こんにちの日本は誰もが知る高齢化社会であるが、一般に高齢化といっても三段階に分かれていることを知る人は少なくない。高齢化社会には、「高齢化社会」、「高齢社会」、「超高齢社会」に分類されており、その3つの分類をどのように行うかについていえば、これは全人口を通して見た高齢者の割合を示す、「高齢化率」という指標によって決められている。
ここでいう高齢者とは満65歳以上の人をいい、実際にその指標を元に日本のデータを見てみると、2013年の時点で高齢者の数が日本の全人口の25.0%となっている。わかりやすくいうなら、4分の1が65歳ということになり、かなり高い数字になっている。2013年から4年も経てばさらに増えていると思われる。ゆえに、今後はますます老人介護の需要が増えるのは間違いない。
この25%という数字が高齢化率といい、「超高齢社会」とはどういうものかといえば、「高齢化率」が21%を超えたものというのが基準となっているから、高齢化率が25%の日本は、とうにその段階を超えている。しかも、驚くべきことに日本の高齢化の進み方は、他の先進国と比べてもかなり早い。諸外国の、「高齢化社会」から、「高齢社会」へ移行する期間を比べてみる。
ドイツが42年、フランスは114年と、それなりの年数を要しているが、なんと日本は24年という短期間で高齢化率21%を超えてしまった。それには相当の理由があり、ざっくりいうなら、夫婦が子どもをたくさん持たなくなったことと、老人がしななくなったこと。これが高齢化を促進したようだ。用語的にいえば、長期的な出生率の減少と、医療技術が格段に進歩したこと。
何で子どもを産まなくなったのか?夫婦にはそれぞれ理由があるが、未婚者や非婚者が増えたことも理由に挙げられる。我々の世代にあっては、女性は高校を出るとどこかにお勤めし、5年くらい働いて23歳くらいが適齢期の上限という風潮だった。男も30歳となると、ちょいと見下されたりしたものだ。「やもめ」という言葉は最近聞かないが配偶者のいない人をいう。
未婚者、独身に限らず、妻(夫)を失った(離婚や死別)人もやもめといった。古い言葉に、「男やもめにウジがわき、女やもめに花が咲く」というのがある。今や完全に死語となったが、妻を失った男や、一人暮らしの男は不精で不潔な環境にあるのに対し、夫を失った女や一人暮らしの女は、身綺麗で華やかである。と、この例えはなかなか辛辣だが上手い表現だ。
厚生労働省が発表している平均婚姻年齢(初婚)の全国平均をみると、徐々にじわじわと年齢が上がっているのがわかる。♪ 15でねえやは嫁にいき…と、いわれた時代もあったが、2017年には女性も30歳に達したか?きわどいところかも知れん。あくまで平均であって、早い人も遅い人もいるが、晩婚化が進んでいるし、この傾向は今後も続いていくのではないか。
さらに驚くのが第一子出生時の母の平均年齢で、1975年…25.7歳、1985年…26.7歳、1995年…29.1歳、2005年…29.1歳とこの辺りが上限と思いきや、2014年にはついに30.6歳という数字がでてしまった。晩婚化が進み初婚年齢が上がれば、第一子の出産年齢が上がるのはも必然である。30歳越はもはや珍しくもないし、今後も上昇傾向は続くだろう。
確かに子どもが増えないと成立しない社会であるが、産まない権利、産まない自由は保障されるもので、その自由を覆す言葉の何処に正当性があるのか?と思ってしまう。いつだったか女優の山口智子が、子どもを産まない理由が話題になったことがあった。彼女は、「私はずっと、『親』というものになりたくないと思って育ちました」と、これは衝撃発言だった。
「何故…?」理由も気になるところだが、「子供のいる人生とは違う人生を歩みたいとする理由を、「私は特殊な育ち方をしているので、血の結びつきを全く信用していない」と語り、栃木の老舗旅館の一人娘として祖母に育てられた環境をあげている。彼女は女優になった理由を、「実家の旅館を継ぎたくなかったから」とし、彼女の特殊な家庭環境を以下示す。
人の環境はその人独自のもの。その人以外には理解はできない。ただ、一つだけ言えるのは、彼女は、「親」になりたくないというほどにまで、トラウマを背負ったということになろう。そういえば、ピアニストの中村紘子も似たようなことをいっていた。人はそれぞれの環境の中で、それぞれの生き方を見つけて行く。「学ぶ」のなかには、「捨てる」もあるということか。
嫌な体験を沢山もったことを生かすだけでなく、生かしたくないという事もありだ。嫌な親をもち、嫌な師をもったことで、将来、自分は絶対にそんな親にはならない、そんな師にはならないというポジティブな考え方、生き方もあろうが、生かさない生き方、関わらない生き方もある。これらは、その人個々の性格にい大きく関連し、左右されるものかも知れない。
前置きが長くなったが、日本は急速に高齢化社会になったことで、日本人全体の疾病構造も大きく変わった。高度な医療が進む一方で、それを上回る高齢化社会とならば、がん死は増えることになる。年間のがんによる死者数は三十万人を超え、これは3人に1人はがんで死んでいることになる。反面、早期の胃がんや大腸がんは切除すればほとんど治癒するようになる。
小児がん、乳がん、大人の血液がん、肝臓がんなどは抗がん剤が効くケースもあり、その他の治療法で治癒する例や、完全治癒しないまでも、再発する度に治療を繰り返すことによって、長期生存するケースも多くなった。かつては予後数か月と言われた末期がん患者が、1年とか3年とか、生きることも珍しくなくなったばかりか末期がん患者の緩和ケア体制も整っている。
全国にはホスピスが数百個所に増え、最期まで自宅で過ごせるよう緩和ケアできる医師と看護師が訪問する在宅ホスピスの取り組みも広がり、がん末期の痛みの治療法も大きく前進した。こうしたこともあって、がんの告知率も大きく様変わりし、胃がん、大腸がん、乳がんなどでは100%近い告知、肺がん、肝臓がん、腎臓がん、白血病などでも、告知はかなり高率である。
告知がされにくいのは治療の困難で進行したすい臓がんなど一部とはいいつつ、それすら告知が増えている。将来的ながん治療においてはある日突然に、ノーベル賞級の大発見がなされるような気もするが、その時こそ人類ががんに勝利宣言をする日であろう。それがいつの日であるかの予測はできないが、いつの日か必ずや人類はがんに打ち勝つに決まっている。
人間とがんとの闘いによる、「生と死」の風景が、多くの研究者にとって、貴重な記録になっている。竹田圭吾は、「がんというのは、必ずしも、『襲われて』、『闘う』ものではないと思う」と述べ、「闘病しない」の意味について、そもそもがんを、「告白」したり、「闘病」したりというイメージに傾いて扱うのをやめたほうがいいのでは、と言いたかったわけで、とした。
確かに、誰に、どのように、がんを告白してみても、結局は個人の孤独は動かない。がんに罹患する患者と、何もない健常者とが、共有できるものは、がんにおいてではなかろう。それ以外のもの、例えば世の中や社会の動向についての共有は可能だ。一本の映画さえ観合っていれば共有できるが、がんである事を不特定多数に告白するメリットも理由も特にはない。
おそらく自分は竹田氏と同じ感性かなと。、そういうつもり(意味)では、告白しないかもしれないが、言うとすれば、事実は事実、隠しておくことでもない…という意味で口に出すかもしれない。有名人や名士や有能者が死んだときに、「惜しい人を亡くした」や、「あまりにも早すぎる死を悼む」などの文言を通例的にいうが、人はどうあれ自分は使いたいと思わない。
天が人の上に、人の下に、人を作らないなら、どんな人が死んでも惜しい人であったはずだ。社交辞令というなら、なおさらのこという必要がない。「惜しいひと」がいる限り、さほど惜しくない人がいると言っているようなもの。誰の死も、誰かにとっては惜しい死なのである。竹田はむしろ、黙って逝った人である。かつらを自ら茶化す彼の茶目っ気がミスマッチすぎて素敵だった。
自分のがんを画像で見たとき (正確にいえば医師に見せられたとき)、自分のがんというのは実感のないもので、他人のものを見るような感覚で見入った。もっとも、自分の腹の中など見ることもないし、よくは分からないところであるから、実感がわかないのも仕方のないことかと…。心に傷を負った人が表面的にはなにごともないかのように見えると同じように。
♪ 身体の傷なら直せるけれど、心の痛手は癒せやしない…という歌詞がある。ふと気づいたことは、傷を治すではなく、傷を直すという文字の疑問。直すと治すにどういう違いがあるのか?「直す」はもとの良好な状態に戻すだから、壊れた機械を直す、文章を直す、など範囲が広いが、「治す」は病気を治すだけに使う。ならば、「傷を直す」は、「傷を治す」が正しいようだ。
「車の傷を直す」ではなく、「身体の傷」なら、「治す」が正しい。が、詩的表現として含みをもたせるなら、傷の意味を切り傷や擦過傷とかでなく、壊れた身体という重い表現を指すなら、「直す」でいいかも知れない。治療ではなく修正としての、「直す」に味わいを感じる。と、自分の解釈である。がんは治療すべきだが、失われた日々や人生、直せるものなら直したい…