がん告知のメリット、デメリットはいろいろあるが、かつては患者のみ非告知で、家族には告知されたが、その最大の理由は告知された患者が不安にや絶望感に襲われ、自殺の恐れすらある、というのががんを知らせないとする最大の論拠であった。2人に1人が何らかのがんにかかる時代にあって、いつまでもそんなことでは患者に疑心暗鬼を抱かせることになる。
がんになるのが稀な時代なら、それでもよかったかもしれぬが、それとは別の告知の最大の利点は、治療法を患者が選択できることだろう。告知がなされない時代にあっては、当然にして患者が治療法の決定に参加はできなかった。医師が良いと思う治療を医師の独断、あるいは家族にのみ選択権を与えて、家族と相談しながら行った。いずれにしろ本人は不在である。
もっとも患者ががんであることを知らない場合、末期医療が行えない、あるいは不十分になる。隠しておくより、がんと告げて医師は患者を励ます方がいいし、医師がそういう態度をとらないと患者はくじけてしまうと医師はいう。仏教に憧憬の深い作家の五木寛之はその著書『他力』のなかで、「私は闘病という言葉が、どうしても好きになれません」と書いている。
ある有名な医師との対談で、「結局、医者を信じて、絶対に病気に打ち勝つんだという強い気持ちを持つ患者さんの方が治るんですよ」という言葉にいささか疑念を抱いている。「治るものは治るし、治らないものは治らない。治ったように見えても人間は死のキャリアであり、いずれ死ぬわけです。老いにも、病にも、勝利などということはあり得ません」と五木は言う。
五木は仏教的な悟りの域に達しているようだが、「闘病」、「病に勝つ」ということについて考えてみる。闘病の是非については、人間の肉体そのものが反射的に、生理学的に病の抗原と闘っているわけで、そこに精神の在り方がどのように加味され、影響を与えるのかについての知識は自分にない。つまり、「気」と「肉体」の相互関係はあるともないともいわれる。
様々事例などから、精神と肉体の相互関係が検証されているが、精神と肉体との関係性は厳密な解明という言い方なら、未だ闇の中であろうが、こんにちにおける科学者の研究成果の中では、全てを解明出来ていないにしても、ある程度の説明が付く。たとえば、赤ちゃんに精神と肉体の相互作用はないとみる。その理由は、「自我意識」が発達していないからだ。
自我意識は肉体的・精神的に成長することで芽生えるわけだから、赤ちゃんには『心と身体の関係性』を問うための宛先がない。ところが不思議なことに何も知らない赤ちゃんが全て知っている事実がある。心臓の動かし方、呼吸の仕方、暑い時の対策方法、寒い時の対策方法や、安心する事、不安になる事、更に、恐怖において、身も心も同時に対応している。
赤ちゃん研究は人間の肉体と精神研究に多くをもたらせるが、考えてみるに人間は大脳の自覚意識が非常に発達したことで、精神活動・知的活動が飛びぬけた高等生物になった。まるで「精神」こそが全てのように言われ、精神(心・大脳)があるから肉体もあるという、精神至上主義が基軸となる。しかし、大脳に活動のための栄養を送っているのは肉体である。
WHO憲章に、「健全な精神は、健全な肉体に宿る」とし、身体の健康の重要さを説いている。ともかく幼児は歩行が始まる頃になると、危険から逃げるようになるが、あれも不思議である。ヒトの新生児がどれほど未熟で、その未熟さが実際にどれほど続くものなにか、十分に理解されてこなかった時代、不安定な発達期の幼児の要求は気づかれることがなかった。
人間は生きる事より、「愛する」ことの方が大事である。愛がなければ健全な精神の成長も発達もなく、本当の人生などあり得ない。未熟児が保育器のなかで懸命に死と闘っている姿を見ると、人間というのは知恵がつき過ぎると五木のような考えになるものだ。老いにも病気にも勝利はないという五木は、「健康法や検査など、いくら努力しても病気は向こうからやってくる」という。
五木は五木に生きればいいわけだし、あえて批判はせぬが、動物が動くというのは本来の在り方である。自分はウォーキングを日課にしている。歩くことの良い理由など、腐るほどあり、山ほど言われているが、取って付けたような知識を並べ立てる前に、歩くことが、「良い」ということの単純な理由は、「歩くということは、座っていないということである」と…。
考えてみれば当たり前のことだが、何事も当たり前のことがすべての基本になる場合が多い。難しいことを言わずとも、考えずとも、簡単明瞭なことが真をついている場合多し。だからか自分はよく人に、「簡単なことを難しくしてはいけない」と言った。江戸時代の儒学者林羅山は、「色を好むは真の情」といったが、難しいことを言わずとも勿体つけず斯くの如くサラリといえばいい。
五木は『医者に頼らず生きるために』という著作がある。誰とて医者に御縁なき方が良いが、五木も本年9月で85歳は長命である。同著のなかに、シャンプーを止めて髪がふさふさになったとある。2カ月に一回しか髪を洗わない五木というが、皮膚のなかにいる常在菌を落とし過ぎるのはよくないというが、洗浄便座で肛門を洗いすぎるとよくない以下の理屈と同じ。
皮膚の表面にはたくさんの常在菌がいて、バリア機能やうるおいを保っている。肛門も同じで洗いすぎると抵抗力が弱まり、かぶれや湿疹を引き起こす原因になる。強すぎない水圧で、軽くふき取る程度でとどめておく」だそうな。温水トイレの水流は可能な限り弱く、使用時間は5秒から10秒、長くても30秒以内にとどめ、肛門に傷があり痛みや出血がある時は使わない。
おしりの拭き方も、紙でこすらず抑えるようにして水分を吸い取るように。『洗浄便座は危ないの?』の著者でもある倉田正氏は、「紙でこすらず穴しめる」という表現で、上記の正しい拭き方を奨励する。さらにトイレは5分以内にと、長すぎると痔になる危険があるからだというが、洋式便所は楽であるからそれはないだろう。いずれにしろ、洗浄便座を正しい知識で使用すべし。
日本では日常生活で欠かせない存在となっている、"ウォシュレット"。一般家庭をはじめ、ホテルや旅館、ショッピングセンターなど、どんな場所でも見かけるようになった。唯一ないのが公園のトイレ。ところが、なぜか外国では普及しない。日本に来た外国人が驚いたり感心したりする物の代表として、よくあげられる洗浄便座が外国で普及しない理由とは?
日本の水は、「軟水」だが海外では、「硬水」の地域が多く、ヨーロッパでは水道水さえ石灰分を含み、飲料にも適さない硬水。これを洗浄便座に使用すると、含まれている石灰分が内部で凝固し、ポンプが故障したり、ノズルが詰まる。さらに衛生上の問題として、海外の水道水は不純物も多く含まれ清潔でないため、人体のデリケートな部分への直接使用には問題がある。
持ち去られる危険性もあり、イタリアでは普通の便器でさえ持ち去られるため、便座のないトイレもあるという。最近ボーイング社の最新鋭の旅客機787に搭載されたり、一部の高級ホテルで導入されたりするなど、少しずつ人気の兆しが見える。中国では人気が過熱だが、「汚い、不便」なトイレ文化で育った中国人には、日本の清潔で便利なトイレ文化に憧れがある。
うんはさて置きがんに戻る。『医者が癌にかかったとき』という有名な本がある。医者が癌にかかるとどうなるか?興味はあったが、当時はがんに無縁の意識もあって、読みたい本ではなかった。著者の竹中文良氏は、日赤医療センター外科部長で、自身の大腸がん闘病体験をまとめたもの。氏は55歳で大腸がんにかかり手術を受けたが、後に肝臓がんで79歳で死去する。
がんを告知された人の受け取り方はいろいろだが、「運命だから受け入れざるを得ない」という人もいるが、運命嫌いの自分は運命的なものなどと思わなかった。「がんになっても仕方がない食生活も含めた不規則な生活態度…」というのがすぐに閃いた。今さら反省よりも、医師に従うしかない。20歳の虫垂炎以来、入院体験はないが久々の入院・手術である。
どんな看護士に世話をされるのか、ちょっぴりワクワク感もあったが、大人のスケベ心か、ヤンチャ小僧の延長か。ネガティブやおセンチを嫌うプラス思考であるが、かつて思っていたような、「がんになったらショック!」というのはなかった。もっとも、「長くて1年です」などといきなり余命をきられると、それは違うだろうが、切れば簡単に治るとプラスに考えた。
母も15年前に大腸がんを手術してぴんぴんしており、あいつがそうなら、自分も負けておれんというのもあった。同じがんといっても、発見された時の進行度によっては、盲腸程度のがんもあるということ。比較的進行の浅い人に対し、「告知」という言い方は大げさかも知れん。いつ起こるか分からない、脳卒中や心筋梗塞の方が、速攻死に繋がる怖い疾患に思える。