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犬が嘘をつくという話

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人は誰でも嘘をつくが、嘘をつくときは真実よりも嘘に価値を置いているからで、そのとき嘘は自分に利益があるからだ。いかなる動物にあって、人間だけが嘘をつくが、「嘘も方便」として許容される嘘もあるといい、果たしてそれは都合のいい解釈であって、「嘘も方便」とさえいえば、いくらでも嘘をつける、正当化もできよう。20代のころ、こういう論争をしたことがある。

人間だけが嘘をつくのは言葉があるからで、動物は絶対に嘘などつかない」というと、同僚が、「なことないだろ?ここ掘れワンワンのポチは、正直爺さんには本当をいい、欲張り爺さんには嘘をついたじゃないか」と絡んできた。「あれはお伽話じゃないか」などというのは、気の利かない人間であり、話の腰を折ったところでつまらない。論理で向かって行けばいい。

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彼は続けてこうもいった。「ポチって犬は嘘もつけるが、人を見る目もある賢い犬だと思うな。正直爺さんには宝の入ったつづらの在り処を教え、欲張り爺さんには、ガラクタのつづらを教えた。犬にしてはすごい才能だと思わないか?」面白い突っ込みだが、こんな論理は穴だらけで承服できない。犬は人間よりも何倍も純粋で嘘などつくハズがない。自分はこう返した。

「バカいっちゃいかんよ。純粋で心のきれいな犬が、嘘なんかつくわけもなく、正直爺と欲張り爺を見極めたなど勝手な解釈だ。ポチは嘘はついてないし、正直爺と欲張り爺を見極めたのでもない。ポチはただ鼻が利くので、土中に埋まっているつづらの在り処を二人の爺さんに知らせたに過ぎず、人間を見極めたわけでも、中身を知っていたわけでもないよ。

結果的に正直爺には宝の山、欲張り爺にはクズやガラクタとなったのは、日ごろの品行に対する天の定めであって、ポチのせいではない」。「なるほど…」と、彼は納得したのに面食らった。「鼻が利くなら、宝とガラクタくらい嗅ぎ分けるんじゃないんか?ポチは中身は宝と知り、ガラクタと知って『ここ掘れワンワン』したと思うけど、まあ、ポチに聞かねば分からない」

くらいはいうかと思っていたが、彼はどこまでもこじつけて押し通すタイプではなく、自分にない斬新な論理に触れると素直にきびすを返す奴である。自分もそうだが、論理を愉しむというのはこういうことだが、言い出したら引っ込みがつかない人間もいるから人間は面白い。ただただ人の揚げ足をとりたいのか、論理より感情むき出しで挑んでいるから言葉に中身はない。


負けず嫌い性向なのはわかるが、女はこうした不毛の言い合いをする。テレビ討論になぜ田島陽子みたいなヒステリーを出すのかといえば、彼女がバカを晒すのが制作側の狙いであろう。「田島ってホントにバカだわ」と思わせる狙いである。最近売り出し中の女性論客三浦瑠麗も、橋下などに論駁されると、本人は隠しているつもりでも、情緒の変動は顔にあらわれる。

上から目線でこれみよがしに正論をたたみかける三浦も、新進気鋭の学者として正面から一歩も引くことなく渡り合うが、三浦が橋下に、「それは男目縁」と禁句をだしたことで、ここぞとばかり橋下の餌食となる。ある問題に真摯な議論をする場合、「君は若い」と老が若に、「子どもは黙ってろ」と大人が小人に、教師が生徒に、親が子に、こういう物言いは禁句である。

「それは男の考え」、「女の考え」も同様、こうした排除の論理は卑怯な手法で、言った時点で卑怯者となる。三浦と橋下が慰安婦問題で議論した際、三浦は橋下に対し、「内向きの男性目線」と指弾、さらには大阪維新の会について以下の発言で橋下を追い込む。「中途半端に提起して、意図的に切り取られたことによって女性票を相当失い、国際的な期待がしぼんだ」。

「今に至るまで女性からの維新評価は相対的に低く、それは政党のポテンシャルとして大きな損失だった」。こんなことは、慰安婦問題についての真摯な議論というより、感情的な橋下への個人攻撃であって、まったく口にする必要のないこと。これに対して橋下は、「学者は世間知らずの無知」という持論を、さすがにお若い女性には向けなかったが以下反論する。


「有権者の顔色ばかり伺うなら僕が政治家になる意味なんてない。慰安婦問題の国際社会での論点は、国内で議論されるような慰安婦の強制連行があったか否かではなく、問題は、「残虐性のレベルの話」と指摘、「学者や自称インテリが完全に勉強不足」と批判し、「国際社会から特別な非難を受けるような残虐性の高い人道に対する罪は和解条約では解決しない」とした。

橋下は、「戦場における他国が行った性の同類事例と比べてどうなのか」という問題提起を常時掲げており、「世界諸国による戦場の性の問題と比べて、日本の慰安婦問題が特別残虐性でも特異性だったわけではない》と持論を展開する。番組内で三浦が、「政治学者が避けて通る論点に全速力で、深い知識とかがなく突っ込んでいった」という言葉にはこう切り返す。

「政治学者や自称インテリの、めんどくさいモノには触らないという無責任さへの一石」とし、それでもしつこくたたみかける三浦に対し、「あの問題提起を『内向きの男性目線』と評価するようでは、貴女もそこらへんの学者とかわりませんよ」と、これは彼の持論である、「学者は無知で世間知らず」を、回りくどくいったのは、女性への配慮かもしれない。

それにしても、『花咲か爺さん』の話はよくできている。殺されたポチを燃やした灰が枯れ木に花を咲かせるというアイデアは、素朴ではあるが発想が素晴らしい。同じ灰を今度は欲張り爺さんが枯れ木に登って撒いたら、灰が殿様の頭にバッサリとかかり、怒った殿様に牢屋に入れられた。というのも、子ども騙しとしてなんという卒のないストーリーであろう。

さすがに、「日本五大童話」の一つである。やさしくて誠実な人は幸運を手にするが、欲深い怠け者は人を羨み、マネはするが失敗するという、「物うらやみ話」である。人の心の中にある妬み心を浮き出させているが、妬み嫉みの人は必ずいる。影響されず、見下さず、うまく付き合って行くしかない。そのためには、「なったものは仕方ない」と思うことだ。

心理学で、「妬む」と、「嫉妬」は近い概念ながらも意味を分ける。大きい違いは感情の強さであり、「妬み」より、「嫉み」の方が激しい感情とされている。つまり、「嫉妬」はその激しさゆえに相手を攻撃することもある。この感情は日常生活の上でごく普通に起こるもので、例えば、①好きな人が他の異性と楽しそうにしてる姿を見た時に起こりがちな感情。

さらには、②会社の同期が自分より出世した時、③友達が自分より充実した生活を送っていると思った時など、ありふれたものである。つまり、妬みや嫉みとはどんな人でも感じてしまう心理で、そのため、多少の妬みや嫉みは仕方のないことと思う方が自身に無理をしないで済むが、妬みや嫉みがあまりにも強すぎると様々な悪影響が出てしまうので、抑え方を身につけるべし。

抑え方はさまざまあろうが、それよりも資質的な問題を自問し、根本解決に努力をするのがいい。妬みやすくなる性質とは、①自分に自信がない、②他人と比較してしまう、③感情に流されやすいなどが挙げられる。これらをすぐに矯正はできないが、自分に自信を持ち、他人と比較をせず、感情に左右されないというのは、思い起こせば自分が目指した事でもある。

妬む性格だから矯正したわけではないが、「自信を持つ」に関しては父がよく言っていた。「自信と自慢は違うぞ、自慢はダメだが自信は大事だ」。「自慢は人のためにするが、自信は自分のためのもの」と細かく補足をつけてくれたり…。何かと卑屈な人間は、「自信家だね~」などというが、自信のに必要なのは、それを裏付ける学習や原体験の量であった。

ようするに、根拠のない自信ではなく、「どこからでもかかって来い!」というような、装備とでもいうのだろうか。それが知識であったり、話術であったり、洞察力であったり、行動力であったり、とかく自信がある人間は逃げ隠れを好まない。好まぬというより、逃げる・隠れるの必要がない。だから、どっしり構えていられる。そのためには己の弱点、不足を補うことが大事であろう。

自分が思う自分の最大の短所は、情緒的なところだった。要するに、涙もろく、感情的になり、すぐに相手に同情したり、心を預ける。感受性の高い人間の性質だから仕方がない。しかし、そこに果敢に挑んだのは、人に冷たいといわれるくらいで丁度いいという判断があった。普段なら手を差し伸べる相手だが、心を鬼にし、情緒に先走らないようにした。

物を貰う部下と貰わない部下、自分に寄り添ってくる部下と自分を嫌っている部下、そうした情緒に惑わされないようにするのは大変だったが、そういう役職を与えられたことで挑戦することができた。自分では気づかずとも、周囲の他人から見れば贔屓の引き倒しは誰の眼にも明らかだし、接し方や口の利き方の違いさえも、他人の眼は目ざといもの。

管理職で大事なのは、自分の情緒を戒め、公平に人を見る目、接する態度を養うことであろう。それが出来なければ、公正中立な管理職ではなく、部下からも情緒的と批判され、反感を抱かれるかねない。分かりやすくいえば、自分が好まぬ相手、反りの合わぬ相手と、そうでない相手と同様に対処できるかであり、これは生身の人間としてとても難しい事だった。

自分に利する相手をいい人、そうでない相手を悪い人と見定め、公言し、対処していた母に強い反感を持った。巨視的な視野で物を見ない母であっても、せめて子どもに対する慈愛があれば、男の子は父と母を別の視点でとらえるが、それがない母には批判の言葉しかなく、視野も広く、逞しい父の背中を追っていた。ゆえにか世代対比で若者を見下げることはない。

「今の若いもんはダメだ、なっていない」と、子ども時代に大人たちから言われたものだが、いずれも矮小な大人たちであった。大人になった自分が同じようなことをいうなら、自分も矮小な大人ということになる。年をとると、異世代に理解しずらさはあっても、「若いもんがダメ」というより、現代的視点でみれば、「クソ爺いはダメだ、なっていない」のかも知れない。


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