「死ぬのは怖くない。でも、苦しむのは嫌だ」。これがゴッドハンドと言われた外科医ががんに侵された際の本心である。医者はがんと闘うが、それは他人のがんであって、腕利きの医師であれ自身の手術はできない。医師が患者のがんと闘う目的は、いかに延命させるかであろう。治癒の見込みがないとならば、一日でも長く生きていたい患者の心情である。
であるなら、医師は患者の要望に応えるために、あらゆる手立てを尽くして延命を図るのか?がんの痛みがどういうものかを知らないし、末期がんの痛みは緩和を施さなければ壮絶というが、人は人の痛みを感知できない。痛みに襲われて、耐えかねている人から痛みを聴いても、「痛そうだな」と想像するしかない。いかに文才あれども、「痛い」の表現は難しい。
普通の怪我やキズの痛みとちがって体の中から起こる、湧き上がるがんの痛みは、全身を かきまわす痛みであるらしい。お産も苦痛というが、子を外に出すという希望があるから耐えるが、がんの痛みなど何の希望もなければ迷惑以外のなにものでない。自分がこれまで経験した痛みの最大は尿路結石であった。あれがどう痛いのかを書くにしても上手は書けない。
ただし、どれほど痛かったかは自分がとった行動に現れている。夜中の痛みが睡眠を妨げたので、朝一番に病院に行こうと電車に乗った。自宅から徒歩5分の最寄りの駅から路面電車に乗り、25番目の駅で下車をし乗り換え、さらに2駅目で降りて徒歩で15分、目指す広島大学病院までの所要時間は約1時間。これが通例で何度も通っているから遠いとか面倒とかもない。
タクシーなどに乗ろうという気はまるでない。そもそも自分はタクシーという交通機関を、便利で合理的と思ったことがない。300円で済むところを3000円も払ってタクシーに乗るなど、必要性もなければメリットもない。すぐにタクシーに乗る人がいるのは知っている。同様に自分のようにタクシーに絶対に乗らない人間も知っている。その差が何であるか分からない。
乗る人は便利で合理的と思うのだろう。乗らない自分の理由も分かっている。時間の制約がないなら、これほど無駄な出費はないかと。過去、何のためらいもなくタクシーに乗ったのは、父の危篤の報を受けて東京から飛行機で広島に帰り、実家まで60kmをタクシーで走ったが、タクシーがこれほど遅い乗り物かを実感した。料金のこともまるで頭になかった。
35年前のことで、それ以後タクシーに乗った記憶はない。乗らないと決めているから記憶も何もない。尿路結石で病院に行くために電車に乗ったものの、苦痛に耐えきれず2つ目の駅で下車してタクシーに乗った。3000円ちょっとかかったが、座席では前のめりになって腹を押さえていた。自分にとって尿路結石の痛みとは、タクシーに乗るほどの痛みだった。
この世で最も痛いのが、「くも膜下出血」、「心筋梗塞」、「尿路結石」で、三大激痛といわれている。「尿路結石」をタクシーに乗るほどの痛みは比喩的だが、自分には合理性がある。ネットにはこのように書かれている。「尿路結石」は、背中やわき腹などに激痛が走る。痛みは夜間や早朝に起こりやすく、約3時間から4時間程度続き、あまりの痛さに失神する者もいる。
失神するほどの痛みといわれるが、失神しなかった者に、「失神するほどの痛み」という表現は成り立たない。こういう場合によく使われるのは、「筆舌に尽くし難い」である。怒りの最強表現を、「五臓六腑が煮えたぎる」という。最高の喜びの表現は、「喜色満面」か。最高の悲しみは、「悲憤慷慨」という四字熟語があり、「流す涙も尽き果てる」などもいう。
最高に面白い、可笑しいは、「へそが茶を沸かす」。誰が言い始めたのか、上手すぎる表現である。最高に驚くを、「地球が静止するほど…」などの表現を使うが、「Oh! My God!」は、「ああ、私の神!」が直訳だが、「マジか!」、「なんてこった!」、「どっひゃ~!」などと訳される。これもいい表現だ。さて、本日の表題が分からなくなってきた。
がんについてだが、末期がんの壮絶な苦痛に喘ぎながら、一日でも長く生きたいそんな思いはない。治癒しないと見極めるのは至難なのか。医師から余命宣告を受けたリ、実際そういう段階になった時、この世に未練を抱かぬ覚悟を決めたい。延命を望むことでそれに充当する豊かな人間生活への復帰や、日々の営みに繋がる見込みがあるなら延命に意味はある。
社会復帰とまでいかなくとも、病床だけの生活であっても、それなりに家族や知友らとの接触で、最終局面とはいえど自分なりの人生を横臥できようものなら、生存の意義を見出すこともできる。社会貢献はできなくとも、自身の利己的な生の意味は紛れもなく存在する。しかるに、いかばかりかの延命のために苦しむことに、生の意義や意味があるのだろうか?
上記した有能外科医の言葉、「死ぬのは怖くない。苦しむのは嫌だ」も、そのことを暗示していよう。医師の施す無用な延命は、医師によって目的もいろいろあろうが、昨今は善意の行き過ぎと非難もされる。末期医療行為というのは、医療行為者側にとって過大な収益をもたらす要素も含んでいたようし、医師のそうした利潤追求姿勢が健保財政を大きく悪化させた。
収益に走りたがる医療機関は間違いなく存在する。かつて、「医は仁術」と言われた。こんにち、「医は算術」と揶揄されるようになった。「尊厳死」という思想が世界の潮流にあるのは、「楽に死なせる」ことも医療行為であり、立派な手段であって、決して生かすだけが医療ではなくなっている。人間は等しく、「生きる」権利と同様、死ぬ権利も存在する。
「自殺」を一概に悪とは思っていない。が、未熟な年齢の子どもたちの死の選択は由々しい限りである。「由々しい」という言葉の意味は、「余程の事」、「余程の一大事」であり、子どもたちが死なずに済む選択種はあると思う。死なずに済む選択を自分で考えられるだけの情緒もないなら、誰かが諭してやればいいが、彼らは死を打ち明けないで死ぬ。
なぜだろう?親に打ち明けないなど、親としてこれ以上ない最大のショックであるのに、子どもは親に相談もせずに勝手に死ぬのはなぜ?自分に言わせると、親が何ら頼りにされていないということではないのか?子どもから見た親というのが、「勉強しろ」の親であるなら、そんな親に生きる苦痛を果たして子どもが相談するだろうか?自分には到底思えない。
子どもにとって親は人生のよき理解者であるべきで、だからよき相談者となり得る。大人と子どもが、水平の目線で対等の関係になれるような、意気投合できる話題が無ければ、子どもにとってよき理解者といえず、よき相談相手とならない。親が子どもの目線に降りなければ、「決まりきったことしか言わない」得体の知れぬ遠くの大人ではないのか?
親はまさか我が子が死ぬなどと思っていない。子どもは親が、まさか自分が死ぬなどと思っていないのを知っている。死ねば親は驚くだろう、悲しむだろう、それでは単なるドッキリカメラであり、子どもにとって親は、やはり一緒に人生を歩んでいく同伴者であるべきで、それなら人生に躓いたときに、よく相談相手になれる。そういう親子はどこに行ってしまった?
またしても話を戻す。死ぬ権利は自殺者にある。ただし、少年少女が自殺に至る短絡さを社会は問題にし、改革をしていくべきだ。大人が自殺するのは仕方がない。大人として情緒として決定したのなら、それが死ぬという選択である。問題は健常者ではない疾病患者、死の病に罹患し、もはや生の望みが絶たれた人には、希望があるなら医師は尊厳死を実行すべきである。
末期医療においては、患者を耐え難い苦痛から解放するのが何より優先すべきだが、その判断は医師に委ねられている。それを正当な医療行為として認めていいのではないかという主張と、医療行為として認められないという主張と、両者の食い違いが過去に繰り返された「尊厳死論争」である。日本では1977年、当時の「日本安楽死協会」が、安楽死法草案を作る。
①患者の自己決定権、②医師の裁量権、③書面による意思表示、などを骨子とし、1万人の署名とともに政府、国会に立法化の請願を開始した。ところが、世界にも例のない「積極的安楽死」の合法化と受け取られ、作家や医師などが、「安楽死法制化を阻止する会」を結成、各界交えた大論争へと発展していく。そもそも、「尊厳死」の概念は、消極的安楽死である。
「積極的安楽死」には、医師が患者の死の手助けをするという自殺幇助の側面がある。第二次大戦中、ナチスが安楽死の名にで精神障害者を抹殺したという悲惨な記憶もあり、一つ間違えば患者の生命軽視、弱者切り捨てになり兼ねないというのが阻止派の主張。「法律で決めれば日本人は安楽に死ねる。現代医療の矛盾は解決する」という発想は安易であろう。