Quantcast
Channel: 死ぬまで生きよう!
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

マズローの自己実現

$
0
0

イメージ 1

人生を楽しむためにある程度のお金はあった方がいい。食うや食わずの生活では、気持ちの上でも余裕がなくなってしまう。極貧であれ、人生を楽しむことができるならそれに越したことはないが、なかなかそうもいかないだろう。これも道徳家でない現実的思考だが、これだけは言える。「一生かかっても使いきれない財産を蓄えたところで、どうなるものでもない」。

しかるに、こんな言葉も浮かんでくる。「富者は身を苦しめて疾作し、多くの財を積むも、ことごとくは用うるを得ず」。難しい言葉ではないので意味の理解はできよう。お金はいくらあっても困らないというが、持たざる者には金持ちの苦労など知る由もないが、投資詐欺や好利回り商品などと口車に騙され、財産を失った人間を観るに、お金はあったで悩みはつきない。

自分は20代のころに同じビルにいた銀行の行員から多くを教わった。サラ金に勤務する知人の付き合いで金を借りていたことも、「消費者金融に名を残すのは絶対に止めた方がいい」との指摘を受けた。もっとも納得させられたのは、「お金は増やすよりも減らさないこと」という言葉だった。「定期預金の利息が少なくとも、預けていれば元本は減らないだろう?」

この言葉に納得し、利回りの良い金融商品などにまったく興味は沸かなくなった。お金を増やせないのは能がないという言葉も聞くが、そんな言葉に動じなくなった。家に来た友人が、ザルいっぱいではみ出す100円硬貨、500硬貨をみて、「国債とか金融商品を買った方がいい」といった。が、腹では、(それでどれだけ利息が得れるんだ?)所詮はハシタ金である。

イメージ 2

チリも積もるがコインも積もる。どこまで積もるかを楽しんでいる。人はそれぞれだから、彼はお金を増やすことに長ける有能者、自分はコインが硬貨に見えない享楽人。最近欲しいものは、5リットルの焼酎ボトルで、酒を飲まない自分があれを手に入れるのが難しい。近所のリカーショップで、「5リットルの空ボトルないですか?」と聞いたら、「ないです」とあっさり返された。

何とか手に入れ、5リットルをいっぱいにしてみたいが、最近はWAONなどの電子マネーを利用するせいか、お釣りが出なくてペースが落ちてきたし、小市民の小市民的楽しみを奪われ兼ねない。これも時代の反映か。自分はどんなことでも楽しみに変える才能を持っており、自ら考え、自らやり、自ら楽しみ、自ら評価する。人の手になど委ねない。これが愉しく生きるコツ。

何でも自己が実現すれば自己実現である。自己が自己を実現しなくて何が面白いのか。自己実現の欲求というのがあれば、あるなら、あってしかりでやればよい。マズローは自己実現を、自分の持つ能力、可能性、それらを最大限発揮し、具現化し、自分がなり得るものにならなければならないという欲求といったが、そういう自己実現者には以下の特徴がある。

イメージ 3

①「現実をより有効に知覚し、それと快適な関係を保っている」。つまり、社会生活や現実に適応していること。狂気性と紙一重の天才や、周囲と問題を起こす天才はこの範疇には入らない。

②「自己、他者、自然に対する受容的態度」。自分に満足し、他人も受け入れられる。自然を愛し、自然に寛容があるから毛皮のコートなどは着ない。

③「自発的な行動」。とは、素直であり、素朴である。

④「自己中心的でなく、問題(課題)中心的」。課題には真摯な思考で取り組む。

⑤「孤独、プライバシーを好み、欠乏や不運に対して超然的」。一人でいられる人間。いつも淋しく誰かと行動をしなければ不安ということはない。

⑥「文化や環境からの自律性」。周囲・流行・時代の価値観と距離を置くことができる。

⑦「認識が絶えず新鮮で、無邪気に畏敬や喜びをもって味わうことができる」。

⑧「神秘経験や至高体験がある」。

⑨「共同社会感情」。人類に対し、怒りもし、腹も立て、嫌気がさすこともあるが、同一視や同情や愛情をもっている。

⑩「深くて広い対人関係」。人と距離を置く、孤独に耐えるが人と深く関わる」。

⑪「民主主義的な性格構造」。自分も他人も人間として平等な価値や権利をもつことを認められる。

⑫「手段と目的の区別」。例えば、お金は生活の手段で、それ自体目的ではない。

⑬「哲学的で悪意のないユーモアセンス」。

⑭「創造性」。

⑮「文化に組み込まれることに対する抵抗」。独自の視点で見、付和雷同を嫌う。

⑯「確固とした価値体系を有す」。周囲に流され、妥協することがない。

⑰「対立性・二分性の解決、欲望と理性の調和」。最期の項目は、マズロー心理学の要と言えるので、ピックアップして考えてみる。

イメージ 4

マズローは、「人間は自分のなりうるものにならなければならない。このような欲求を、自己実現の欲求と呼べるだろう」と明示する。実現不可能なものを求めても不幸になるだけで、なりうる自分を目指すことが大事である。人間が行きづまって疲弊し、満足感を得られないのは、方向性を外にばかりに向けて、「なりうるもの」を達成していないからである。

方向性を内に向けるためには、「結果を手放し、過程に目を向ける」こと。さらに噛み砕いていうなら、他者からの承認・賞賛、金銭、地位、名誉といった、「結果」や、「成果」でなくあくまで、「プロセス」に目を向ける。プロセスとは、それを行っている途中経過にあって目には見えないが、そこに目を向けた時に自分の無意識の、「なりうるもの」が浮かび上がる。

一時流行った、「勝ち組」という言葉がある。くだらないと思って使わない、認めないでいた。というのも、「外的条件」や、「結果」という意識部分だけを注視して自己の目標に設定し、しかもそれが手に入ってしまうから、「プロセス」になど目が向かない。そうした表面的な部分において、「勝ち組」と自己満にひたり、外的条件を追い求めるベクトルを、内に向ける事をしていない。

「勝ち組」、「負け組」などと騒ぎ立てる人間の底の浅さ、いやらしさをマスコミやメディアは早期段階から煽り、一緒になって囃し立てていたのがいかにもこの国らしい。何を基準に、「勝ち組」なのか、「負け組」なのか?こういう言葉を聞くだけで虫唾が走った自分であるが、最近はあまり言われなくなったところをみると、これも一過性であったようだ。

イメージ 5

これまで言われた事には、社会的地位、給与や能力、美しさ、既婚・未婚、子どもの有無などがある。小泉内閣による明らかな失政が格差社会を生み、それを象徴するかのような、「勝ち組」、「負け組」という語句である。欧米的個人主義社会には、「自分らしさ」という規範としての価値基準があるが、日本的お手盛り社会には、曖昧な社会的価値基準に翻弄される。

「自分らしさ」という言葉を離合集散型の日本人はどのように受け止めているのか?政治色の強い日本のとある宗教に入信すると家族が離散するといわれている。実際にそういうケースを知るが、その原因として、①同宗教こそが第一の生活スタイルとなり家族団欒がなくなる。②財務と称する寄付が多額で生活に困るようになる。③子どもに合理的な躾ができない。

自分の母も関西に本部のある躍る宗教に入れ込んで、幼児期にはいつもそこに連れられ、習わぬ経を復唱する自分に周囲の信者は、「賢いね~」、「頭のよい子だ」などと群がり、それを真に受けた母の得意満面な顔を今でも覚えている。自分の孫を本部で行われる年に一度の大祭に連れて行こうとする母に、「子どもを宗教に関わらせるつもりはない」と強く言い渡す。

怒り心頭の自分に母は、「奈良には鹿がいるし、旅行に行こうというのが何が悪いんか!信者は本部にタダで泊まれるのに…」と、言い訳をしたが、そういう問題か?「宗教には絶対に染まらせないので、行きたけりゃあんたが一人で行けばいい」と念を押す。何が旅行だ、味噌も糞も一緒にするなである。子どもは親や祖父母のすることを良いと妄信しがちである。

イメージ 6

西洋人のアイデンティティである「自分らしさ」をはき違える日本人は多い。「自分らしさ」を、いい加減で努力もせず自分の好きなことをしていればいい、という事だと考える人間もいるようだが、マズローが提唱する自己実現とは、セルフエスティーム ( self-esteem ) とは、その人が自分本来の到達する理想、究極の自分象、それらとは甚だしくかけ離れている。

日本人は欧米文化の何事もデフォルメする特徴を持つゆえに、本来の概念から別物になって一人歩きするパターンである。カレーが日本に入れば日本式カレーライスになり、ラーメンも中華料理ではない。天津丼、中華丼、ちゃんぽん、海老チリ、焼き餃子(あちらは水餃子)などはいずれも日本人の創作料理で、このように日本人はアレンジメントに長けている。

もし、「自分らしさ」とは何?と聞かれたら、それぞれの人たちはどんなことを想像するだろうか?人のことゆえに想像がつかないが、「あなたはネガティブ?ポジティブ?」などと聞かれることもある。かつて聞かれたこともある。以前は、「断然ポジティブですよ」と答えていたが、昨今、思うことは、ネガティブ、ポジティブなどは、ものの見方の結果でしかない。

したがって、重要なことはネガティブと思える要素を、いかにポジティブに持って行けるか、生かせられるかというのが、自分の土俵を作ることになる。自分の思う、「自分らしさ」の原点はそこにあって、規制の枠組みのなかで思考するだけではつまらないし、刺激が無さすぎる。「自分らしさ」という言葉を分解すれば、「人にはない自分の独自性」と考えることもできる。

イメージ 7

こうしたブログを書くときに最も留意するのは、人が書くようなこと、書いているようなこと、書きそうな判断や理解よりも、誰もが書けないような、あるいは書くのを躊躇われるようなものを書きたい。そのためには視点をどこに置くか、自分の利害にも染まらず、誤解も怖れず、誹謗や中傷の類は他人の戯言と無視をする。かといって独善でいいかと言えばそうもない。

自分の考えを述べるのと、「独善」は異なるし、考えを述べただけで独善とは言われないようにだ。当たり前だが、自分の考えこそが、「自分らしさ」に他ならない。他人が噛みつくのは仕方がないが、噛みつく人間もまた自分らしさを主張している。そうした噛みつく人間を、「独善(独尊)」といい、それは他人の自分らしさを認めるだけのキャパがないということ。

持論は自論であってさらりというべき。自論が異論であるのは当然として、さりとて自論を相手に押し付けるのは傲慢であろう。対話の中で、相手が他人の論なり、考えなりに、主体的に影響されるのは何ら問題のないこと。「自分らしく」の中には、「男らしく」の要素もあるが、「男らしく」の鎖に年代差はなく、成育過程で何かや誰かの影響を受けたものだろう。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 1448

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>