1993年9月6日午後3時、日本テレビ本社内2階のホールで緊急記者会見を開いたフリーアナウンサーの逸見政孝は、テレビカメラを前に緊張した面持ちで以下のように述べた。「私が今、侵されている病気の名前…、病名はがんです。このままこれを放置すれば…、年単位ではなくて、月単位でがん細胞は蝕んでいくであろうと、いうふうにおっしゃいました…」。
上記の言葉は要旨であり、記者会見の臨んだ逸見の第一声は以下のように始まった。発言にもあるように、実は逸見は93年1月18日に東京・赤坂にある前田外科病院でがんと診断され、25日に入院、2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の手術を行っていた。本人には初期がんで胃の2/3を取り除いたと伝えたが事実ではなかった。
執刀した前田医師は逸見の妻晴恵には、「ご主人の病状は、実際は初期の癌ではなかった。ギリギリの所ですべての癌細胞を取り除いたんですが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近いでしょう」と宣告していた。逸見は2月25日に退院、翌日には仕事に復帰した。逸見は病名を十二指腸潰瘍と偽って公表、退院後も、抗ガン剤投薬や前田外科病院への検査通院を続けた。
仕事は順調に増えたが、5月下旬にメスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始め、担当医は、「術後に起こる症状で心配ない」と言われたが、突起物が次第に大きくなり、服を着るにも邪魔なほどになった。同年8月12日、「突起物を除去する」という名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行し、もはや手のつけようがない状態だった。
そのような状態にもかかわらず、執刀医は逸見本人に癌の再発を一切告知しなかった。晴恵はガン再発を告知するよう依頼するも執刀医は、「逸見との信頼関係を崩すから」と断固拒否されたという。前田病院への不信感からか、晴恵は渋る逸見に転院を促し、土下座してまで頼み込んだことで、9月に東京女子医大への転院となった。逸見はこの時初めて再発を知らされた。
東京女子医大の医師は触診の際、「何故ここまで放っておいたのですか?」と、厳しい現状を告げた。逸見はそのことを冷静に受け止め、再々手術を決意する。そして上記の記者会見となり、逸見は自ら進行胃癌(スキルス胃癌)であることを公の場で告白した。同年9月16日に13時間(臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間)にも及ぶ大手術を受けた。
術後は歩行訓練を行ったり、粥などの流動食から普通食へと順調な回復を見せた。ところが大手術から1ヶ月が経過した同年10月23日、突然激しい腹痛を起こして食べ物を嘔吐した。検査結果が腸閉塞と判明、これにより絶対安静となり、絶食と高栄養の点滴を行うも逸見は徐々に衰弱して行く。その状態にありながらも11月上旬から抗癌剤投与が開始され、副作用に苦しむ。
激しい吐き気を催し意識朦朧、うわ言を発するなど病状は悪化して行く。体重が50kgを下回っていた12月16日には、再検査で癌は腸にも転移していた。主治医は12月1日、「ご主人の体に再びメスを入れる事はこれ以上不可能。残念ですが、年を越せるかは厳しい状況です」と家族に宣告した。12月24日は長男の誕生日だったが、この日遂に意識不明の危篤状態に陥った。
最初のガン発見から341日後、ガン告白の記者会見からわずか3ヶ月半後にあたる翌12月25日午後0時47分、東京女子医科大学病院にて死す。享年48歳という若さであった。死後になって、「末期の状態であったにもかかわらず、なぜ大手術を受けた(受けさせた)のか」、「クオリティ・オブ・ライフを無視した手術だった」といった疑問・批判の意見が多方面から多数あがった。
手術も抗癌剤投与も行わず処置した方が、苦しむこともなく1年程度は長く生きることができたとの見方もあった一方、腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のために必要な処置との見方もあり、賛否両論が渦巻いた。そんな中、治療内容の問題点について具体的に発言したのは、当時慶応大学医学部医師・近藤誠だった。逸見の死から3年、逸見夫人晴恵氏と近藤氏は対面する。
近藤氏は揺るがぬ信念を持った医師であるが、彼が引き合いに出す逸見政孝の他に梨本勝や中村勘三郎がいる。逸見は初回手術から10カ月、再手術から3カ月で死去。芸能リポーター梨本は、肺がんの抗がん剤治療を始めて2カ月半で逝った。食道がんの手術から4カ月で他界した勘三郎は、いずれも医者がすすめる、「がんの治療」で余命を短くされた悲劇と近藤は指摘する。
がんが恐ろしいのではなく、恐ろしいのは、「がんの治療」という持論を展開する近藤は、がんと宣告されても治療をしなければ、最期まで頭がはっきりしていて、痛みが出てもコントロールができる。全く痛まないがんも多い。などと一般的な医師の行う現代医学におけるがん治療の主流とされる三大療法(手術、抗癌剤、放射線)に真っ向から意を唱えている。
近藤医師のがん放置の考え方は二通りで、一つは発見がんを治療せずそのままにしておくこと。もう一つは体の中にがんがあるかもしれないが、それをわざわざ探し出さないで放置しておくこと。などと徹底している。この論理でいえば、がん検診はおろか、早期発見なども無意味となる。それに呼応するように、最近はがん検診が無意味という考えもでてきた。
先ずは、「がん」というものに対し、極度のアレルギーを誰もが持っている。想像で考えてみるといい。がんを診断されることは大きなショックを伴う。たとえ進行は非常にゆっくりだと説明されたとしても、「自分の中にがんがある」と思うだけで、不安にならない者はいないだろう。がんが発見されたというだけで、深刻なストレスに悩まされる人も少なくないハズだ。
自分は便鮮血から大腸がんを発見、告知されたが、その時に思ったことは、「なったものは仕方がない」ということ以外に浮かばなかった。告知された日のブログにも、「しょーがない、なったものは…いらんもんは切って取って、ゴミ箱捨てるしかないねー」。などと書いている。ショックもなく、じたばたしても始まらないということが分かっているからか。
翌日にはこう書いている。「いわれた瞬間、「やっぱりか!」と受け止めショックはなかった。医師もちょっと面食らったかもな。時間が経つにつれ、何も出来ない自分を知ると、普通にいつもと同じ自分になっていった。翌日もふつうに目覚め、がんであることを深刻に受け止めることもなく、気が重いなどは全然無く、ただ自分はがんなんだ、という事だけは忘れていない。
がんなどなったこともない時は、がんといわれたらお先真っ暗で嫌だろうなと思っていたが、昨日がんだといわれたのに、胸のつかえもなく、腹も減るし、宣告前と同じ状態の自分がいて、そのことがちょっと予測と違っていた。がんなのになんでふつうで居れるのかと、そこをちょっと考えてみた。多分だが、宣告云々というより、なったものはしょうがない。
自分の身体が勝手になったんだし、それが自分の意志と無関係であっても病気というのはそうしたものだろう。過去を思い返せば、もっと苦しいこともあった。(略)それは恋愛の悩み、親のこと、仕事のことだが、そんな事よりもがんなのに、おそらくはがんの方が苦悩は上位だと思うのに、そういう気持ちにならない理由は、おそらく60歳を超えた年齢かもしれない」。
不惑の年齢が40歳、50で天命を知る。60歳は耳順といい、修養ますます進み、聞く所、理にかなえば何らの障害なく理解しうるというが、確かにそういう心境であった。翌々日は、「人事尽くして天命を待つ」ようなことを書いている。以降は何ら変わらぬ普通の日常で、ストレスもなく、女々しい記述もない。がんについての記述は差し控えていたと8月4日に書いている。
過去の記述というのはまさに記録である。今はすっかり忘れた当時のことを呼び起こさせてくれる。「ふ~ん、こんなことを考えてたのか」と、それくらいに思い出せない過去のこと。自分は嘘を書かないので、時々の記述を疑うことはなしに読める。本当を書くことのメリットはそれだ。もし、時々に都合のいい嘘を書いていたとしたら、過去の想い出に浸る意味などない。
ところで、がん検診の有効性はどうなのだろう?昨日は、とある自治体で胃がんと大腸がんの検診で4割もの見落としがあったという。一体にこれは誰の責任で、何処に文句を言うべきか?専門家は、「他の都道府県でも同様の調査を行い検証すべきだ」と指摘したらしい。一事が万事であるなら当然である。すぐに調べろ。どうせ誰の責任ということもないんだし。
いい加減なのも人間だ。罰則がないなら、さらにいい加減は増す。さあ、どうするがん検診、受けるのか、受けないのか?これはもう、検診による利益と不利益を天秤にかけて、利益が勝るものを選んで受けるようにするしかない。 それこそ人のいろいろだろう。がんになっていても気づかない、がんがあってもなっていないと太鼓判、罪から言えば後者であろう。
前者は自己責任。後者は他者責任である。ところが罰則はない。「がん検診を受けよう」、「早期発見が第一」と呼びかけるが、近藤医師にすれば、どちらも無意味という。一体どちらを信じればいいのか?これほど誤解だらけの病気もないだろう。風邪の誤解だらけとは訳が違う。ネットで調べると見つけにくいすい臓がんや、生存率の低い肝臓がんなどの見つけ方がある。
これも一つの方法だ。あれほど言われた前立腺がんのPSA検査がまるでいわれなくなったのは、アメリカに笑われたからだろう。「頭痛で脳波を調べるのは無意味」、「前立腺がんのPSA検査はほとんど無意味」。アメリカの各医学会が、これまで行なわれてきた医療行為で、「無駄なもの」を追放するキャンペーンを始めたという。さすが、合理のお国である。