かつて、「仮面」といえば正義の使者の変装スタイルだった。古いところで、『月光仮面』、『七色仮面』、『太陽仮面』、比較的新しいのが、『仮面ライダー』シリーズだが、最新では、『変態仮面』というのもある。正義の使者が変態とは時代も変わったものだ。彼らは顔を隠して正義の味方として悪と闘う。仮面といってもターバンにサングラス姿の月光仮面。
同じくターバンにサングラスなしの太陽仮面らは布切れ一つで安上がりだが、七色仮面のゴージャスなマスクは高級品で、コストもかかっている。自分で作るわけにもいかず、どこかに発注するのだろうが、受注業者にすれば七色仮面のマスクを作っているとの誇りはあったろう。特注オーダー品で数万円はするだろうが、必要経費として確定申告をすればよい。
仮面ライダーも同様で、どこかの業者に秘密裏に作らせているのだろうが、あれも結構値段は張るだろう。それにしても変態仮面だが、彼のコスチュームはもっとも安上がりである。むきむきマッチョボディに女性のパンティを頭にかぶっているが、我々の世代からみるとあの様相はマヌケとしていいようがない。これが現代のヒーローというのに驚くばかり。
プロフィールを調べてみると、刑事の父とSM嬢の母の血を受け継ぐ高校生がパンティを顔にかぶって変態仮面に変身し、悪人を懲らしめるというが、時代はまさに新しいものを生んでいる。ヒーローが仮面を被る理由は、何処の誰か分からなくするためだが、パンティを被る理由は何だ?彼らは驕らず、手柄にもせず、仕事を終えればどこかに帰っていく奥床しさがある。
そうしたヒーローものの仮面はさて置き、現代における仮面というのは、心理的な別人格を現わす仮面である。女性がいわゆる、「女らしく」あることに縛られ、「ノー」といえずに引き受けてしまったりが多いように、男は、「男らしく」という鎖に縛られ、苦痛や悲哀を表せずに心にしまうことを当然とし、それを、「男らしい」と評価され、自分もそのように育ってきた。
そうしたかつての、「女らしさ」は廃り、「男らしさ」も廃れていると思われるのは、中性的人間や、オカマや女装愛好家が際立っている現代である。「男らしさ」という価値観に縛られ、それを目的として自己啓発した者にとっては、オカマや女装などはどうにも受け入れられない。あれは芸能界という特殊世界御用達で、一般社会であの手のものが受け入れられる道理がない。
クルマのディーラーに行ったら、店内にオカマがいたり、スカートを履いた営業マンがおネぇ言葉で応対するなどあり得ん。女性も気配りのあるタイプは接客面において評価も高いように、「女らしさ」や、「男らしさ」が決して過去の遺物というのではない。して女が別の自分を装うことを、「仮面」を被るといい、男が虚勢を張って逞しく見せたり、自己を固めるのを、「鎧」を纏うという。
どちらも本当の自分を生きてはいない。鎧や仮面と一体化した人生は、「自分らしさ」が表出する隙間もなく、別の自分を生きて行くことになるが、結局、仮面を取れない、鎧を脱げない人は、自分の心の中を見せることを怖れているからである。心を開くことで相手に嫌われたり、見下されたり笑われたりバカにされたりを怖れているのだろう。が、必要な場合もある。
社会生活を営む上でのある場面では、適応のために仮面や鎧は必要である。ただし、それを取ったり脱いだりの場がないと、感情を抑圧しただけでは「自分らしさ」を現わせない。いかなる悲しみにも耐え、何があっても平静を装う男は、むしろ小物かもしれない。辛いときには涙し、楽しい時には笑える男が魅力的だ。我慢も必要だが、バカもやれる男がいい。
竹田圭吾は自身の臨終に当たり、我が息子に、「泣くこと」と戒めていた。彼の理想とする息子象は、たとい父の死にあっても歯を食いしばって泣かぬ男であったと推察する。自分のために泣いてくれる息子を望んではいなかったようで、土壇場においても父のこういう教えの真髄は、将来においてどこかの場面で、教訓として花開くのではないだろうか。
(あの時の父の言葉)というのが、脳裏に浮かび、歯を食いしばる場面というのは必ずやあるだろう。自分も経験があるが、父の教えというのは、「今」ではなく、いつしか先を見据えているものかも知れない。母親は目の前のこと、目先のことに注意を与えるが、父親はいつも遠くを見据えている。男親、女親の子育てのバランスというものは斯くのものかも知れない。
子どもに「泣くな」という教えもあれば、こういう話もある。プロ野球横浜DeNAベイスターズの本拠地横浜スタジアム取締役会長、横浜エフエム放送取締役社長ほか、多くの企業を経営統括する藤木幸夫氏はその著書『ミナトのせがれ―The digest of my life』の中で以下のエピソードを紹介する。藤木氏の父親は横浜港湾荷役のフロンティアの成功者の一人であった。
その父が藤木氏の母の葬式で人前を憚らず号泣したという。普段は強く、逞しく、人前で涙を見せるなどあり得ない父の号泣に触れ、共に涙を流した藤木氏の心の痛みが、父の涙で癒されたと、以下のように記している。「あのとき、涙を堪えて泰然としていられるような父親だったら、父幸太郎を成功者としてしか見なかったかも知れない。――(中略)
一個の人間として、男とはかくあるべしの姿を私に見せてくれた。私のかけがえのない母のために、みっともないほどあられもなく悲しんで、とどまることを知らぬげに、実に惜しげもなく涙を流してくれた」。藤木のエピソードは人間が、「鎧」を脱ぐことの大切さを述べている。企業人としてビジネス上の戦略や、人間関係の機微などの点から鎧は必要であろうが、脱ぐときに脱げるなら人間的である。
女が簡単に仮面を取れないように、鎧を脱ぐことに抵抗感を感じる男は多い。仮面を被ったままだと本当の自分の顔を出せないし、自分が相手に、「こう思われたい」という理想にしがみつくためにか、自分から仮面を脱ぐことができない。鎧をつけたままでは自分らしさを忘れ、感情が鈍くなるし、楽しさにも喜びにも鈍くなる。面白い事があっても笑わず反応しない。
人からこう思われたいと思う人は、そう思われるための虚しい努力はしても、人はそれを素だと思っている。自分に自信がないから人に媚びるが、人によく思われるための努力は疲れよう。例えば自分が冷たい人間か、温かい心を持った人間か、自分でもよく分からない。それを無理に温かい人間であるように思わせようとすると、いい人を演じねばならない。
「いい人」でない人間が、「いい人」だと思わせようとすればしんどいはずだ。自分が「いい人」であるハズはないと思っていればぜんぜん楽。そのように思って自然に行動していても、「あなたはいい人」などと思う人もいたりする。反対に自分が、「いい人」を演じているときに、「あなたは人間としてだめだね」と言われたりもする。所詮、他人は正しく相手を見ることはできない。
自分も他人を正しく見れないように…。時々の恣意的な思いが時々であれこれ変わったりするのが人間である。ありのままの自分を出し、人に好き勝手な捉えられ方を楽しむ自分には、自身の中で起こる作り事や作為に対し、自らが嫌悪を抱いたりする。そこで導き出されるのは、「ありのまま」という自然さ。人はいろいろだから、お好きなように自分を捉えてもらえばいい。
「いい人演じ」などは所詮は無意味。演じていてもそうは取らない人もいる。自分などは演じることには敏感だから、つい反対だと思ってしまう。演じ切るのは難しい。騙せる相手もいるが、騙せない相手を見極めることはできない。そこを考えても、無理せず自然に生きる方がよい。「あなたって冷たいのね」と言われれば、「そうかも知れないね」という。
「あなたって優しいのね」といわれれば、「そう見えるんか?」という。相手の腹の中は見えないから、否定には同意し、評価には疑問で丁度よい。よくない対応は、「あなたって冷たいのね」、「そんなことはないよ」といい、「あなたって優しいのね」には、「そうだと思うよ」などと答える。前者は弁解ととられ、後者は単純とされる。人間は複雑だからそう思わせる方がいい。
近いものほど見えにくい。もっとも近い自分が見えないようにである。だから、他人に決めてもらえば、その人なりの自分が一丁上がり。相手が10人いれば10通りの自分が存在しよう。時に相手は都合のいいように接してくる。「あなたっていい人ね。だからアレ買って!」と、露骨にはいわないにしろ、褒めれば心が緩み、相手を批判できなくなるのを知っている。
軽薄な人間関係とは利用し、利用される関係だ。「今、困っているんだけど、お金かしてくれない?」、「どうしたの急に?」、「どうしても来週までにお金が必要なのよ。お願い! 必ず返すから」、「分かった。来週、返してね」ということにもなり兼ねない。本当は貸したくないけど、自分は相手に好かれている(と思わされている)。だから、貸してあげないと嫌われてしまう…
人に嫌われたくないという前提で行動すると、人生なんか人のためにあると同然となり、場合によってはめちゃめちゃになる。自分が自分らしい行動をとって、それで嫌われるなら嫌われてやればいい。試されるのは自分であって、人のためになんか生きてはいない。嫌われてもな~んも困らんよ。と、自己実現してる人間は他人に媚びず、強く生きていける。