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結局、がんというやつは…

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10年位前だったか友人が、「打ちのめされるようなすごい本があるので読むか?」というので、「これまで借りて読んだ本で気に入ったものはなかったが、誰の何ていう本だ?」と聞くと、「とにかく打ちのめされるようなすごい本。明日持ってくる」というので、「いいよ、面白くなければ止めるが…」。翌日持参した本のタイトルを見て、「なんじゃこりゃ~」と笑った。

タイトルはスバリ、『打ちのめされるようなすごい本』、作者は米原万里。TBSの「ブロードキャスター」にコメンテータとして出ていたので顔と名は知っていたが、東京外大ロシア語学科を出て一線級の通訳から小説家に身を転じ、『不実な美女か貞淑な醜女か』(1994年)で読売文学賞、『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』(2001年)で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。

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彼女は稀代の読書家で、速読術を身につけていることもあって、1日平均7冊を読むというが、『打ちのめされるようなすごい本』のタイトルは、彼女がこれまで読んで打ちのめされた本の書評と、自身の卵巣がんの闘病記であった。がん患者の闘病記というのは、おそらく死の道程を意識してのことだろう。それがブログであれ、公にしない個人の日記であれ…。

過日、逝去した小林麻央さんのブログは多くの読者を要したようだが、自分は読まなかった。2014年1月16日にスキルス胃がんで他界した元四人囃子のベーシスト佐久間正英のブログはしっかり読んだ。彼ががんの罹患を知ったのが2013年4月、ブログには公表せず、同年8月9日のブログで初めて罹患と闘病を語る。次にアップされたのが同月19日だから、10日後であった。

そうして10月27日、3回目のブログが最後となり、1月16日の逝去の報は息子によってなされた。佐久間氏の10か月の及ぶ闘病生活だが、闘病記なる記事は3回のみで、以下の記事が最後となる10月27日のもの。感情を交えず、淡々と病状報告のなかで、「この瞬間生きている事への悦びが噛みしめられる」という言葉に、死期の近い人間の「瞬間」の充実を見たようだった。

我々は、1日であれ10日であれ、1か月であれ、無駄な時間をどうということなく過ごしているが、余命を切られた人の集約された日々の時間の、なんと貴重なものであるかを知らされた。知らされたとはいえども健康体の我々が、変わるものでもない。これを贅沢といわずして、他にどんな贅沢があろう。人間が生きるということは、ただただ欲望の充足でしかない。

愚か者の我々にとって、果たしてこれ以外に何があろう。結局我々は、死期の近き人からも学ばない。彼らをどのように捉えるかは人それぞれだろうが、根底にあるのは、自分が健康で良かった、がんでなくてよかった、余命を切られるなんて耐えられないし、そういう人はお気の毒。以外に何があるというのか?いかに考えようとも、それ以外になにもない。

自分が健康である。まだまだ当分、死ぬことはない。ゆえに、死が迫る人に同情を向けられる。そのことは罪でもないし、不道徳でもないが、本当にそれしかないのか?人間はその程度の生き物なのか?いくら考えても、答えは見つからない。死を最大の不幸とする限り、生は最大の充実であろう。佐久間氏につけ、麻央さんにつけ、我々の脳裏には一つの事しかない。

彼(彼女)は今、どういう気持ちでいるのか?死を前にした人の気持ちを類推することが、我々の死の認識か。死を体験できないが死を知ろうとする我々は、その題材として、死期が迫った人の心情を理解することかと。佐久間氏は最後のブログの一行に、「それでも人生ってまだまだ楽しく面白い」と記している。おそらく我々の「楽しく面白い」とは意味が違う。

が、我々は佐久間氏の、「人生は楽しく面白い」を理解できないだろう。同じ境遇となって理解できることに思える。我々と違って末期がん患者のブログはダイイング・メッセージ的な意味もあろう。我々のブログは頭の整理や自己確認、もしくは色んな方との情報交換や、励まし合いや、傷の舐め合いなどなど、人によって様々だが、死を目前の闘病ブログを自分も書くのだろうか?

現在やっていることも広義のダイイング・メッセージであるが、切実な状況下で何を書くのか、書かないのかを今は想像もできない。闘病記を書くという行為を想像でいえば、自分で理解している目的の他に、何か自分でも釈然としない、言語化すらできない、モヤモヤした気持ちがあるのではないかと。柳田邦男は闘病者の記述を以下のように分類している。

 1、苦悩の癒し
 2、肉親や友人へのメッセージ
 3、死の受容への道程としての自分史への旅
 4、自分が生きたことの証の確認
 5、同じ闘病者への助言と医療界への要望

では闘病記を読むという行為はといえば、言わずもがな死への疑似体験である。たとい疑似体験であれ、「死を受け入れることは何より生きることを充実させることに繋がると思うのだが、自分の肉体を哲学するのも闘病記であるような気もする。自分はこの世から何時おさらばするのだろうか、そう思いながら書ける幸せ=生きる幸せを嚙みしめるのちがいない。

すべての事を自分に問い、一切の答えを自分で出す。闘病者というのは、究極的に自己中心者である。今更、誰の考えや意見に触れたところで何になろう。死ぬというのは、絶対的な自己責任の上においてなされるものだ。さて、猫またぎについてだが、こんな悠長なことを書いていられるのも健康体だからである。さりとて死が目前に迫っても健康体の記事を書いてみたい。

何を書いても生きていられる人、何を書いても死を目前の人、この違いは大きい。あちこちに病気が集まってくる自分の体を自慢するのも一興だ。佐久間正英も小林麻央も米原万里もみながんで逝った。胃がん、乳がん、卵巣がんと、それぞれ発症部位は違うがいずれもがんであるが、上記した3人には三様のがんとの闘いがあった。人事を尽くしたのは唯一小林麻央のようだ。

発見段階ですでに手の施しようがないと医師に告げられた佐久間は、放置するのも釈然としないからと中国漢方と丸山ワクチンを試したといい、肉体へのダメージが大きい三大療法(手術、抗癌剤、放射線)を避けるも、脳に転移した大きな腫瘍は音楽活動に支障がでるので取り除いた。そのせいか、劇的に落ちていた左の腕や指の運動能力は回復したという。


10月27日の最後の書き込みには、痛み止めとしてモルヒネ使用を公表した。頭朦朧、食欲減退、便秘、激やせなどの副作用から、鏡に映る姿に憂鬱となるも、この時期はもう足の極度のむくみで歩行困難になるという。「もう仕事はできないのか」、「やりたいこと、やり残したことは山積みになってしまう」としながら、「それでも人生ってまだまだ楽しく面白い」と綴る。

やはり人間はこうなのだ。「まだまだ楽しく面白い」という進行形の記述に生の執着を見る。一方、米原も医師との確執を書き綴っている。2003年10月、卵巣嚢腫の診断を受け、内視鏡で摘出手術をしたところ、嚢腫はがんと告知された。S医師は、「開腹し転移の恐れがある卵巣の残部、子宮、腹腔内リンパ節、腹膜を全摘し、進行期を確認した上で抗癌剤治療」を提案。

米原がセカンド・オピニオンを提案するも、S医師が診療情報の提供を拒否されたことで、米原はこの医師には「今後一切関わるまい」と決意する。転院したJ医大のO医師から以下の4つの提案された。①S医師と同じ。②抗癌剤投与をした上で開腹し、残りの卵巣、子宮、関係リンパ節などの除去。③抗癌剤を投与しつつの様子見。④何もせずに経過観察(いわゆる様子見)。

O医師が勧めるのは①とのことだが、4つの案のどれを選択しても対応すると言う。米原は④を選択した。別のセカンド・オピニオンを近藤誠医師に求め、近藤医師もその選択を支持する。経過観察の一環として、「活性化自己リンパ球療法」を受けることにし、瀬田クリニック系列新横浜メディカルクリニックへ。1回約26万円、1クール6回、3カ月で約156万円を負担する。

最初の手術より1年4カ月経過した2005年2月ごろ、左鼠経部リンパ節へ転移が判明。J医大O医師から、「患部のリンパ節および転移可能性大のリンパ節すべてと原発である卵巣残部および子宮の切除、その後の抗癌剤治療を提案」される。これについてセカンド・オピニオンの近藤誠医師から、「手術も抗癌剤も再転移の可能性大なので、効果が望めないだろう」指摘を受ける。

さまざまな文献を漁った米原は、安保徹の「癌患者は免疫抑制状態にあり、それを解除するだけで癌は自然退縮に向かう」という免疫理論に傾倒する。安保は医師であるが、免疫学研究医で臨床医ではなく、彼の臨床に関するユニークな主張には医学的根拠はない。『薬をやめれば病気は治る』などの著書を出しているが、臨床データも無く彼の個人的見解にすぎない。

「免疫理論」は学術論文として発表されたわけでもない、「免疫理論」は、存在すら学会では知られておらず、科学的な検証を受けることもない。元新潟大の研究医であった安保氏であるが、国立大学元教授の肩書きで、検証されていない個人見解を、一般大衆向けの「健康本」として出版するのはいかがなものか?特別規制はなく、新潟大も個人的見解と述べている。

米原はその後も、「温熱療法(ハイパーサーミア)」(千代田クリニック)、「刺絡療法(自律神経免疫療法)」(東京近郊のZクリニック)などの門戸を叩くが、Zクリニックは米原に、「いちいちこちらの治療にいちゃもんをつける患者は初めてだ。治療費全額返すから、もう来るな」と言われる。2006年2月、これまで頑なに拒否していた抗癌剤治療を開始する。

いずれの療法も、治療とはいい難く、成果もないままに万策尽きたのだろう。同年4月末から自宅療養をするも、1カ月後の5月25日、自宅にて死去。56歳であった。彼女はさまざまな選択をしたが、何が善く、何が善くなかったというのは分からない。米原と30年近い交流のあった岩手県立大教授の黒岩幸子は、著書『言葉を育てる 米原万里対談集』のなかでこう記している。

「(死後に出版された)読書日記を読みながら何度も私は、『米原万里よ、もういい加減にしないか、つまらぬ療法に関わらずに、思い切ってメスで切ってしまえ』と叫びたくなった。特に医師たちとの軋轢があったことを思わせる箇所では、声を上げて泣かずにはいられなかった」。人の選択が他人から見て愚かであろうと、自身を動かすのは、責任において自身である。

読書というのは、他人の頭で物を考える一面がある。それも必要な部分ではあるが、読書家といわれる人と話してつまらないのはなぜだろう。そこには経験を土台にした独創的な知恵や知性と出会うことが少ないからだ。耳年増を超えた、観念の塊りという人物もいる。他者の内在的論理を正確にとらえる公正な精神というのは、実は簡単ではないが、これも大事なことかと。


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