社会には話題にすれば様々なことがある。社会に話題は必要なのか?ならば誰が必要とするのか?話題の張本人が話題にされて喜ぶならそれもよかろう。でなければ、メディアやマスコミが勝手に話題にして、何かにあやかろうとしているのは、腐肉にあやかるハイエナのようである。藤井聡太四段が将棋が強いというだけで、ああまで話題にしていいものか?
将棋を知らぬ人の話題にしていいものか?まるで国民的話題としての騒ぎようである。それによって、将棋連盟に御利益はあるのだろうし、先般の三浦問題が一蹴されたのは、藤井風が吹いたおかげであろう。一心に将棋が強くなりたいとの無欲の一念が勝利につながり、29連勝に寄与しただけなのに、そうした思いをよそに連勝記録だけを話題にするマスコミ。
芸能人アイドルなら騒がれ、話題にされることも勲章だが、藤井聡太はアイドルでもなければ、将棋が好きというだけで、時の人でもなんでもない。マスコミがこぞって大騒ぎをし、彼は愛想を振りまいているが内心は迷惑であろう。対局日に対局場に向かい、将棋盤を介して対局相手と向き合い対局を開始する。まさに盤上没我の境地であろう。それなのに…
アイドル並み、いやそれ以上にメディアは騒ぐ。騒がれるほどの何ほどもしていないというのが実直な思いであろうが、騒がれれば愛想をせねばならない。確かに世の中には美人がいる。好きでなった美人ではないが、彼女が街を歩けば多くの男が振り返る。そのことは彼女の罪でも何でもない。迷惑と感じる人もいる。気分のいい人もいる。どちらも美人である。
美人に生まれて嫌だという女性はいない。と思うだろうが、ある美人がこういった。「どうしてこんな顔に生まれたのか、自分がすごく嫌なんです」。事情を知らぬものが聞くと、ブサイクな女の僻みに聞こえるだろう。美人に生まれたことを嫌がる少女の心が奈変にありや、知る由もないが、いろいろ話した記憶はある。話の中身は記憶にないが、一つだけ思い出すのは…
無言電話や差し出し人無記名の手紙などが舞い込むという。体操服に着替えた制服のポケットや靴箱の靴のなかにも手紙、手紙…。本当にうんざり感を抱いていたようだ。付き合った彼女の妹は胸が大きいのが嫌で、さらしを巻いて登校していたという。「そこまでするの?」と聞いたが、そこまでするほどに嫌だったのだろう。それが唯一の答えである。
映画『櫻の園』のワンシーンで、胸が大きいというだけで、「この子はマセているから気をつけた方がいいよ」と、母に告げる祖母の言葉。「(胸が大きいのは)いけないことだと思っていた」という少女の想いである。美人とは言わないまでも、「こんな顔に生まれたくなかった」という少女と同じ想いであろう。少女は学童期から思春期にかけて肉体の変化は大きい。
そんな時期に、「女に生まれて嫌だった」という声は結構耳にした。男には分からない女の感情であろう。彼女らは、「何で女だけが、こんな面倒臭いことがあるの?」というのは生理が嫌、ブラをつけるのが嫌という。なぜに胸が大きいことを嫌がるのかを想像するに、自分の肉体がどんどんと雌に特化していくのが耐えられないという思春期前特有の心理と察する。
一たび女になれば、今度は女としての魅力を増大させていこうとする心理が芽生えてくる。「女は女に生まれない。女になるのだ」は名言だが、これは旧態依然的な男に虐げられた女に、主体性を持つよう諭したものだが、イスラム教はその教義において、「外に表われるものの外は、彼女らの美(や飾り)を目立たせてはならない」と、コーランに記されている。
アラーが言わんとする御意思は、「女性は着飾るな。美しさを他人・外部の誇示するな」ということだ。アッラーの要求は単に、「女性は体を隠せ」ではなく、「女性が自分を美しく見せることが御法度」。たとえ、女性が全身をスッポリ覆っても、その姿が美しく見栄えがするようであるなら、本来の趣旨に反することになる。一神教の神というのは何とも傲慢だ。
男は女をいつ頃から女としてみるかは、人によっても違うが、例えば3歳児の女の子がセパレートの水着を着ているだけで、女であるニュアンスを醸している。乳あては何の意味もないが、あれを着けさせたいのは本人でなく親であろう。なくて嫌がる幼児はいないが、ないと嫌がる幼児はよほど自意識としての女が強いのか?ちなみに着けているのを取るとなぜか嫌がる。
幼児にして女の意識の芽生えであろうか。乳あてをしてこそ「女」という疑似意識であろう。20歳を過ぎたある女はこういった。「みんなが隠すから隠すけど、わたしは別に恥ずかしくない」と、真顔でいったところに嘘はないかと。欧米のアスリート女性は日本人ほど乳首の隠匿に神経を使わないようだが、「あるものはある」、隠すいわれはないというけれども…
こういう逸話がある。入浴中の女性の浴室のドアをいきなり開けると、欧米人は胸を隠すが、日本人は陰部を隠す。つまり日本人が胸を隠すのは、白人の性癖が日本に持ち込まれたとの説で、かつて東洋では乳出しはそんなに不思議なことではなかった。江戸時代に日本に来た外国人が、女たちが恥ずかしげもなく胸を出している姿に驚いたとの記述がある。
混浴は当たり前の時代で、つまり裸で風呂に入っても恥ずかしくない当時の風俗は、おおらかというよりも当たり前になっていたからだ。かつては若いお母さんであれ、電車などで赤ちゃんに授乳させるなどもごく普通の光景であったし、変な目で見る男性もいなかった。近年、性産業の隆盛で女性の裸が金に結びついた結果、見られたくないようになったのか。
もっとも、公然と胸を見せるのは法律で禁止されている。身体のことはともかく、女の胸の中身を思考すれども、女の心などは何十年考えようとも男には無理難題である。犬が猫を理解するより難しいかも知れない。美人コンテストに応募する女性がいる。他薦・自薦があり、自薦はともかく、他薦は、「あなたは美しい、是非…」と推挙されたりで出場する。
そうはいえど、本人もまんざらでないという気持ちがなければ断ろう。自薦はそれなりの自信を持ってのことだが、選ばれるコンテストに自信の有る無しは関係ない。本人が、「わたしが一番キレイ」と思えど、親兄弟親戚がこぞって、「うちの子は世界一」と思おうと、審査に影響することはない。価値の高低は自分が決めるが、自身の価値の高低は他人が決める。
他者が決めた価値で人生が一変することもある。大資産家の御曹司に見初められるのを、「玉の輿婚」というが、これも人が人を決めることの一例だ。美人であることで得をした女性は多い。街道を歩く殿様に見初められ、側室となったケースも多だあった。家柄無用の百姓娘でも美人なら持ち帰る。あのデビ夫人も、妾とはいえ大統領夫人という肩書がついた。
ハリウッド女優のグレース・ケリーも、人気絶頂の最中にヨーロッパの君主と結婚し女優業から引退した。彼女は不幸にも52歳で死去し、まさに美人薄命であった。「こんな顔に生まれたくなかった」と嘆いた彼女は、今はどこでどう生き、どういう人生を送っているのか?今も変わらぬ美人であろうか?それとも皴皴婆であろうか?人の出会いも儚いものだが。
藤井聡太四段は、負けたことで一つのプレッシャーから逃れることができたろう。普通に対局し、その結果としての勝ち星が29個連なったに過ぎない。メディアに追い回される事が将棋を強くするわけでもない。彼の母は、「聡太は自分の番組は観ないようです」というように、周囲が勝手に騒ぐだけで彼にはどうでもよいこと。将来は愛知の偉人だろうが、今はただの中学生。
佐々木勇気五段には、「よくぞ負かしてくれ」たと称えたい。彼には、「刺客」となるべく準備をし、藤井が29連勝した6月26日にも対局室の隅に座し、伺っていた。「虎穴に入らずんば…」の心境であったろう。他の棋士は、「これは珍しいこと」というが、彼にはむしろ必要なことだった。「雰囲気にのまれず、連勝を止める気で臨む」と、対局前に力強くコメントした。
「良薬は口に苦し」という。耳にするのは辛いが自分のためになる事。負けは辛いが、「負けて覚える将棋かな」とも…。黒星は大きいが、匹敵する大きな何かを得た。負けたことで本当の意味で勝負の世界に足を踏み入れたことになる。マスコミは佐々木をイケメン棋士と喧伝するが、斎藤佑樹や石川遼ではあるまいし、佐々木に将棋外の評価は無用にされたし。
佐々木は今回の作戦面の詳細をこう述べた。「将棋の内容や形に囚われては勝てない相手なので、とにかく勝つという一点に集中して対局した」。自分の役割は、彼の連勝を止めること、そういう結果を求められていること、それらが作戦面や将棋全体に現れて、その迫力に藤井は苦しい将棋を強いられた。将棋に負けてやっと普通の中学生に戻れたことが何よりである。