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Channel: 死ぬまで生きよう!
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他人への助言は無用 ②

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「優しいんですね。そういう男の人好きです」とおだてられ、女に手なづけられる男。「優しさとは逞しさ」という認識を男が持っていれば事情も違ってくるが、近年の男の優しさはヘタレに見える。母親が過保護に、「ぼくちゃん」風に育てるからか?しかるにすべての母親が息子を、「ぼくちゃん」に育てるとは思わないが、ならば弱い男はどう作られる?

強さが克己心なら弱さはなんだろうか。脆く壊れやすいものではないかと。したがって弱きものは支え合い、助け合わねばならないが、そうした相手の弱さにつけこんだり利用したりするものは少なくない。そういう人間は強いのではなく、ズルいのであって、ズルいが強いわけがない。頑丈で屈強であるのも強さとするが、そういう人間はズルさとは無縁である。

弱さは時にズルさに移行するが、それをズル賢いというのはある面で評価になっている。「狡猾」という言葉がある。ズルく悪賢いの意味だが、「彼は狡猾だ」といえば、評価となる場合が多い。狡猾の代表といえば頭に浮かぶのが戦国時代の真田昌幸か。彼は、「表裏比興の者」と言われた。比興は卑怯のことで狡猾に近いが、「表裏比興」は誉め言葉である。

ズルいが誉め言葉なら、ズルい女は誉められたものかといえばどうだろう。ところが、「狡猾」という言葉は女性にはない。なぜだろうか?自分が思うに女に深遠なる狡猾さはあり得ない。女のズルさは小ズルいといわれる。「女の浅知恵」というように、戦国時代の国盗り物語はのるかそるかの大変な事業である。もっというなら、三国志や水滸伝の狡猾さは背筋が凍る。

大陸のスケールの大きさは、その広さにも起因する。尾張を盗った、遠江を盗ったに比べて広大さがまるで違う。中国には俗にこのような言い方がされている。「老人に、『三国志演義』を読ませるな。子どもに、『水滸伝』を読ませるな。男に、『西遊記』を読ませるな。女に、『紅楼夢』を読ませるな」と…。なぜかといえば、中国人の虚々実々さを描いた古典である。

中国には「四大奇書」というのがあって、『三国志演義』、『水滸伝』、『西遊記』に『金瓶梅』である。「奇書」とは、「世に希なほど卓越した書物」の意味。これを定めたのが明代末期の文学家で戯曲家の馮夢龍(ふう・ぼうりゅう)とされている。ところが清代に入ると『金瓶梅』が『紅楼夢』に変わった。理由は、『金瓶梅』が何度も発禁になったからだろう。

「四大名著」と呼び名も変わった。『三国志演義』の武、『水滸伝』の侠、『紅楼夢』は情の文学とされている。昔から中国の大御所たちは、『紅楼夢』をいつもカバンに入れ、数百回も繰り返し読んでいたという。同書は最初は非常に読みづらく、最後までまともに読める人がいない。二回目はやや面白くなるが二回目くらいではあまり熱中する人はいない。

第三回を読み始めると中毒状態になり、仕事や学習をさぼってでも読むようになると形容されている。『源氏物語』が(日本統治時代も含め)台湾で全く流行しなかったのも、『紅楼夢』が原因とされているが、毛沢東も紅楼夢を愛読していたという。残念ながら『紅楼夢』を読む機会を逸した自分だが、その変わりという言い方は適切でないが、『紅夢』という映画を観た。

チャン・イーモウ監督とコン・リーのタッグで1991年ヴェネチア国際映画祭銀獅子賞、第64回アカデミー賞外国語映画賞を取っている。「死ぬまでにこれだけは観ておけ」というサイトにも紹介されているが、あまりに悲劇的なる圧倒的パワーに身が固まった。中世ヨーロッパの騎士社会、日本の武家社会はいずれも男尊女卑であるが、中国の男尊女卑思想は凄まじい。

新中国成立後の1950年代に起こった、「紅楼夢論争」(紅楼夢研究批判)では、マルクス主義文学者の間では、『紅楼夢』を男尊女卑の封建主義に反抗する階級闘争文学であるとする見方が一般的となった。文化大革命で古典の多くが、「毒草」として迫害された中で、毛沢東の公式発表では、『紅楼夢』について、「歴史小説」として読むように勧め、以後は版を重ねた。

「弱きもの、汝は女なり」は、ハムレットが母親をなじった言葉であったが、誤訳されて、「女は弱い」ということに誤用されている。女が強いのは生命体として当然に強く作られているわけだが、「うちの嫁が怖い」という亭主は、嫁に遠慮もあってか躾られず、気づいたら強くのし上がっていたということだ。勝手に強くなったではなく、夫が強くしてしまったのだ。


何も言わないでブタ小屋状態さえも我慢をし、言われないのをいいことに、どんどんのさばって行った妻に、忍耐の緒が切れて捨て鉢な表現しかできない、そんな夫の物言いに妻が切れた。黙って我慢をし続けると、唐突な言い方になるのだろうが、それを自分の罪の一端であると考えない妻である。以後はギクシャクするしかなかった。覆水は盆に返らず…

喧嘩別れをした恋人や離婚に至った夫婦が、ここぞといわんばかりに相手の悪口ばかりいうのはバカである。他に相応しい言葉はあるが、端的に、「バカ」といっておけばよい。相手には言わないし、いう必要も感じないから、「バカ」を贈っておく。他人と一緒に(過ごして)いて、相手ばかりしか見えず、自分が見えない人間は差別用語的に言えば「めくら」であろう。

そういえば先日ソフトバンク社長の孫氏が、つい、「めくら」と言ってしまい、後で謝罪したばかり。「目の不自由な人」もしくは、「視覚障害者」というのが差別的でないとされている。「耳の不自由な人」もかつては、「つんぼ」であった。いけないものは、その理由を説明することなく、「いけない」と九九の暗唱のように機械的に教え込むのが良いとは思わない。

障害者に障害者というのは差別ではないが、視覚障害者に「めくら」というのは差別とされる。孫さんも差別意図はまったくないが、言葉と意識の問題はまるで別である。人の腹の中は見えない以上、言葉で判断するしかないというの滑稽である。「内」が見えない以上、物事は「外」で判断するしかない。正しかろうがどうだろうが、それが共通認識であろう。

差別意識がある時は、どのように言っても差別意図である。吉田拓郎の『ペニーレーンでバーボンを』が曲中の、「つんぼ桟敷」という表現で発売禁止になったことがある。「桟敷」とは、相撲や芝居などで一段高く作られた見物席(桟敷席)のことだが、「つんぼ桟敷」は遠くて舞台の声がよく聞こえない席のことをいう。放送禁止用語に指定されている。

法送禁止用語を使えば放送禁止、つまり発禁となるのは仕方がない。「めくら」、「つんぼ」、「おし」という言葉が差別用語にされたのは、好きでそうなったわけではない人たちへのささやかな愛情だろう。が、それによって、「おい、そこに居るめくらの八つぁん、聞こえてるか?」などの古典落語ができなくなった。弱者保護なら文化の後退も仕方がない。

ハゲ、デブ、ブス、チビは障害ではないので許されているが、政治家の、「このハゲ~~~」には笑ってしまった。「ハゲ」に笑ったのではなく、「そんな風に言われた自分は被害者です~」に笑えたのだ。「ハゲ~」と言われたら、「じゃかましいわ、北向きの鬼瓦みたいなドブスが!」くらい言えばいいのよ。売り言葉に買い言葉、下品には下品がバランスだ。

自分が良いと思う女を人はブスだといった。ブス好きを近年は「B専」というらしいが、「ブスが好き」と、「ブスも好き」は根本が違う。ブスが好きという趣向は分からぬが、容姿ありきでないなら、ブスも好きというのは普通にあり得るし、変わったことではない。究極の選択でいう、「美人で性悪」と「ブスでいい子」…、さあどっちなら、迷わず後者である。

「余計なことかも知れないが、あの女は止めた方がいいよ」と言われたことがある。そういうのはなぜか女がいうし、「あの子は男をダメにする」というのもあった。そんなの余計なことだろう。いわれて、「ああそう、分かった。じゃ、止めとく」なんてあり得んだろう。女関係で悪い噂があっても、それは男に関係ないし、「忠告どうも」と言っておけばいい。

なぜかこういう余計なことを言いたがる女はいる。言ってくる女は親切な忠告のつもりだろうが、人の見方はあてにならない。感じ方も人と自分とではまるで違い。したがって、他人の忠告は相手の脳が判断したもので、自分は他人の脳を持ち歩いていない。あの女はダメよと言われてダメな女がいたためしがない。あの女はダメという奴が、おそらくダメではなのだろう。

他人の一挙一動すべて助言しようと待ち構えているような人はたまにいる。「暇人の極め付け」とでもいえるこういう人の意見は、特別な何かというより、一般的なことを並べているだけで、さほど重要でないこと多し。本人は助言や忠告のつもりだろうが、知ったかぶりのお節介焼きである。人に助言をしようとの意図で、自分が構われたいの動機は論外である。


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