などと口癖のようにいうやつがいる。「何か面白いことない?」、「楽しいことないか?」などといったりもする。毎度お決まりの言葉を、「決まり文句」というが、思うにこういう言い方をする輩には決まった特徴がある。あくまで自分の印象だが、お調子者、軽薄、利口でない、受動的、依存などで、本人は悪気はないが、もう少しマシな言い方もあろうと思わずにいられない。
自分はこういう言い方はしないし、頭の隅にもない。「楽しいこと」、「面白いこと」を人に聞くというのがどうにも理解できないからだ。「いいこと」、「楽しいこと」ってのは、個々の見方、感じ方次第で、人に聞くことではないだろうと我ながらに思う。だから、こういう言い方をするやつには、「ないね~」というしかないが、あまりに度を超すと答えることすら億劫になる。
あまりにしつこいと黙っていたり、「そんなこと人に聞かなくても自分で探せよ」と、ピシャリといっておくこともあった。こういう言い方をしないやつには人間としての安定感というものが感じられるが、性格的には真摯、真面目、信頼、能動性、落ち着き、賢明、理性的などを感じる。楽しいことは個々の価値基準という道理が分かっていれば言わない言葉であろう。
いう人間といわない人間、二者の性格は対照的である。「何かいいことない?」とすり寄ってくる人間は実は面倒くさい。言っても仕方がないからいいもしないが、「自分の楽しみを人から与えてもらおうとするなよ」と腹では思っている。人は誰でも意識的、あるいは無意識に人をいろいろ判断するが、なぜそうするのか?「正しい人付き合いをするため」か?
そういうこともあるだろうが、基本的には自己防衛と考えられる。自分にとって害を及ぼす相手か、差し障りない相手か、癒しの対象として相応しい相手か、などの判断は、意識、無意識にかかわらずする。したがって、人を見定めて付き合うのは当然かなと。人は必ず嘘をつく。嘘の中には仮面を被ることも含んでいるが、人が仮面を被るのも実は自己防衛でもある。
「自分をいい人だと思わせたい」。「こうすれば嫌われない」いずれも列記とした自己防衛である。一口に仮面と言っても、「会社用の自分」、「友達用の自分」、「家族用の自分」など、色々なバージョンがあったりするが、気にすることはない。隠したい自分などは誰でも持っていて、それが短所とは限らない。人は長所さえも隠すというのを体験として知った。
短所は自己嫌悪であったりするが、実は長所も自己嫌悪になり得るということだ。ただし、長所といっても他人が見た長所であり、本人が長所と思っていない場合もある。たとえば、可愛く美人の女は幼少時期に周囲から、「かわいいね」、「きれいね」などと褒められることが多い。自分でも嬉しいと思っていたが、思春期くらいになると周りからの嫉妬を買う。
それで意地悪されたり、嫌味をいわれたり、陰口を言われたりですごく傷ついてしまった女性がいた。最初は、「わたしはかわいくない」などと言い返したが、それがまた嫌味にとらわれたり…。だから、言葉を返さないようにした。すると今度は、「思い上がってる」、「いい子ぶってる」などと言われる。女の世界は、妬みと陰口で成り立つ世界であるのに驚いた。
彼女は自分を出せないばかりか隠すこともままならない。どうにか凌いで生きるためには仮面を被るしかなかった。自分が自分で居れないという苦痛が、彼女に仮面の効用をもたらせたと、そんな告白だった。仮面といえば、「悪」に思われるが、そうばかりでもない。相手の気持ちを考えれば考えるほど、「仮面」を被る必要があった。それは自分を守るためでもあった。
屈折した生き方ではあるが、美人に生まれていいことばかりではないのを知った。こういう仮面もあるという理解もした。とりあえず何らかのメリット、長所を生み出してくれている。その後彼女は心が成熟し、他人のやっかみなどに適切な対応を得るようになるまで仮面を離さなかったという。美人は妬まれ、ブスは虐げられるという世界は言葉は違うが男にはない。
いい男やイケメンをやっかむ心理は男にないわけではないが、妬んでどうなるものでもないという理性が働くと思われる。それが感情をコントロールするが、女はそれができないのだろう。「ないものねだり」をしてもしょうがない、というのが自己抑制となればいいのだが…。一般的に、「仮面」という言葉はネガティブに捉えられている。その代表的なのは、「仮面夫婦」という言葉であろう。
「仮面夫婦」があって、「仮面恋人」がないのはなぜかを考えてみたことがある。「仮面」の意味はどちらも同じだが、夫婦と恋人という重みの違いであろう。人間が仮面を被るものなら、仮面恋人も存在するだろうが、あえてそういう言葉を使わないのは、恋人が流動的な関係であるからで、今日出会って、明日は別離というカップルだって珍しくはない。
婚姻という重み…、夫婦とはそうもいかない。昨今は離婚が多いといえども、恋人たちの別離とは違う。それが夫婦は仮面であってはならないという教訓的意味も含めて、「仮面夫婦」という批判が生まれたと理解する。恋はゲームとの一面があるが、婚姻をゲームと考えるものはいない。♪恋はゲームじゃない、生きることね、答えて、愛しいひと…という歌がある。
曲も歌詞も好きだったが、しばたはつみの太い声も好きだった。詞は来生悦子になり、「答えて、愛しいひと」と男に問う。男は、「そうじゃない」と答えるだろうが、その時、その場はそうであっても、違う雌に惹かれるのが男の現実である。男だけではない、女だって別の男に魅せられる。しかし、女の生態が、「保守」、「安定」志向であることが幸いするのか…。
愛とは永続性とマズローは言ったが、同時に、「異性愛はもっとも誤解されやすい愛の形」」という言葉も残している。誤解にしろ、衝突にしろ、すぐに終わる恋はゲームであったという他ない。恋がすぐに終焉する理由を、自分は女の仮面度の大きさと見たことがある。それが大きすぎると愕然とし、そうまでして、「虚」に殉じる女を恐ろしいと感じることになる。
仮面は読んで字のごとし、「仮(かり)の面(つら)」である。仮が本当でないという意味なら、良い事ではない。上記したようなやむを得ぬ事由において、仮面を長所にする以外は…。仮面を被り、体の一部をこわばらせて鎧を纏うことは、「自分らしさ」の死化といえる。仮面女に対し、ある不安が不満となり、あげくは不信に移行してしまうという体験をしたことがある。
仮面を取ることに抵抗感を抱く女性は多い。察するに女性は幼少期から、地を出さぬよう、抑えるよう、躾され、教育されるからだろうが、それらが慢性化し、仮面を被ることが当たり前になっていくのかも知れない。若いころ、絶世の美人女優について友人と、「○○さんは、うんちをするのだろうか?」、「そりゃするよ、人間だから」、「でも想像できるか?」、「できないけど」。
こんな他愛もない会話をしたものだ。同じことは小学生時にもあった。クラスの飛び切りの可愛い子がマッチ箱に入れた検便のうんちを提出するのが信じられず、教壇の机の上に各自が名入りで置きに行く際、自分はその子が席を立って検便を置いて席に戻る一部始終を観察していたが、何気ない顔の中に彼女のどこか不自然な羞恥の影を見、同情せずにいられなかった。
彼女にそんなことを強いる検便というものが邪悪に感じられた。どういう精神状態であったにせよ、可愛い少女は天使であって検便など無用である。自分たちと同類のくそを垂れる種とは別という願望があった。男の子のああした気持ちが女の子を守る、守りたいに連なったし、そんな彼女に意地悪をし、ちょっかいを出す男をボコボコに遣り合った記憶もある。
彼女がそれを喜んでくれたかどうか分からない。身を呈して何かを守るのが男気なら、昨今の、「女子ギライ男子が増加中」との風潮は理解し難いが、女子を嫌う男の子の理由を聞くと分からなくもない。ボキャブラリーの発達した女子には言葉で圧倒され、煙に巻かれるところが恨みの要因で、それが嫌悪に繋がっている。この年齢の男の子に女子の詭弁は厄介のようだ。
あくまで想像だが、今どき検便提出を恥じる女子がいるのだろうか?女性のそういう羞恥、そうした弱さが反動的に男を逞しさに誘う部分もあったが、昨今の股を開いた自転車を漕ぐ女性をみながら、あれが現代の男が捉える普通の女子なのだろう。自分たちの青春期には絶対に見なかった光景だけに、努力して馴染まなければならない思いに駆られるのだ。
正体を現さないミステリアスの女性もいたが、感情をあからさまにさらけ出す女性もいることはいた。おそらく親からの抑圧に反発して生きた結果であろうし、そういう女性が男勝りであるのは想像できる。あけっぴろげで男としては付き合いやすいが、それはそれで欠点もある。女性的なミステリアスな部分があまりにないのは、男にとっても削がれた魅力といえる。
女にも我がままで独善的な一面はあるが、男にも少年的でナイーブな側面がある。そうした感情抑圧において、外からの刺激と内からの衝動に対して厚い保護壁をつくり、それを「鎧」と称し、男らしさの美学とするが、感情発露の否定というべき、「鎧」は、人間らしさを縛ることでもある。そうした葛藤が、女性に対して求めるもの、求めぬものという出方をすることになる。
女は感情の出ずっぱりで男にあれこれ求め、肴にするが、男は抑制という部分の苦悩もあるのだろう。したがって男が人間的であろうとするなら、感情面においては、抑圧か、さらけ出しかという二者択一的な反応は止めて、感情こそ、上手く相手に伝える、表現するという姿勢が重要だ。これは成熟した男にあっては考えなければならないスタンスであろう。