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とある一人の女性を偲ぶ日 ②

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「また朝がやってきた。19日以来の、このどうしようもない感情、憂さ晴らしに酔うだけ酔って、すべてを嘔吐し忘れた方が良かったのかもしれない。(中略)あなたと二日の休日を過ごしたい」。長い長い記述の最後に、旅に出よう…の詩で最後の日記が閉じられている。19日のことで神経を揺さぶられている彼女だが、何があったのか、日記の冒頭には以下の詩がある。

  一切の人間はもういらない
  人間関係はいらない
  この言葉は私のものだ
  すべてのやつを忘却せよ
  どんな人間にも 私の深部に立ち入らせてはならない
  うすく表面だけの 付き合いをせよ
  一本の煙草と このコーヒーの熱い湯気だけが
  今の唯一の私の友
  人間を信じてはならぬ
  己れ自身を唯一の信じるものとせよ
  人間に対しては 沈黙あるのみ

中ごろには、「みごとに失恋――?」とある。よく読むと片思いであったようだ。彼女は片思いを、「恋」と認めてはいないようである。「君。失恋とは恋を失うと書くのだぜ。失うべき恋を君は、そのなんとかという奴との間にもっていたとでもいうのか。共有するものがないのに恋だって?全くこっけいさ…」と、自らを、「君」という受け手の二人称で書かれている。

この詩から感じるのは、己の片思いを恋に見立てないことで、失恋の痛手をかばっているのだろう。片思いを恋に昇華させられないもどかしさもあるのだろうか。うまくいかぬものも恋だが、彼女にとっては失恋の感傷は自らを傷つけるものだから、傷つかぬ防御を張るのだろう。素直に失恋を認めて感傷に浸る女性もいるが、それが出来ない、強がったところが見受けられる。

「君にいま残っているものは憎しみさ。アッハッハッハッ。こっけいだねぇ。君という人間は全く楽しい人物だ。そんなことを書いて、ひそかに喜びさえ感じているんだから」。行間を読むに、自分に真正面から向き合えず、素直になれない倒錯的な心情が、彼女をひどく混乱させている。是は是、非は非、喜は喜、悲は悲と、自らを偽ることをせず正直に生きるなら解決できるものを。

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簡単なことを複雑にするから、解決が遠のく。にっちもさっちもいかなくなって、思考のない世界に逃避を求めるのだろう。難しいことは難しくてしかりだが、簡単なことを難しくしてしまうと、人間は生きてはいけなくなる。失恋なら失恋でいい。涙に暮れながら、嘆きの思いを書き綴ればいい。それが出来ないというなら、それなら彼女に何ができるのか?

彼女はいつも行き詰まってばかりに思える。女の涙は、事に素直に向き合って解決するために流すものである。弱い人間がこんなに強がっていたら、自己矛盾に耐えかね、崩壊するだろう。弱い人間は強がるものだが、人は欺けても自分を欺くことはできない。他人に嘘の自分を隠し、本質が露呈するのではないかとビクビクして生きれば、人間嫌いにもなるだろう。

「他人に弱さなんて見せちゃったら、ろくなことにならねーぜ!ちっきしょー!」と、これが高野悦子の性向である。弱く、もろく、傷つきやすい少女が傷つきたくないと誤魔化して強く見せるが、強く生きようとするのと、強く見せるは違う。人に強がると人に頼れなくなる。我が身を人に預けることもできなくなる。それで苦労したり、強く孤独感に苛まれたり…

少しづつでもいい、時間をかけて自分を取り戻すことはできたはずだ。自己変革に払う代償は大きい。それでも嫌な自分を変えたくて頑張った自分にすれば、現状のままが楽という人間もいよう。高野はそれすら選択できない生真面目さが災いし、自らの鬩ぎに耐えきれなくなった。近年の心理学は、「無理に自分を変えることはしない方がいい」とされている。

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自己否定より、自己肯定が良いとされている。昔は違った。自己否定が自分を作るといわれていたが、現代人は自己否定に耐えられないほどに脆弱なのだろう。生活環境や多くの事が楽になったことも、現代人の弱さを加速させている。耐え忍ぶということもほとんどなくなったし、親の子どもの育て方にも厳しさがない。これでは弱くて当たり前である。

逞しい精神、強い精神力とはどのあたりをいうのか分からぬが、誰も自分が精神的に強いなどと思わないだろう。自分も決して強いとは思ってはいないし、頑張ろう、頑張っているに過ぎない。ただし、「頑張ろう」がそれほど無理難題でないということに過ぎない。今の時代に比し、昔は耐えることが多かったが、そうした負荷が、耐性に寄与したのかも知れない。

石川達三の中編小説『青春の蹉跌』は、1968年4月から9月まで「毎日新聞」に連載され、1968年に新潮社から単行本化されてベストセラーとなった。高野悦子が鉄道自殺したのが、1969年6月24日だから、新聞連載は知らずとも、単行本は知っていると思われるが、日記にないからして彼女は読んでいない。「蹉跌」とは挫折である。読めば何かが変わったろうか?

タラは北海道ゆえにそれは分からない。結果論でいえば、高野は20歳の短い命と引き換えに日記を残した。死を選ばず生きていれば、どこかで68歳の普通のおばちゃんをやっていよう。日記が公開されることもなく、おそらく嫁ぐ前に焼却したのではないか。つまり、彼女が生きていれば、彼女の青春期の愛と性、恋と日常は、彼女しか知り得ぬままに葬られた。

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どちらが良かったとは言い切れないが、結果がすべて、彼女の、「生」は、結果で判断するしかない。死んで有名になる事の是非は分からないが、結果的に彼女は日本でもっとも有名な女子大生となった。「立つ鳥は後を濁さず」という言葉がある。彼女の下宿先には処分されないままの大学ノート10数冊に及ぶ日記が残されていた。それを見た父親は涙にくれたという。

母親は書籍にすることを猛反対したというが、決断にいたった父の想いは何であったかを察するに、公益性と判断した。一人の少女が、青春のただ中にあって、孤独に苦しみながら、自らに生きる意味を問い続けた魂の叫びを、棺に入れて葬っていいものか?死して体面を尊重する母親に比し、少女の生きざまの資料として我が娘の日記を公にするのは、ただならぬこと。

死ねば彼岸、生きてこそ此岸とする母の愛、死してなお此岸に存在する娘に寄せる父の愛、違ってしかりである。『アンネの日記』は、多くの人に読み継がれた少女の日記である。が、これとて刊行当初は父によって性にまつわる部分がカットされた。今では原文ままに読めるが、悦子の日記においても、父親にとって娘の直視したくない部分は多だあったと思われる。

それを人目にさらすことには躊躇もあったろうが、綺麗なものだけを飾り立てたい母親にとって、娘のプライベートな日記を公開するなど許し難いことである。しかし、編集もなきままに刊行されたのは、真摯な父親の理性と愛情と見る。娘の生身の存在をあるがままに受け入れたのは、父の心の大きさである。巷、レイプ事件報道で少女・幼女が匿名にされる。

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マスコミは申し合わせたように配慮をするが、「氏名を公表して欲しい。娘は何も悪いことをしていない。何の罪も犯していない」などと、訴えるのは決まって父親である。男にとっては、この世は清と濁で成り立っていると考える。何事も美しい物だけにまみれてはなく、事物をあるがままに直視すべきであるという、それが、「清濁併せ呑む」ということだろう。

高野は真面目な性向であったが、「生真面目」さを徹底できるほどの、「強さ」が彼女にはなかった。思春期に異性を強く求めるところもあるにはあったが、と同時に性欲への自己嫌悪も見える。これは純粋少女の誰もが抱く性への葛藤である。彼女はそれらを誤魔化すこともせず、曖昧にせず、自身を直視しようとするが、人間を汚くとらえる感性は少女に希薄である。

自己否定が強いと自己愛とのバランスが崩れて鬱になりやすい。鬱病や神経症などの心の病は昔からあったが、2000年辺りから患者数が激増したが、理由はいたってシンプルで、精神科や心療内科を受診する人が増えたともいわれる。精神疾患に病んだ人は元々一定数存在していたが、精神科の激増とともに、患者数も増えたというのは卵かニワトリかの論理であろう。

高野悦子もうつ状態と考えられ、受診をしていたなら、「社会不安障害」、「パニック障害」、「ストレス性適応障害」など、いずれかの診断名はついたと思われる。彼女が青春期であった1960年代、精神病院をきちがい病院と呼んだのは、精神病患者をきちがいといったからだ。言葉は適切でないと葬られたが、言葉が変わっただけで中身が変わったわけではない。

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うつが薬で治らないとしながらも、抗うつ剤という名の薬もある。抗うつ剤とはうつを抑えるもので治すものではないということ。向精神薬とておそらく同じことだろう。「誰も治すとはいってない」し、「どこにも治るとは書いていない」。殺菌という言葉はあるが、殺鬱はない。消鬱も滅鬱もない。「抗うつ薬」は、単に臭いものに蓋をしているだけというのが現状だ。

精神安定剤は精神の安定に寄与するが、人生を安定させない。自殺者の多くはうつ病もしくは、うつ状態であるといい、生きたくて死ぬ者と、死にたくて死ぬ者がいるのは遺書などで分かる。生きたいならなぜ死ぬ?と思うが、ずいぶん前、自殺願望の女性は、「どうせ死ぬのになぜ生きるのですか?」といい、自分は、「どうせ死ぬなら、死ぬまで生きよう」と返す。

「死ぬまで生きよう」とは、自然死の、「死ぬ」である。自殺は自らを殺す人為である。「死にたいなら死ねばいいのでは?いけない理由がわからない」というのをしばしば耳にする。これについては同意する。楽をしたい人間に無理強いしてもダメ。自分は「楽」より、「苦」に生き甲斐を見る。楽は超えるものがなくてつまらない。「簡単」より「難解」を、「単調」より「面倒」を好む。

高野の日記にはベートーベンのソナタ『悲愴』がでてくる。6月22日にもあった。ピアノが弾ける彼女は、おそらく『悲愴』を奏でたであろう。3月16日に日記に、「『悲愴』をウィルヘルム・ケムプで聞きたい」とある。1969年の明日、彼女は死んだ。彼女の死が悲しく傷ましいことなのか、自分にはわからないが、彼女の聞きたかったケンプの『悲愴』を贈りたい。


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