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結局、がんというやつは… ②

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「あいつは単細胞なやつ」という。単細胞とは単一の細胞の意味だから、考え方が一面的で単純な人。物事をあまり深く考えない人。などを総称した言葉で、言わずもがな誉め言葉ではない。がん細胞は、DNA(遺伝子)が何らかの原因によって傷ついてしまうと、ある1つの正常な細胞が突然変異し、無秩序に増殖する。これががんの始まりとされ、増殖の仕方はまさに暴走である。

普通の細胞は例えば切り傷などの場合、皮膚の細胞はけがの部位に増殖して傷口をふさぐが、傷が治れば増殖を停止する。ところが、がん細胞という奴は、体からの増殖停止命令を無視して増え続ける。なんで、がんというバカは言うことを聞かず勝手に増えまくるので、周囲の大事な組織を壊したり、本来がんのかたまりがあるはずがない組織で増殖したりする。

がん細胞に目的があるとすれば、人間の体内で増殖を繰り返すことで、人間は機能不全で死ぬことになるが、同時にがんも死ぬ。つまり、がんは自分のコピーを増やしまくった結果死滅する。それが目的なら、がんは何という単細胞のおバカであろうか。自分が死滅するまできばらなくても、もうちょいと頭を使って、ゆっくりと共存したらどうなんだ?

そんなに急いでどうすんだ、頭悪すぎる。今度から単細胞という言葉をがん細胞に言い換えたらいい。それほどがんはバカだろう。しかし、このバカ野郎のせいで、人間が死ななければならないのはクソ面白くない。がんだけやっつける薬なり、電光銃なり、最強効果のある武器を早く開発してくれ。もっとも、世界各国で頭のいい人たちが寝る間を惜しんで考えてくれている。

早く、早く、早~く、開発してくれたら、死なずに良い人がたくさんいる。人間はいつの日か、がんに勝てるのか?末期がんにさえ勝利できるのか?麻央さん34歳、佐久間が61歳、米原56歳、今井雅之54歳、川島直美54歳、ジョブズ56歳、まだまだ大勢の命が失われた。誰でもがんになっているという。が、免疫機能ががんを退治してくれているおかげで発症しない。

ところががんは免疫機能を弱めていることがわかった。それでは免疫機能を高めればいいというのが、これまでの免疫療法の中心だった。ところが、最新研究でわかったのは、がん細胞が免疫のはたらきにブレーキをかけて、免疫細胞の攻撃を阻止しているという。がんという奴は何という奴であろう。そこまでするとは、最強の防御と最高の攻撃性を完璧に備えている。

これではいくら免疫力を高めても、肝心のガン細胞には効果が無いことになる。それならどうするか?がん細胞によるブレーキを解除することで、免疫細胞の働きを再び活発にしてがん細胞を攻撃できるようにする、そういう新たな治療法が考えられた。つまり、がん細胞がまとっている"鎧"を破壊し、免疫による攻撃を最大化する治療法であるという。ついにやったか!

といいたいが、課題も多い。研究がスタートしたころに比べると、薬剤が肺がんや卵巣がんで有効な症例を得ているが、がんはそれだけではない。他のがんへの効果が期待されている。さらには、薬剤の効く人と効かない人の要因を特定することも重要な課題という。酒に酔う人、酔わない人のような、何か特定の要因があるのだろうが、それを解明することも重要。

アメリカでは1971年、ニクソン大統領が、「がんとの戦い(War on Cancer)」を宣言。国を挙げてのがん撲滅政策を指しているが50年近く経つというのに、「なぜ"がんとの戦い"にいまもって勝てないのか」という興味深いレポートがあった。一言でいうと、安易にシンプルに考えていた節がある。これが、ニクソン大統領の、「がん撲滅」宣言のベースにはあったようだ。

おそらくウィルスが原因なのだろう、という発想だったが、ウィルス説が覆されされ、「遺伝子の突然変異」ががんの原因という考えが浮上した。が、1980年代初期、がんの原因となる変異遺伝子の数はそれほど多くはなく、それを解明すれば、ほかのすべてのがんについても構造がわかるはずだ、と考えられていた。まるで物理法則のように簡単に考えた。

ところが、それも間違いであることが分かった。残念なことに、こんにち明らかになっているがんの本質は、「単純に説明のつくものではない」ということ。これまでの各種の病理体系では説明できない、一人一人のがんはすべて異なっている。そしてその一人一人のがんさえも、日々、変化しつづけいる。とてつもなく複雑で魑魅魍魎としたものこそがんの正体なのだと。

その上で、新薬開発を行っているが、鬱が薬で治らないように、がんを薬だけで治すという試みは、実質的に不可能に近いということが、世界の第一線の医学者たちに明らかになっている。唯心論をベースにした非医学的なアプローチでがんに取り組む研究者もいるが、これは地道な努力のみであるという。これらがこんにち、「人間ががんに勝てない」最大の要因である。

がんになった人は誰もみな最後の瞬間まで命を全うするために闘う。「明日の命かも知れない、仮にそうであっても今日、自分はリンゴの樹を植える」と、迫りくる死と闘うのは感動のドラマであろう。簡単に命を投げ出す人もいるにはいるが、簡単に命を差し出すわけにはいかないと、かけがえのない命を惜しむというのは、美しき哉「生」に対する執着である。

死とはその人の人生の集積である。であるなら、死を前にした人の心に躍動するような生命力のある言葉…、それが「明日で終わるいのちであれ、今日リンゴの樹を植える」ではないか。死は生きるものにとって避けられない必然だが、それぞれの人の死は、寿命を限定されない以上、「意味のある偶然」であろう。我々の日常で、「意味のある偶然」はしばしば起こっている。

自分もいつかは死ぬが、いつの日か分からない。がんで死ぬのか、脳卒中か、心筋梗塞か、肺炎か、腹上死か、想像もつかない。が、最後のだけはないだろう。何で死にたいか?適うならば「老衰」がいい。老衰とは字のごとく、「老いて心身が衰えること」であって、病名ではなく、特定できる病名もなく、加齢に伴って自然に生を閉じることだが、こんにちでは少ない。

食欲がないとか、食事を摂れなくなったとか、どこかしこが痛いとかの場合、病院で検査をして、何らかの病名がみつかり、早期がんなら手術、末期なら別の何かというように…。楽に生きたいなら老衰であろう。枯れるように逝くのが一番ではないかなと。映画『おくりびと』誕生のきっかけとなった、青木新門の著書『納棺夫日記』に以下の記述がある。

青木氏が納棺の仕事を始めた1970年代前半は、自宅で亡くなる人が半数以上で、「枯れ枝のような死体によく出会った」そうだ。その後は、病院死が大半となり、「点滴の針跡が痛々しい黒ずんだ両腕のぶよぶよ死体」が増え、「生木を裂いたような不自然なイメージがつきまとう。晩秋に枯れ葉が散るような、そんな自然な感じを与えないのである」と記されている。

ベッドから立ち上がれない状態になれば、本でも読むしかなかろう。さて、何を読むかだが、大体決めている。筆頭は、セネカの『人生の短さについて』を読もうと、今は読まずに置いている。「人生は短いのではなく、浪費している」と彼は言う。セネカのいう、「仕事に忙殺されることを避け、自身のための時間を確保せよ。これが人生を長く生きる条件」とした。

自由主義者の自分は、60歳から24時間の自由を得、横臥している。もっとも、多分に浪費しているが、切羽詰まってやることがないゆえに、浪費が自然かもしれない。生きるということは、過去を顧みても、様々なことにぶつかり、勝ちもし、負けもし、成功も失敗もした。人間は負けや失敗が大切であり、負けてますます強くもなれば、失敗しても自信がつく。

そのように前向きに生きてきた。ずるい方法で勝ちを得、成功してみても、人は人間として進歩も成長もしない。嫌なことでも避けられぬことなら、ありのままの自分でぶつかればいい。いかにみすぼらしい自分であれ、それがありのままの自分であるなら、隠したり、誤魔化したりはナンセンス。すべてはありのままの自分で対処するのが楽であり、自由というものだ。

老子の中で最も気にいった、「跂(つまだ)つ者は立たず。跨(また)ぐ者は行かず」は、うまい表現である。人は跂とうとするし、跨ごうとするし、なぜにそうするのか?跂ちたいから、跨ぎたいからだ。跂てば背は高く見える、跨げば2歩が1歩で済む。けれど、跂つのはゆらゆら安定しない。跨げば着地がドスンとなり、足腰に負荷がかかろう。自然が一番という教えだ。

自分の死はもう少し先であるから、受け止める準備を万端にしておこう。どのように考えようと人間はある期間の生を与えられたに過ぎない。ある者は死にある者は死なないというなら、死ぬ人は不幸を感じるであろうが、誰もいつかは死ぬというのは救いである。死ねという定めなら文句も言わず、消え去るべきである。まして、我々は自分の死を知ることはない。


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