「逸見さんが末期であったにもかかわらず、羽生先生が手術をしてしまった理由は、正直私にもわかりません。私なら、おそらくやらない手術ではある。『なんとかなる』という思いがあったのかもしれません」と、これは執刀医の羽生富士夫批判ともとれる言い方だ。当時羽生はゴッドハンドと言われていた。その羽生を批判することは誰もできなかったろう。
林にすれば、ゴッドハンドとて過ちを犯すと今ならいえる。羽生は後に胆管がんとなり手術を受けたが再発したとき林に、「オレを診てくれ。全部お前に任せるから」。林は化学療法を選び、幸い治療がうまくいって元気になったことで羽生は学会などで、「林はクソ生意気な男で、私の元を離れていったが、今度はこいつに助けられた」と話していたという。
羽生は2010年8月17日他界したが、林は主治医でもあり、この際何でも聞いておこうとの思いから、「死ぬのは怖いですか」と聞くと、「怖くはない。でも、苦しむのはいやだ」と話した。林は緩和ケアで痛みを取るために最善を尽くした。ゴッドハンドを看取った林は、こんなことをいう。「現代の日本のがん医療に必要なのは、『スーパードクター』ではありません。
がん治療のさまざまな分野について十分な知識や経験を持ち、病状の回復や進行に合わせて治療の選択肢を示し、患者のガイド役となることができる、「がんの総合診療医」ではないでしょうか。『医者の専門性を高め、役割分担を進める』と言えば聞こえはいいですが、患者にとっては手術、化学療法、放射線治療と、治療法が変わるたびに主治医が変わることを意味します。
それでは患者と医師の信頼関係を築くのは難しい。現実には患者の年齢や希望によって、治療の選択肢は変わります。40歳代か、70歳代か。「100歳まで生きたい」と思っているのか、「もう十分生きたので、身体的に負担の大きな治療は避けたい」と思っているのか。そうした患者の情報や病状の変化に応じて患者に選択肢を示し、アドバイスをするのが医者の務めでしょう。」
「がん難民」という言葉がある。手術や抗がん剤など科学的根拠に基づく、「標準治療」では打つ手がなくなった後も、治癒を求めてさまざまな治療法を試みる患者のことをいう。一部の自由診療クリニックでは、こうした患者を対象に、科学的根拠に乏しい免疫細胞療法などを実施している。多くの場合、治療費は数百万円に上るが、これは正当な医師から見てどうなのか?
日本医科大腫瘍内科教授の勝俣範之教授は、「免疫療法を高額で行う医者は、基本的に『インチキ医者』です。日本ほど、こうした根拠に乏しい医療が横行する先進国は類を見ない」と批判する。その一方で勝俣は、「がん難民が増え、自由診療クリニックが繁盛する理由の一端は、自分たちのように保険診療を行う医者の側にもあると思われます」と自省する。
現代医学では、進行がんや再発がんの完全な治癒は困難で、医師の多くは積極的な標準治療が終了した時点で患者に、「もう治療法はない」と告げるか、効果の乏しい抗がん剤治療を続け、副作用で患者の余命や生活の質を悪化させてしまうかの選択を迫られる。それに代わる「治療法」として欧米ではすでに広まっている、「早期からの緩和ケア」を勝俣は提唱する。
それを治療というのか?「緩和ケア」とは治療であるのか?勝俣曰く、治療の開始時から患者との対話を重視し、「がんを治すことより生活の質を大切にし、よりよいがんとの共存を」という治療目標を共有する。患者には、「決して見放さない」と約束し、余命の告知はしない。看護師らと協力し、早期からの緩和ケアを実践した結果、患者のがん難民は減ったという。
免疫細胞療法などにに頼ることもなくなったという。早期から緩和ケアを行うことで、進行肺がん患者の生存期間の中央値が、8.9カ月から11.6カ月に伸び、生活の質も向上したという米国の研究もある。「患者と医者間の『信頼関係』は、延命効果が実証された立派な標準治療です」。勝俣はそう主張するが、「緩和ケア」と聞いただけで患者は死の宣告と解する。
勝俣は近藤理論にも真っ向挑み、『医療否定本の嘘』(副題として、「ミリオンセラー近藤本に騙されないがん治療の真実」)や、『「抗がん剤は効かない」の罪』(副題「ミリオンセラー近藤本への科学的反論」)を著している。読んではいないが、書評を読む限り、現代先端医療の限界を書いており、それは「医療を提供する側」と、「医療を受ける側」の差異であると。
「治らないものは治らない」と医療側と、「治らないものを治したい」という患者側は、どこまでも平行線である限り、どこに妥協点を求めるかの問題となる。「早期緩和ケア」を推奨する勝俣氏であり、8.9カ月から11.6カ月に伸びたことは医学的には大変な延命だが、近藤批判における針小棒大な記述は、キチンとした批判とはいいがたく、近藤理論に抗う価値はないという。
逸見政孝一人についても、同じ医師で見解が異なるように、がんも複雑、人間の体も複雑、抗がん剤の効果も複雑である。竹原慎二は抗がん剤による劇的な効果で膀胱がんを治癒させた。彼のブログによると、抗がん剤の副作用はきつかったが、抗がん剤の効果でがんが1/4に縮小した。医師からも、「抗がん剤だけでここまで良い結果がでるのはななかなか珍しい」と指摘された。
竹原は、「嬉しかった。苦しい治療に耐えてきた甲斐があった。僕は今回抗がん剤治療を受けて本当によかったと思っている」とし、「万が一今後の定期検査で再発や転移が見つかった場合の標準治療について、僕は抗がん剤治療を選ぶ」と肯定的に書いている。ブログの最後には、「そしてなにより諦めず癌を放置なんてしなくて本当に良かった」と結んでいる。
そりゃそうだろう。抗がん剤が効いたから存命しているわけだし、効かなくて死んだ人は、次は別のものを試すわけにはいかない。抗がん剤についての疑問は、製薬会社が医師側に研究費を負担させている現状があり、この点は大きな問題であろう。それを廃止にする体制もなければ、医師が製薬会社に肩入れした都合のいい論文を書いていないとは言い難い。
抗がん剤は効くのか効かないのか、いつまでも議論するよりデータを取ればいい事だが、ついに認めた! 本年4月、政府と国立がん研究センターが、高齢のがん患者に対する抗がん剤治療について、「延命効果が少ない可能性がある」とする調査結果をまとめた。この調査を踏まえて厚生労働省は、年齢や症状に応じたがん治療のガイドラインを作成する方針という。
調査内容は、平成19年から20年に同センター中央病院を受診したがん患者で70歳以上の高齢者約1500人を対象に、がんの種類別に抗がん剤治療を中心に行った場合と、「緩和ケア」に重点を置いた場合とで、受診から死亡までの期間を比較した結果、肺がん、大腸がん、乳がんで末期(ステージ4)の高齢患者は、抗がん剤治療の有無にかかわらず、生存率は同程度にとどまった。
これは、抗がん剤治療が明確な効果を示さない可能性があるという。例えば肺がんの場合、生存期間が40カ月以上のグループは抗がん剤治療を受けなかった患者のみだった。同様に75歳以上で見た場合、10カ月以上生存した人の割合は、抗がん剤治療を受けなかった患者の方が高く、生存期間も長かった。このため、肺がんでは抗がん剤治療は5年生存率に効果を示さない可能性があると指摘した。
胃がんと肝がんについては高齢の患者数が少なく評価を見送った。とあるが、どうにも釈然としないのは、なぜ高齢者だけの調査なのか?別段、70歳以上の高齢者に限定せずとも、各年代で調査はできよう。まして70歳以上の調査としながら、75歳以上の身の生存期間を発表するのもオカシイ。悪い結果は発表したくないとの、製薬会社と国との癒着を感じる…
取りたくないデータを75歳上の高齢者だけに限定し、渋々取ったのではなかろうか。もしくは50代、60代のデータもあるが、発表しない可能性もある。国や役所は国民目線で仕事をしているんだろう?データはキチンと取れ!隠さず出せ!こんな簡単なことができないハズがない。医者と病院と製薬会社がボロ儲けという図式に、国まで加わっているのかと。
日本は世界でもっとも薬の値段が高い国。その理由は、日本の薬価は一部の人間が、「適当」に決めている。一部とは厚労省管轄の、「中央社会保険医療協議会」(中医協)で、中医協は先進国のなかでも特殊なもの。アメリカでもイギリスでも、薬の値段は製薬会社が決め、その値段で買う買わないは、保険会社や、「NHS」(国民保険サービス)に入っている保険者次第。
日本は中医協だけにしか決定権がなく、医療現場を知らない中央官庁の職員が薬価を決めている。中医協は狭い、「村社会」で、医療業界の利益を確保することを第一に考えている。また、中医協が決めているのは薬価だけでなく、診療報酬も彼らが決める。たとえば、心臓マッサージを30分間施した場合の診療報酬は2500円だが、風邪の診療報酬は4000円となっている。
生死がかかる治療のほうが安く、3分で終わらせる診察のほうが高い、そういう図式になっている。理由は簡単、需要の多い方が高ければ儲かる。最近話題の、夢の抗がん剤「オプジーボ」(小野薬品)で、これが問題視されたのは、年間3500万円というあまりに高額な薬価であるからだが、同じオプシーボ100㎎は日本約73万円、米国では約30万円、英国では約14万円。
かつて日本の大蔵大臣(後の総理となった池田勇人)は、「貧乏人は麦飯を食え」と言った。今の時代に相応しいのは、「貧乏人は死ね」であろう。そういう過激な言葉は口には出さないが、現実をみればそういうことだ。医療費も高い、高額な薬に高齢者ケアハウスも高い。欲張らず、現実を見据えて、自分にあった死を選べるのは、突発的な事故死よる幸せ哉。