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結局、がんというやつは… ③

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「人間は最終的にとことんのところ何を欲しているのか。それは世に理解されることであり、世に認められることである」と、谷沢永一は言っている。それこそ人間は、「息をひきとるまで生涯をかけて、私を認めてくれ、私を認めてくれと、声なき声で叫びつづける生き物であろうか」。マズローの欲求5段階説のうち、承認欲求は4番目の欲求に位置付けられている。

承認欲求はその名の通り、「欲求」であり、その人が満たしたいと感じているものであって、「他者から認められたい、尊敬されたい」と願う気持ちは分からないでもないが、一体誰に認められたいというのか?確かに、承認欲求は多くの行動の動機になっている。満たされていないものを満たそうとする心の働きは、行動の動機(モチベーション)につながるだろう。

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承認欲求が根底にあってブログを書く人は、一体他者から何を認められたいと思い、自分の何を尊敬されたいのか?賢い人、善い人、優れた人などと思われたいのだろうか?そうした欲求があって、それが満たされることで幸福感を抱くのは解る。幸福感とはその程度のものだ。自分についていえば、そういう欲求はゼロとは言わないまでも意識することはない。

人に認めてもらわずとも楽しく、不満もなく、そんな生き方もあると思うが、人間は目先の事を考え出すと、いろんなことが気になるようだ。確かに特定の欲望が叶えられてることは、幸福が成立するための条件であろう。が、承認欲求について言えば、人に認められる以前に自らを認めるのが先決ではないかと。「幸福とは、満ち足りた状態にあること」と辞書にある。

特定の条件としたのは、欲望は主観的に決めるものだからで、たとば10万の月給で喜ぶ人もいれば、100万もらって満足できない人がいるように、「満足」とは個々の主観によるなら、特定の欲望は計量化することも難しい。また、そこに自己欺瞞を働かせるのも人間だ。「欲しいものなどない」、「お金なんてなくとも俺は幸福だ」などと言う人は少なくない。

真実か否かなど疑うのも面倒で、疑ってどうなるものでもない。自分に関係のない他人のことゆえ信じてやればいいと、そうしている。幸福に冷めた見方をする自分だが、幸福を口にする人間には無知者が多いのを知っている。幸福感(満足感)というやつは、実をいえば、「知らないこと」に支えられている場合が多い。例えば、浮気しまくり妻をよそに幸せに浸る夫。

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聞き分けのいい子どもに充足感を感じる母の陰では、「うちの母親なんかノー天気のバカ、鈍感なのよね~」などと思う子ども。ばかりか、オヤジに金貰って援助交際しまくり娘である。幸福とは実はそういうものだったりする。「知らぬは亭主ばかり」、「母親なりけり」である。知らなければいいというが、知った時に、「あの時は幸福だった」といえるのか? 

人間は摩訶不思議な生き物で、以下のケースもある。ある女が男に騙され続けていた。稼いだ金は搾取同然のように、男に貢ぐものだから預貯金も底をついていた。周囲は彼女に、「騙されている」と伝えるが、「いいの騙されてても…」とにべもない。それでも男を好きと、女は幸福感に満ちていた。自分はこの女にとっての不幸とは、男が去っていく事だと知った。

自爆テロで死んでいくタリバン兵士も幸福である。幸福とは定義できない、得体の知れないものでもある。だから人は、「幸福」の呪文を唱えながら、幸福感に浸って生きていきたいのだろう。病人がいて、健康人がいて、どちらが幸福かと問えば、誰もが健康人という。病人であるから病的なふるまいをするとはいえない。病人であっても心が健康な人はいる。

まるで狂信者たり得る健康人がいる。腐った心を持ち、疚しい健康人もいる。病気とは精神の病も含む以上、病人と健康人の境界というのは曖昧である。両者の境い目に位置する人もいるが、一般的に病人と健康人を区別する指標というのは、「他者の承認を求める」ことになる。最近、にわかにブームとなったアドラー心理学のアルフレート・アドラーはこう述べる。

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「他人から承認を求めることに、ことさら神経症になる人には隠された動機が見える」。たとえばストーカー行為をする男は、自分を拒否して逃げ惑う女から、何が何でも承認を得たい動機にかられている。こういう男は、キチガイ、変質者、何をいわれようと平気、むしろ変質者という承認を得ることで、あらゆる責任を放棄でき、ストーカーを自己正当化できる。

こうした極度の神経症者の根底には、「それほどまでに病んでいるの?」という同情という承認である。アドラーは承認欲求を捨て、嫌われる勇気、褒められない勇気を奨励するが、そのために必須なのは自信であろうか。それにしてもがんというやつは、何処までも人間を駆逐するしつこいストーカーである。「分かった、お前はがんなのだ」と承認してやっても止めることはない。

唯一がんと妥協する道は、「お前を道ずれに死んでやる」という対決姿勢であろうか。「いつ死ぬるか分からぬ、つかの間の幸福に寄り添う」か。死に行く者の切実な思いを、他人である我々は傍観だけはできる。何一つ手を差し伸べることはできない。傍観する者がどのように苦しくとも、我々は他人の不幸には十分に耐えられる強さだけは持っているのである。

米原万里ががんになったとき、「開腹し転移の恐れがある卵巣の残部、子宮、腹腔内リンパ節、腹膜を全摘」という医師に従うことをしなかった。セカンド・オピニオンとして『患者よがんと闘うな』の著者である近藤誠医師を提示したところ、主治医から診療情報の提供を拒否された。相手が近藤医師ならさもありなんであろうが、それが元で米原は転院する。

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転院先の医師は4つの選択を提示したが、最善は切開・全摘を奨励した。米原は外科手術を拒否し、近藤医師を信奉した。数々の著書で知名度を上げた近藤医師のセカンド・オピニオンの料金は30分で32000円と高額である。思い上がったものだが、これも暖簾代であろう。米原は、「活性化自己リンパ球療法」、「温熱療法」、「刺絡療法」などの代替療法を試した。

近藤医師と同じく慕う安保徹医師の、「爪もみ療法」も試した。「奇跡が起こる爪もみ療法」という触れ込みだが、このように書けば藁をも掴む気持ちになる。米原の他にも、ジョブズ、忌野清志郎、川島なお美らが、手術や抗がん剤を拒否し、代替療法に頼り、亡くなった。この中で川島と米原は近藤医師批判し、米原は近藤医師がいかにいい加減であったかを著書に綴っている。

標準治療を拒否した理由は、近藤や安保の理論に傾倒しただけではない。外科手術にしろ、放射線治療にしろ、抗がん剤にしろ、がんの治療は激烈を究めるがゆえに、うまくいくものなら代替療法や近藤医師の、「放置療法」に頼りたくなる気持ちも分からないわけではない。が、切開・全摘を勧める医師を拒否したのは、本人の責任ではないのか?川島も、米原も…

信じたものに裏切られたと言えば聞こえはいいし、自身が選択した責任はないように取れるが、信じてもらえなかった側の医師にとっては、自業自得というしかない。そこを踏まえてなお、代替療法を批判したいものかと。それぞれに、それぞれの事情もある。咽頭がんの忌野は声が出なくなるのを嫌がった、小林麻央も乳房の全摘嫌がったという、これは覚悟の問題でもある。

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医師だけの問題ではないが、結果が裏目にでると誰かの何かの責任にしたくなるのが人情だ。米原の親友の黒岩幸子も、「なぜ切らなかった」といい、別の親友であるイタリア語通訳者の田丸公美子は、「なんであんなに言いたい放題言っていたあなたが、がんになんかなるのよ!」と、根っこに言及した。これについては死後に書かれた米原の妹が姉について述べている。

「何者も怖れず、自由に書き、大胆に発言した――、しかし万里は少し臆病な少女だった」。姉を身近で見てきた妹だが、これはよく分かる。「何者も怖れず、自由に書き、大胆に発言した――、しかし自分は少し臆病な少年だった」と、自分も置き換えられる。臆病で、いい子ぶって、控えめで、消極的といったネガティブな自分からの自己変革を試みたからである。

つまり、何者も怖れず、自由に書き、大胆に発言するという行為は、自己変革の必要性から挑戦すべき事柄であった。できることをやるではなく、できないことをあえてやるのを挑戦というなら、辛く苦しいことをやったその結果として身につくものが、「強さ」であろう。人が変わるということは、変わろうとする強い意志と勇気の結果、手にする新たな能力ではないか

目指すものを手に入れるために捨てなければならぬものがある。まずはそれを捨てる勇気が必要だ。よって、「勇気」とは、決別だと思っている。もし、死ぬことを怖れない勇気が身についたなら、それは「生」への完全な決別であろう。臨終の間際に読みたいといったセネカの言葉に、「いつ死ぬか分からないのに老後の計画はバカげている」とあるが、刹那主義というより現実か。

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