元服という言葉を父から教わったのは確か中学生の頃だったろう。父の好きな、『赤穂浪士』(1961年東映)を一緒に観に行った後だった。父は、「昔は、15歳くらいになったら一人前の大人として扱われ、それが元服」というようなことだった。映画では大石内蔵助が一子松之丞に、「今宵、この場に置いて元服致せ」という場面があり、松之丞の初々しい笑顔が印象的だ。
元服とは親の保護家から脱し、対等で一人前の大人と扱われるわけだから、戦に初陣して敵を切り倒すことである。これが当時の武士の職業であるなら、昨今の成人とは自力で糧を得ることであろう。糧とは遊ぶ金を得ることではなく、生きていくためのお金である。それがこんにちにおける精神的な成人の証しではなかろうか。だから自分で働いて得たお金は価値があった。
働いた金で買ったものはあれほどに嬉しいのである。今は小学生、中学生のアルバイトは禁止だが昔は違った。新聞配達、牛乳配達は小学生でも雇ってくれた。自分は天体望遠鏡を買うために新聞配達を始めた。近所の眼鏡店のショーウィンドーに置いてある天体望遠鏡は6000円のプライス、新聞配達は1日50円だったが、頑張ってお金を貯めればきっと買えると信じた。
自分は何より天体望遠鏡で土星の輪を観たかった。土星という惑星はそれほどに好奇心を惹く天体であり、1610年に自作の望遠鏡で土星を観たガリレオは、「この惑星には耳がある」と観測記録に記している。1655年になってオランダの天文学者クホイヘンスが、これまでよりも格段に性能の良い望遠鏡を自作して観測し、土星にリングがあることを確認している。
名を失念したが、江戸時代の日本の天文学者は、土星をそろばんの玉と認識している。新聞配達を始めて一カ月くらいたったある日父が、「一緒に来い」とその眼鏡店に行って天来望遠鏡を買ってくれたあの嬉しさは忘れない。対物レンズ径6cmの屈折望遠鏡で観た土星は、天文雑誌で観るのとはまるで違って米粒のようだったが、まぎれもない本物の土星に感動した。
木星も同じ米粒だったが、金星は肉眼では光の点だが、望遠鏡で観ると半月や三日月であることに感動した。その感動とはおそらくガリレオやホイヘンスと同じ感動であったと想像する。何より感動したのはやはり月面観測だった。夜空に浮かぶ月がこんなにデコボコしているのは、やはり望遠鏡の威力であった。毎夜広場で望遠鏡を観る少年として近所の話題になった。
近所や通りがかりのおじさんたちは、「ちょっと見せてくれんか」とよく声をかけられたが、「見せて」というおばさんが一人もいなかったのはなぜだろう。生活に追われたおばさんにとって、夜空に浮かぶ月も土星も金星もどうでもよかったのだろう。宇宙に限らず、一般的に女性は、「謎」に興味がない。少年誌といえば、謎や神秘や冒険ばかりで少女雑誌とは異質である。
子どもの頃にギネス世界記録にすっかりハマっていたというキャロライン・ポールは、消防士にしてパラグライダー乗り、 公私にわたって冒険心を発揮する女性だが、「勇敢な女の子を育てる為に冒険に挑戦させよう」と説いている。別に女の子が勇敢であるべきと思わないが、せめてははぴゃは男の子に冒険心という勇敢さや好奇心を損なう心配性やは止めるべきだ。
「怖れることは悪いことではない。人間として大事な感情であり、それが身を守ることにつながる。が、それでも問題になるのは、女の子が落ち着かない環境に陥ったとき、先ずは怖れる気持ちを抱くよう親から刷り込まれることだ」と、キャロラインはいうが、少子化で子どもに逐一目が届く、目が届かせられることが、男の子の男気を損なうことになりはしないか?
男から見、男親から見れば、どうしてそんなことを怖れるのか?という女、そして母親、そういう時は目をつむらさせるしかなかったし、勇気を持てとは言わぬが、せめて文句を言わずに従う母親である。女の子はお人形さんで遊んでもいいが(キャロラインはそうは言わぬが)、せめて男の子に対しては、少々の冒険には目をつむり、男気や逞しさを育む母親でいるべき。
まあ、このようなことを1000回述べても、今しか見えない将来的志向のない母親には無理であろう。どこの世界のどの母親が、息子の勉強に口うるさく言わないでいられようか。父親が、「何もそんなにガミガミおしつけなくとも…」などと言おうと耳に入らない。それがなぜなのかは男には分からないが、心理学的分析によれば、女が人との比較に敏感で躍起になるからである。
女の子は他人の進度を気にするとピアノ教師もいうように、人と自分の相対性から自己認識する女性と、絶対的自分を求める男の違い。ひきこもりを許すのは母親的感性だと思う。父親はそんな箸にも棒にもかからぬ男など認められないが、腹を痛めて産んだ我が子への母の思いは、殺人犯とて可愛い息子。とはいえ、子どもを避難させるのはほどほどにすべき。
確かに人間の本能は、辛いことから避難しようとする。ダメとわかると逃げることで自分を癒そうとする。外で辛い思いするのは嫌だと、そうした一時避難から家に引きこもるのは、あくまで一時の避難であって、避難場所にずっといることはあり得ないし、本来的には間違っている。災害時の一時避難も同様である。それが一時でなくなったのが引きこもりである。
引きこもりを容認する親は、一時避難という認識がないのだろう。夫と喧嘩して一時的に実家に帰って来た娘に対し、日が経つにつれてそわそわするのが父親である。ついには、「いつまで家にいる気なんだ!」と、追い出しにかかるのが父親である。そういう母もいるにはいるが、道理の分かる明晰な女であろう。ひきこもりには、「自分がこうしたい」という意志がない。
そういう道ではなく、「一番楽そうな」道を選んで逃げ込んでいるし、それを許す親もまた、「息子はこうすべき」、「こうさせるべき」という考えがない。あっても、納得させたり説き伏せたりする能力がない。それも親だが、そういう親から彼らが生まれる。緊急避難はあってもいいが、「いつまでもそうしてはいられない」と思わない子どもを作っている親。
「しなやか」という言葉がある。しなやかさとは何?しなやかさの意味を具体的に言葉にするのは難しいが、「老子76章」にはこのような記述がある。「人は生きているときは柔らかで、しなやかである。しかし、死んだらこちこちになりかさかさになる。草にしり木にしろ、何もかも生きているときは柔らかで、しなやかであるが、死んだらひからびてかさかさになる。
こちこちして堅いものは死の仲間であり、柔らかくしなやかなのは生の仲間である。それゆえ暴力は真の勝利を収めえない。木がこちこちに堅くなるときは、枯れて死ぬときである。強いもの、大きなものは、下になり、優しく柔らかなものが上になるのである」。しなやかさをどう表現すべきかについて、柔軟性や弾力性という表現を借り、つつましさを説いている。
「つつましさ」も表現的には難しいが、つつましさをここではしなやかさ、柔らかさと表されるなら、つつましさはしなやかと同義のようだ。はて…、男と女のしなやかな関係など、20代、30代の頃は考えもしなかった。しなやかな家庭というのも、あまり考えてはこなかった。進行形途中の実践段階にあっては、そうしたゆとりもなく、一歩引いてみた時に浮かぶもの。
それが、「しなやかさ」、「つつましさ」かも知れない。客観的なしなやかさでなく、主観的なしなやかさはどう身につけるべきか。しなやかさを柔軟さとするなら、どのように思考すべきか。マズローのいうところの自己実現を果たした人間とは、一人でいること、孤独を愛することも好み、一方では、人とのかかわり合いも楽しめる人間という柔軟性を示している。
それらから、究極ともいえる自己実現とは、「己の欲することをするとそれが人のためになる」人間であろう。真のセレブはお金を貯め込むことはせず、いかに吐き出すかを考える。それが世の為、人の為になるからだろう。苦痛を感じ、我慢しながら他人のために尽くすではなく、賞賛が欲しくて人生を送っているのではなく、自分がしたいことをしているに過ぎない。
それが自然に他人の為になってるということであって、他人から見れば大変なことでも本人にとってはごく普通のことである。したがって、ご褒美が欲しい、賞賛が欲しい、そういう人に自己実現は難しいが、自己実現はしばしば誤解されている。お金が欲しいから頑張って努力して資産家になるのは悪いことなのか?悪くはない。それを自己実現と言わないのか?自己実現である。
綺麗ごと抜きに自問し、自答すれば、上記の答えは必然だ。が、ジョブズやゲイツの生きざまをみるに、真の自己実現者は身を粉にしてあくせく働くが、決して蓄財目的ではなかったこと。自分の造った物がいかに便利であり、人から愛されるかという物作りの理想を追い求めた結果、お金があとからついて来た。よって、自己実現というのは金を生み、金を作るとは違うかなと。