表題の多くは疑問であって決めつけや悟りではない。自分ならどうするかという命題に対する質疑応答かも知れない。回答は正しいに越したことはないが、応答というやつは、「問いに応じた答え」で正答とは限らない。人それぞれに応答がある。問題意識を持つことは、「生」への積極的な取り組みだが、それとは別に、「なるようになる」という生き方もある。
「積極的に生きる」のは良いことだろうか?「積極的」=良い、「消極的」=良くない、などと一般的にいわれるが、損得勘定でいえば、「積極的に生きる」のは得とはならないことが多い。実際問題として、打算的で用心深い人は消極的な人が多い。「消極的に生きる」人は、得々感を感じているのだろうか?じっとしていることのできない自分に消極的の良さが分からない。
積極的は得とはならないといったが、だからといって損することもない。他人から見れば「損」と思うことでも、本人は損と思わないその理由に、「後悔しない」ことがある。積極的を選ぶ人間の最大の、「損」は後悔であるからだ。したがって、自分が積極的に行動するとき、「後悔しない」ということが背中を押す。後悔という損に比べれば、それ以上の損はない。
したがって、積極的に動いて上手くいかなかった損は、やらない損に比べて何でもない。「何でもない」は正確には、「何でもないことではない」が、慣れも大きい。当初は落ち込んだりもしたし、自分の非力や無能に愕然としたし、自己否定もあった。それでも、「後悔」という前に、「失敗」は行為の、「証」として受け入れるようになった。「行為」はすべてに優先する。
消極的を選ぶ人の多くは、消極的に生きても損をしないことを肌で感じ取っているのだろう。あるいは、気弱で傷つきやすい自分を守るため、行動しないを自己正当化しているのだろうか。消極的な人間は自らの意志で、「消極」を選んではいない。多くは知らぬ間に無意識に消極的な行動をとる。それが性格となって、自身の生き方を支配することになり。
損もしない代わりに得もない。あの女に声をかけたいがかけられない。積極的な人間はそれを損だと思うが、消極的な人間は声をかけないことの、「損」より、かけて無視されることのダメージが大きい。損は、「大損」に打ち消されるのだろう。損の上に大損があるのは自分にはなく、面白い考えだ。「無視」されるのは単に結果でって、自分の意向や望みに合致しない。
相手がある以上、自分の意図した結果とはならない。それが当たり前と思えたら成長だろう。将棋をやっていればそんなことだらけ…。こっちがいい手を指しても、上手くいかないのは、指してみて分かること。勿論、上手く行く事もある。一事が万事、何でもそうではないか。人間には欲求があるが、心理学者マズローは、人間の欲求レベルについて述べている。
・生理的欲求…食う、寝る、出すに加えて、「やる」という性的欲求
・安全欲求…安全な環境、身をもまるための岩穴でないマイホーム
・愛と所属の欲求…人を愛したい、愛されたい、家族を持ち自分の居場所を得る
・社会承認欲求…社会の中で職業を持ち、人から認められたい
・自己実現欲求…自分らしい固有の人生を選びたい、送りたい
上から順繰り社会承認欲求までが、自分の外側に向かうものであったが、自己実現欲求では自己の内側に潜むものを実現しようとの願いに変わる。これは、諸欲求がすべて満たされたとしても、個人が自分に相応しいと思われる生き方をしていない場合、すぐに不満や不安の原因となる。画家は絵を描き、詩人が詩を作るのが、人間が究極的に平静でいられることになる。
藤井聡太四段の活躍で久々に将棋界が沸いたが、20年前に『ふたりっ子』というNHK朝ドラがあった。原作の大石静は作家であるが、脚本の仕事が多い。『ふたりっ子』は、二卵性双生児を題材に、欲望を外の世界に求める姉、自らの内に求める妹の対比を描いているが、「私の幼少期はまさに姉の麗子で、自らへのアンチテーゼとして麗子を描いた」と述べている。
世はまさに格差社会である。そうした時代背景の中で、自分らしく生きるために何をすべきであろうか?いつまでも自身の幸せを、「外的条件」の中に追い求めていることを止めるべきと思うのだが…。人との比較や皆が求める外的幸福条件ではなく、「自分」にとって内なる幸せを模索してみてはどうであろうか。確かに個人の欲求を外に求める時期はあるだろう。
それを追い求め、ある程度満たされるようになれば、自分の内側に潜むものに気づき、それを表面化していく方向に向かうが、そこまでは、「個人の生き方」のレベルに過ぎない。やがて、個人が自身の境界を越えて、他者に啓発したり、他者の豊かな生活を願う方向に向かえば、人はさらに成長し、進化を怠らない。が、若いうちはことさら自己実現に向かうことだ。
自分は若い人が何を求めているか分からない。が、現代の若者は総じて幸福であるのは内閣府の、「国民生活に関する正論調査」を見れば一目瞭然である。「満足している」、「まあ満足している」を合わせると80%弱となっており、これは高度経済成長期時代より高い数字である。かつて若者の代弁者的存在であった古市憲寿は、こんなことをいっていた。
「今の若者たちの生活はそこまで不遇であるように見えない。確かに安定雇用確保は難しくなったが、親と同居していればそこまで稼ぐ必要はないし、日本では家族の存在が最強のセーフティネットとして機能している。また、多くの製品やサービスはかつてと比べものにならないくらい安価で手にはいる。ユニクロやZARAのアイテムを身にまとい、スマホで連絡を取り合う。
クルマ離れは顕著となり、友人宅で鍋パーティーでもやれば、それほどお金もかからない。現代の若者はこのような日常のささやかな"幸せ"の中に生きている」。確かに自立心が削がれた若者が増えているのは間違いない。かつてあった、「パラサイト」という言葉は消えたのは、当たり前になったからだろう。「ひきこもり」や、「ニート」が社会現象となっている。
ひきこもり・ニートになる原因は様々だが、就職の失敗、仕事における失敗などから、社会に出るのを嫌になる例が多いとされている。が、それはどこの国でもあることだから、問題は親にある。「日本の親は口では子どもに向かって、『飛べ』と言いながら、 足首をつかんで離さない」。なぜそうまで子どもに依存するか?子どもの数が少なくて、「虎の子」であるからか?
「少なく産んで大事に育てよう」という標語はないが、社会がそういう標語を作って実践している。だらしない親からだらしない子どもが育つのは当然であろう。豊かな社会になった日本では、「家計のために早くから働く」、「親の手助けをしたい」あるいは、「しなければならない」境遇というのは特別不幸なことではなかった。多くがそうであったからであろう。
ところが、大学生になった我が子に小遣いを与え、クルマを与え、留学費用や旅行費用までも与える親は珍しくない。果たしてこれは幸せなことなのか?おそらくそうであるから、80%の若者が満足感を抱いているのかもしれない。食べる、住む、遊ぶという物理的環境を、自力で獲得するという喜びも自負心もなく、依存して手に入れるのが当たり前になっている。
今の若者はどうだかわからないが、自分で働いた給料で買ったオーディオセットほど嬉しかったものはない。なぜに自分で稼いだお金で手に入れたものがあれほど嬉しかったのだろうか?おそらく、自分自身を一人前と認識したからではないかと。自分は未だに自分のお金で食べる食事が一番おいしい。それは、満足と引き換えに代償を払うからであろう。
代償なき満足というのはあり得ない。「ただより高いものはない」という慣用句は、ただで何かをもらうと、代わり に物事を頼まれたり、お礼に費用がかかったりして、かえって高くつくという意味だが、自分は、「ただより価値のないものはない」と捉えている。価値あるものは、それ相当の代替を支払ってこそ意味がある。それを価値だと考えている。
他人の饗応はさておき、自分は物を代替するのが好きだ。Aにしか使えないものを、Bに使えるアイデアを見つけた場合、そのアイデアはお金を出す以上の価値を持つ。おそらくこれは自身のアイデアに対する褒賞であり、自己満足に浸った結果で亜郎。学費を与え、生活費を与え、遊興費まで与える親とて、自分らしく生きるためのヒントを与えてくれはしない。
お金の苦労が無いことが自分らしく生きることではないが、そのように与えすぎる親は、むしろ子どもの自分らしく生きるための知恵やアイデアを削ぎ取っているのではないか?「三食昼寝つきでもいいから、あなたは好きなゲームやテレビを観ていればいい」というのは、親の愛情であっても、子どもが社会に参画し、社会性を身につけることを削いでいる。
日本人の成人年齢は20歳だが、現在は選挙権のみ18歳だが、遠い将来成人年齢は18歳に引き下げられるであろう。それもある意味で重要だが、この国に幼稚で成人になり切れていない大人が多い現状からして、せめて40歳までに、「成人」することを目指してほしい。成人の要素は多分に、多段階的にあるが、まずは自分で自由になるお金を得ることを始めの一歩とする。
バージニア・ウルフは、「女が小説を書くには、鍵のかかる部屋と、自分の自由になるお金がなくてはならない」といった。なるほど…、人が自分らしく生きるためにも、「自分の自由になるお金と一人になれる時間」が必要ではなかろうか。そのために人間は職を得て働く。ごくわずかであれ自分が得る収入と、夫や子どもから解放された時間こそが視野をひろげる。