小林麻央さんが亡くなって今日で丁度一カ月。日が経つのは本当に早いものだが、遺族の心中は察してもあまりあるもので、もっと時間を要することだろう。家族・親族のことはなにぶん遺族のことであるがゆえに、我々はただ見守ること以外にない。しかし、心ならずも心情を逆なでするような書き込みもなされている。少し前にはこうしたやり取りがあった。
海老蔵:「今日は2人の願いを叶えました。すこし遊びに、子供達が笑顔になる事が今の私達の幸せです。」
コメント:「昨日ディズニーで見かけましたが、海老蔵さん、麻耶さん、れいかちゃん、かんげんくん、お付きの男性の五人でいました。かんげんくんはベビーカーに乗っていてお付きの人が押していました。海老蔵と麻耶さんが仲良く話していましたよ。」(原文ママ)
コメント:「喪があけないうちからディズニーランドとか、あり得ないから…」
コメント:「ディズニー、本当なのか… ドン引きだわ」
海老:「声優が休養中にゲームしてるだけで炎上。 妻を亡くした歌舞伎役者が子供を気分転換させるためにディズニーに連れてって炎上。 やっぱり『辛い状況がある中で他人が楽しい思いをする』のが気に食わないのかな? お前らとはなんの関係もない赤の他人じゃん。」(原文ママ)
思うに、海老蔵が何の目的でツイッターをやっているのかについて、いかなる動機であっても彼の自由である。が、記事を公開することは、書き手一人に対して読み手は膨大な人数となる。本記事については、55083リツイート、57179を超える「いいね」がついていたという。であるなら、海老蔵は読み手にどのような対応するかについても彼の手腕ということになる。
元アナウンサーの長谷川豊が、リツイート炎上を狙った確信犯と名指し批判を受けたように、金儲け主体でやるとこういうこともあり得る。おそらく海老蔵にも金銭的な目的もないとはいえないのでは?そうでなければ、まったくプライベートな、特段記事にしなくていいようなことも、ネタとして提供しなければならない。日記を書いて稼げるのも有名人の特権である。
そのことに批判も妬みもないが、不労所得を妬む人間がいるのは当たり前で、その対応はされるべきである。無視が最善と思うが、反応すればリツイート数は増えるメリットもあり、それすら個人の自由と思うは、是非とはともかくその事実は動かない。メディアやマスコミによる煽りに於いても、これらも含めて本人が対処しなければならない。一切が有名税である。
自分が取り上げてどうなるものでもないが、こういう場合の問題についてどう思うか?を考えたついでに、自らの思いを書いてみたわけで、芸能人周辺のことは、取り立て事件性がない限り、問題にすべきことではないと思っている。芸能人自らが記事にせずともそっとしておけばいいプライベートを、あえて公にするなら、そこに食いつくイナゴは出ては来るだろう。
いずれにしても、有名人が私的なことやプライベートを晒しておきながら、「お前らとはなんの関係もない赤の他人じゃん」という書き込みも、あえて火に油を注ぐことにもあろう。本来なら、腹にしまっておけばいいことだが、ネットでプライベートを晒してお金になる時代である。以前は本にして出すという手法で、ゴーストライターであっても売れればお金は入る。
ネット時代にあっては、有名人や芸能人が本を書くなどの手間いらずで、リアルタイムで発信でき、多くのフォロワーを獲得すれば莫大なお金が手に入る仕組みであり、有名人が有名税というリスクをしょっても、こういう事に勤しむ人もいる。少し前に有名芸能人といえば、ベールに覆われたミステリアスな人たちだったが、自らのプライバシーをお金にする時代のようだ。
即物的という時代は、ネット時代になってさらに即物度を増している。あちらでは大統領がSNSをやり、日本では政治家や閣僚が政治活動報告以外の、ほんのプライベートなことをSNSで晒すのも、名を売り、庶民派を気取るなどの売名政略と化している。市街に顔入りのプラカードを建てる必要がない。政治家がSNSを頻繁に更新して有権者にアピールするのはどうなのか?
政治家が熱くなるべきは公的なものであるべきで、自分もブログをやる身としていえば、私的な書き込みでそれほど熱心に、公益性というと、何が公益性かの判断もあって、口にするのも烏滸がましいが、プライベートを告白して有権者と身近な一体感を模索するような政治家は、チャラいと感じられる。あくまで自分の好き嫌いの問題であり、自己中心に述べている。
「政治家がSNSを頻繁に更新して有権者にアピールすることについてどう思う?」という問いがあった。サンプル数は少ないが、賛成派:14人、反対派:12人、どちらでもない:1人と、数字的には拮抗している。反対派の意見は、「政治活動の報告とか、「今日は議会でした」ならいい、というようにやはり公性擁護にあるが、どちらかといえば賛成派の方が柔軟性がある。
例えば、「政治に興味のない人が政治家の私生活に触れ、政治に興味を持つきっかけにもなる!」とある。詭弁に思うが、そういうものか?歌舞伎役者の私生活に触れて、歌舞伎に興味を抱くのか?興味の中身や度合いにもよるから、なまじ全否定はできない。よしんば政治家のSNSが、政治に関心を持つ切っ掛けになったとしても、気を抜かず責任をもってやって欲しい。
SNSを真摯な議論・討論の場とするものもあるが、人の考えに食いつき、楽しむ輩もいるが、人間の類が多岐にわたる以上仕方がない。「スッポンが噛みつくと、雷が鳴るまで離さない」というが、人の意見に噛みつく人間は、スッポンと同様にしつこい性格である。気に入らない投稿記事に対し、「お前は間違っている!」とわざわざコメントするのも自己顕示要素もある。
発信側も自己顕示なら読み手が自己顕示であって悪いいわれはない。書き手のみに専念を決めている自分は、書き手の反論は心で行う。文字にし、コメントで反論しても、相手も困ることもあろうかと。人の記事にへの違和感は、日と場所を変えて自身の記事で問題意識として取り上げることにする。人の「良い」が自分の「悪い」であれど、指摘の必要を感じない。
「お前は間違っとる!」と人にいう人は、自信のない人である。何故かというと、いちいち自分の正しさや意見を相手に向けて主張しないと、「自分の考えに自信がない」からだ。自分と違う考えに遭遇するのも怖い、それ程に自信のない人間である。いろいろな人間と付き合って、それがよくわかると、聞き流す、無視するという対処が本人のためだと分かる。
自分の正しさを主張するために相手に噛みつく必要はないが、噛みつく人は自信がないということだ。若いころは、「信念とは自己主張」と思っていたが、そうではない。主張しなくとも、自分の考えが揺らがない、曲がらない人である。当然ながら、主張を是認される場では忌憚なく発言するが、そうではない場合においては、やんわり流せばよいこと。
むしろ、相手の考えを肯定してやるのもありだ。その場合に気を付けるべきは、相手を見下さないこと。「他人を他人を生きている」とし、他人の生き方に責任を持たぬことで可能になる。「正しい・間違いは、人の数ほどあり、自分はその一員にすぎない」。どうしても正しさに拘ると、そこには間違いが発生することになる。正しいも間違いも共有できればいいが…
人の考えについて、「そういう考えもあるよね」と受け入れる。どうしても、正したい思いに駆られたら、それで人間関係が壊れてもいいとの覚悟を持ち、捨て身となる。関係が終わってもこれだけは理解させたい、これも慈愛だ。それほどの相手かどうかで判断する。自信の無さからの押し付けでなく、自信あっての押し付けでもなく、身を焦がす気持ちなら尊い。
人々の様々な考えや意見の中の一つとして自分のものがある。それをことさらに主張したいのが若さであった。人間が円熟すると、自己主張をしなくとも生きていけることを知る。「切った、はった(平手で叩く)は男の世界」というが、若者らしくていい。若者が聞き分けのよいいい子で姑息であるよりは、「切った、はった」の世界観のほうがわかりやすいかと。
若者がヤンチャであるのは好ましいが、昔の男の子に比べて近年のヤンチャ坊主は、どうもネット内でヤンチャ志向に思えてならない。同じように女の子にもネット社会の弊害が強く感じられる。いい例が、ネットで知り合った男に性被害にあうような子は、実生活では活発で、男関係の派手な子では決してないところにネット社会の闇があり、性被害が多発する原因がある。
つまり、インターネットの普及が、本来なら大人しく、おめかしして外に出るようなこともなく、異性の友達もなく、異性関係に無縁の少女が、ネットを通して社会とつながりを持つということにある。ネットで気の強い発言をするのが、小心で気弱な男の子であり、ネットで派手な異性交遊する女の子が、実生活ではまじめで地味であったりの逆説を生んでしまった。