情報社会と言われる現代だが、情報の洪水のなかで必要な情報が埋もれてしまい、課題を正しく理解したり、意思決定したりすることが困難になる状態を、「情報のオーバーロード(information overload)」と定義し、一般化させたのはアメリカの作家で未来学者のアルビン・トフラーである。彼は1970年『未来の衝撃』のなかで、こんにちの情報過多社会を予言した。
情報が多すぎることでそれらの処理能力が遅れるばかりか、適宜で正しい情報の選択がされず、結果として誤った意思決定もしくは、意思決定の質の低下が発生する。思えば我々は情報のない時代に生きた。思春期時期にもっとも興味のある異性や性の情報は、諸先輩や大人から生唾を飲みながら聞いた反面、情報雑誌や情報番組が新しい時代の到来を予感させた。
トークと音楽が中心の若者向け情報番組、『ヤング720(セブンツーオー)』や、日本初の深夜のワイドショー『11pm』は、深夜ということもあり、アダルトでセクシーが売り物だった。『ヤング720』は新陳代謝の激しい若者向けゆえに4年半で終わったが、『11pm』は24年間の長寿番組となった。情報は活力の源泉であったが、昨今の情報過多社会は想像し得なかった。
メディアや公共体や企業が発信する情報を、ひたすら受け取るという一方通行型情報時代から、近年はインターネットで個人が情報を発信する時代にある。自分もこうして私的情報や公的情報を発信しているわけで、それらがちょっとした収入や小遣い稼ぎになるということで熱心さも加速する。「余暇を収益に!」との触れ込みで、AMWAYなどのマルチ商法もあった。
そういうキャッチコピーに影響されてか、初めてはみたが頓挫する友人は多かった。自分は、「バカバカしい、遊びの時間に仕事なんかできるわけなかろう」という自己認識があった。仕事というのはある程度強制されるからやれるのであって、「してもしなくてもいいですよ」などと、やらないで済むなら誰もしたくない。強制は嫌だが食う糧だから止むを得ない。
自由な時間を仕事になどと、それで稼げたとしても嫌になる。仕事は仕事、遊びは遊びという割り切りが、むしろ仕事にも身が入るし、遊びも横臥できるというものだ。ブログで収益をなどは一見合理的だが、やる気が失せるのは目に見えている。自由というのはお金では買えないものであって、集客のために何を書けばいいかなど、考える事自体が不自由で嫌悪感を抱く。
「己を知る」ことは大事であり、そのことで無理なことはしないでいられる。若者が無謀なのは、「己を知る」という冷静さが欠けるからで、それはそれでよいと思う。無謀とは謀(はかりごと)が無く純粋であり、さらに若者は理知的・保守的でないほうがいい、失敗から教訓を得る方がいい。年寄りの老婆心などに耳を貸さぬ方がいい。反抗心こそ若者の宝であろう。
が、昨今のような情報過多時代にあっては、若者も取捨選択に迷うのではないか?そこらの近所のオッサンだけが若者にあれこれいうのではない、ネットの情報というのは、日本中いや、世界中の先人の言葉に満たされている。あからさまな異性の発言なども耳目にすれば、異性への突進力も薄れる。情報はある方がいいが、異性には先入観なしに突進すべきである。
なまじあれこれ考えると用意周到となり、行動力が鈍る。鈍るだけならまだしも、恐れ慄いて行動自体を避けるなら、これも情報時代の負の要素である。「案ずるより産むがやすし」というのは、お産の苦しみや怖さを和らげる言葉だが、何についても言える。できるなら失敗を避けたいと考えすぎる若者は、情報が錯綜し、頭が混乱しているのではないかと危惧する。
「こういう場合に女はこうである」。「デートの時はああした方がよい」。これを遵守するのをマニュアル世代というが、老婆心からかこうした、「HOW TO本」、「マニュアル本」の類が乱造している。若者は自由にやり、やらせた方がいい、なのに塾の学習システムのように、無駄な考えをさせるよりもあっさり回答を教えた方が早いと、こういうこともマニュアル化の一因か。
考えたリする時間よりも、一つでも多くのことを覚え、他人より一題でも多くの過去問をやる方が勝るといった合理的学習法が、若者の行動規範になってはいないかとの懸念がある。思考行動型はひと年とってからで、若者は行動思考型である方が、勇気や逞しさも身につく。いずれにしても情報化社会にあっては、若者に限らず大人も老齢者にも様々な混乱がないではない。
今回、がんについてあれこれ書いているが、がんというだけに書きつくせないほどに多面にわたるが、医師でもない自分が、がんになったらどうすべきの知識があるわけではない。それこそ、情報化社会のさまざまな情報から取捨選択をするしかない。もっとも自分は2011年に大腸がんに罹患し、切除手術を経験した。幸い初期がんでもあり、転移もなく目安の5年が経過した。
7月22日にがんと宣告を受け、8月26日に入院、30日に手術、9月10日に退院との流れであった。セカンド・オピニオンもなく、主治医に委ねることに戸惑いはなかった。近藤氏を周知していたが、彼の理論に与する気はない。はじめて近藤誠なる医師を知ったのは2001年、『文藝春秋』11月号であった。この号は立花隆の、「自爆テロの研究」を読みたくて買ったもの。
その号のなかに近藤氏の、「ポリープはがんにならない」という9ページに及ぶ記事があった。人体内部に発生するポリープを部位ごとに種別し、胆嚢ポリープ、胃ポリープ、大腸ポリープについて説明がなされ、近藤氏は胆嚢ポリープがん化説を明確に否定し、胃ポリープがん化説については、「医学の歴史と文脈のなかで検討する必要がある」と述べている。
こんにちポリープがもっとも話題になるのは大腸ポリープだが、発見される多くのポリープは、「過形成性ポリープ」であり、大部分が5mm以下の小さな隆起性病変とされる。これについてもかつては悪性化の可能性が言われたが、「過形成性ポリープ」46症例観察結果では大きくなったのは僅か一例であり、悪性化があっても極めてまれと考えられるようになった。
現在は内視鏡で過形成性ポリープは診断でき、切除の必要もなく放置でよいとされている。が、臨床医療現場では過形成性ポリープの大多数が切除されているという。近藤氏の忌憚のない主張によると、内視鏡検査に習熟のない医師は過形成性ポリープとの診断ができず、切除後の病理検査で過形成性ポリープであっても、「がんになる前に切って置きました」と言える。
また、放置しない第二の理由として、内視鏡検査は15500円、ポリープ切除だと63000円にも跳ね上がる。別に金儲け主義でなくとも、診断をつけられず切除する医師の方が実入りがよいことになる。それを証拠に大腸ポリープは医師間では、「宝の山」と言われている。こうまで露骨にアウトサイダー的発言をする近藤氏が、医師から敬遠されるのは当然であろう。
自分は近藤氏の著書は一冊も買ってもいないし、読んでもいないが、その理由は彼の論を信用するとか、疑うとか、どちらでもない。「無症状ならがんは放置すべき」と主張を軸に、がんの、「標準治療」を批判し続ける近藤誠医師は、2014年に慶應義塾大医学部放射線治療科を定年退職、現在は、「近藤誠がん研究所・セカンドオピニオン外来」を開設している。
近藤氏の、「がん放置」理論とは、食道がん、胃がん、乳がんなど、塊を形成する固形がんには、「本物のがん」と、「がんもどき」の2種類しかなく、検診や人間ドックで見つかったがんのほとんどが転移のない、「がんもどき」で生命を脅かさない。がん発生初期から転移能力を備える、「本物のがん」は、発見時にすでに転移しているので治療は無駄とする。
治療しないほうが、穏やかに長生きできると指摘する近藤氏は、治癒の見込みのない末期がん患者に、「QOL」を落とさぬとの思想が背景にある。末期がん患者の、「苦痛」の多くは、がんそのものではなく、手術や抗がん剤などの治療によって起こるからとする。それに比して標準治療を望む患者は、あくまで治療としての治癒を望むからで、そこが根本的に違う。
「できるならがんを治したい」と、そのための治療であって、苦しみはない代わりに治癒の見込みもない、後は楽な死を待つという患者の精神状態がどういうものか、どれほど虚しいものかを想像はすれども、実感はできない。「死ぬ」より、「治る」に希望を見出すか、苦しまずに楽に死を迎えるか…?多くの医師は、どこまで治すための可能性を信じるのか?
近藤氏に対して批判的であれ、実際に近藤氏と議論し、対決を望む医師が少ないなか、東京女子医科大がんセンター長でもある林和彦医師は、逃げる事なく対談を買ってでた。東京女子医大は逸見政孝のスキルス胃がんの手術を行い、逸見の体力を奪い、死期を早めたと批判を浴びていた。後に林は外科医から腫瘍内科医に転身したが、その理由を率直に述べている。
「がんを治すなら手術と、"神の手"と言われた故羽生富士夫先生のもとに入局しました。羽生先生は普通なら焦るような局面でも素早く処理をし、術後もとてもきれいだった。その地点にたどりついたとしても、治らない人がいる。私は沢山の手術をしましたが、それでも心のどこかで、『この人、治らないな』と思いながら手術をしていた。そんな不誠実な外科医でした。
林は言葉を選んで言っているが、自身の不本意さと病院の指示との間の葛藤に揺れていたのではないか?治らない無意味な手術は患者の体の負担を考えるとすべきでないが、しなければならない事情があったのだろう。それが、「この人、治らないな」と思いながら手術をしていた。であろう。あくまで想像だが、「手術をさせられた」というのが妥当ではないかと。
開業医と大学病院の勤務医の違いはあろうし、近藤は林に以下の質問をぶつけている。「逸見さんへの手術はするべきではなかった。当時、執刀医羽生氏に対する、あなたを含めた部下たちはどんな思いで見ていたのか?」。内の利益・不利益を考えれるなら答えづらい質問であろうが、自らを、「不誠実な外科医」と飾り立てない林は率直に答えている。
「がんを治すなら手術と、"神の手"と言われた故羽生富士夫先生のもとに入局しました。羽生先生は普通なら焦るような局面でも素早く処理をし、術後もとてもきれいだった。その地点にたどりついたとしても、治らない人がいる。私は沢山の手術をしましたが、それでも心のどこかで、『この人、治らないな』と思いながら手術をしていた。そんな不誠実な外科医でした。」