、腕をつけずに顎か頬を強打下であろう。側溝の底よりも約30cm上が道路だから、そこに顔が着くのは側溝の底に着地するより速い。「なかなか自分も大したもんだ、まだまだ捨てたものではない」という、安堵と自慢に浸っていた。よくもコンマ0秒で人間の脳は、体を守る指令が出せるものかと、人体のメカニズムの凄さにも感嘆させられた。
危ない、危ない、ちょっとした油断が危機に直結する。二度とこの失敗はないだろうと、いい経験だった。危険な目に遭ったのはこの二点だが、こういう面白い体験もあった。自分は歩くスピードが速い。前方に誰かいると、障害物とみなして速度が上がる。ある人物を追い越したのだが、しばらくすると後方から足早に歩く音が大きくなる。振り向いたりはしないが気になった。
その音は近距離になり、自分の横に来たのを見ると先ほど追い越した男だった。男は自分に声をかけた。「歩くの速いんですね」、「普通ですよ」とさりげなく返す。すると男は、「普通なのに、息遣いが荒いじゃないですか?」という。何なんだこの男は…。強がりか?皮肉か?負け惜しみか?くだらん事を言う奴だ。そんな言い方する男に返答する気も起らない。
無視して歩いていたら、ずっと横についてくる。男は早歩きができないのだろうから、駆け足気味で並走してくる。うざいと思いながらも無視していたが、数キロ先で下がっていった。張り合うつもりだったようだが、「普通なのに、息が荒いじゃないですか?」というようなことをいう人間である。面白いというか、変わってるというか、これも新たな人間の発見である。
言葉一つで、好かれない人間の類というのは分かる。本人には分からないことだろうが、初対面の相手にはそれ相応の物の言い方はあろう。「頑張ってますね、ついて行けるか分からないけど、ご一緒いいですか?」というなら、「いいですよ、一緒に歩きましょう」などと和やかな会話にもなろうが、いきなり皮肉とは何とも偏屈人間であり、相手になどしていられない。