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Channel: 死ぬまで生きよう!
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ある一人の女性を偲ぶ日 ①

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子どもの頃、幽霊を信じていた理由は、子どもだからである。幽霊がいるから幽霊の映画や怪談噺があるのだろうと子ども心に信じていた。疑う根拠も知恵も知識もなかったがあるとき、「幽霊の正体見たり枯れすすき」という句を知った。なるほど、これが大人のいう幽霊の正体だったのかと思った。子どもの自分には幽霊だが、大人にとっては枯れすすきなのだと。

幽霊の映画で怖かったのは、『四谷怪談』であった。主人公はお岩の亡霊である。なぜかお岩の幽霊とは言わないが、子どもにとってお岩は幽霊だった。幽霊はまたお化けと言った。亡霊と幽霊について確たる違いはあるのだろうか?違いは、幽霊というのは幽かな霊。亡霊というのは亡き人の霊。など言葉から想起できるが、意味の違いの有無を改めて調べてみた。

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幽とは、「幽(かすか)な、はっきりしない、弱々しい」という意味で、したがって幽霊は見えるか見えないか、朧げな存在という意味。「幽霊とは死者の霊が、生前の姿をして現れるといわれる現象」という説明もある。「実体は無いのにあるように見せかけるもの」と踏み込んだ説明もあるが、この説明は主観的なものか、客観的なものか、自分は後者と考える。

亡霊とは、「死者の魂、亡魂となり、つまり亡き人の霊というのは、化け出てはこない亡くなった者のことも含む」とあるが、この言い方なら、化けてでるお岩は亡霊でないことになる。要するに、幽霊、亡霊を定義するとオカシナことになるの。定義に無理があるということだ。お岩は幽霊であり、亡霊であり、お化けであって、本人に聞かずとも何の問題もなかろう。

幽霊の決まりセリフは、「うらめしや~」である。「うらめしや~」とは、「うらめしい」という形容詞に助詞の、「や」を付けたもので、生前に自分に対する相手の行いを恨む気持ちが込められている。当然ながら民谷伊右衛門に対し、筆舌に尽くし難い恨みを持っており、復讐の意をこめてそのようにいうし、「伊右衛門どの~」と、名指しで言ったりもする。

この世に未練があり、あの世に行きことができない、つまり成仏できない霊を幽霊という。単に人を驚かせるための幽霊ではなく、彼(彼女)らにはさまよう悲哀がある。幽霊には女性が多いのは、男よりも執着心が強い、別の言葉でいうなら、「しつこく、執念深い」性向であろう。「怒りゃすねるし、叩けば泣くし、殺してしまえば化けて出る」は、女をあらわす川柳である。

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ま、何にしても男の幽霊は様にならん、みっともない、男らしくない。何をされたにしろ、謀略にかけられたにしろ、食うか食われるかの弱肉強食の男世界にあっては、止むを得なきことだから、いちいち化けて出るなといいたい。潔く、キッチリと往生すべきものだから、「往生際の悪い男だ!」という言葉も生まれた。この言葉は男向けで、女には言わないようだ。

つまり、女は往生際が悪くて当たり前ということだ。ジェーン・S・ヒッチコックに、『魔女の鉄槌』という著書がある。神秘的でオカルトチックで宗教的で、途中で読むのをやめたが、中世キリスト教における宗教裁判で魔女にされ、火あぶりにされた多くの女性など、キリスト教史の暗黒面などがパーツとなっている。そういえばかのジャンヌ・ダルクもそうであった。

魔女とはアニメの主人公キキとは違い、簡単に言うなら性欲を露わにする女性のことである。なぜ、女性が性欲を露わにするのを中世キリスト教社会が嫌悪し禁じたのか?男から、「求められ、所有され、支配される」存在としての女、という捉え方はどこの国とて同じこと、同著は、『魔女の鉄槌』と呼ばれた中世の宗教裁判で使用された法律について書かれている。

霊魂や運命や前世などは、有るのか無いのかよりも、信じる、信じないの世界である。信じない人間にとっては、神様なんて居ない。天使も悪魔も居ないし、天界も魔界も天国も地獄もない。神様なんて居ない。天使も悪魔も居ないし、天界も魔界もあの世も地獄も何もない。全てが人間の妄想の産物であり、我々に与えられているのは現世だけで死んだらそれまで…。

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前世も来世もないと考える。時たま、前世の記憶を持つ人が出たりするが、彼らの説明にはいろいろと足りないものがある。抽象的で単発的で理路整然としていず、しかも独善的である。独創的と言った方がまだマシである。美輪明宏が、「自分の前世は天草四郎」と言った時に、1630年代に死した彼が、誰にも生まれ変わらず400年近くどこかに浮遊していたのか?

それとも魂Bankのようなところに、一時預けになっていたのか?そうして、美輪明宏という相応しい人物に定めて、霊が乗り移ったとでもいうのか?などの疑問が、腹が立つほど湧いて来た。そもそも前世が誰かに宿るを信じる人間にとって、魂がいつ宿るかはバラバラだ。ある人は、「受精した瞬間」といい、受精卵と胎児の霊魂は「銀の糸」でつながっているという。

「胎内で成長する過程」だという人は、これまで胎芽と呼ばれていた8週目から11週目が、胎児と呼ばれるようになり、ようやく人間の形となるわけで、このときに、魂が宿るという。別のある人は、「自我をもった瞬間から…」という。生まれる瞬間という人もいる。これら、統一見解もないままに、好き放題をいうオカルトや超常現象、スピリチュアルなことは矛盾だらけ。

魂がいつ宿るかを明晰に、理路整然と真実を語れる人などいるハズもなし。したがって、このような曖昧で矛盾に満ちたものを信じるよりも、そんなものはないとのスタンスはいかなる矛盾に晒されることもない。自分は知らずにいたが美輪明宏が、前世は天草四郎は嘘だったと訂正したという。信じてない自分はいいが、一介の芸能人の発言を信じたものもいる。

イメージ 4美輪は、「自分の前世に天草四郎はありません。丸山明宏の名で売れなくなっていたので、自分の前世は天草四郎だと称することで自分の名を世間に売ったのです」。ま、「あの時はああ言うしかなかった」、「言わざるを得なかった」を戒め、禁句としている自分は、都合主義の言い方を嫌悪する。
そもそも、「あの時はああいわざるを得なかった」という虚言は、言い逃れ、言い訳など、バカげた生き方と思うから自分はしないが、人がいうのは、「勝手に言ってろ!」で済ませる。

他人の事情、他人の都合は自分に関係のないが、付き合う相手として気をつける。「他人の都合は自分に関係ない」と思えるようになると、人を責めることがなくなる。人は誰も嘘をつき、自分の利害を基準に物事を考える。それでいいとするしかない。自分とて、したくないことはしないと自分の利益で生きているのであって、自分の利益とは自身が目指すもので、これまた他人には関係ない。人間がいろいろなのは、そういうことだと思っている。

だから、これが正しい生き方はないと思っている。人にとって「正しい」がある以上、自分の正しさを押し付けることもない。正義の代弁者を気取るつもりもない。自分にとって大事なのは、自分が変わろうとするその一瞬、一瞬である。近年の合理主義が設定した人間像は、幸福になりさえすれば救われるという、どこか固定された、動的なものではなくなっている。

幸福を欣求する人間の、明らかなる固定的で、静的な人間像から受ける印象は、人間は果たしてそうした画一的なものではあり得ないという反発である。幸福による自己救済への反逆は以前から自分にあった。それを自問するとき、すべてのものが「操作されるもの」の立場に追いやられていることへの反乱である。決まったもの、決まった価値観、決まった幸福…

それら一切の多数派思考の付和雷同性であろう。物心ついたときから少数派を自認する生き方に真性なものを見つけようとした自分が、安易な多数派に与しないのは当然である。心を打った言葉やセンテンスは沢山あるが、『二十歳の原点』の高野悦子の深層には共感が多かった。彼女は一人であること、未熟であることを二十歳の原点として戦い、傷つき、死んでいく手記である。

「私は見知らぬ世界、人間に対して恐れをもち、人一倍臆病であったので、私に期待される『成績のよい可愛い子ちゃん』の役割を演じ続けてきた。集団から要請されたその役割を演じることによってのみ私は存在していた。その役割を拒否するだけの『私』は存在しなかった。その集団からの要請(期待)を絶対的なものとして、問題の解決をすべて演技者のやり方のまずさに起因するものとし、演技者である自分自身を変化させて順応してきた。」

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仮に彼女のこうした生き方で幸福を手に入れたとしても、人間が真に自らに求める、「生の実在感」を手に入れられない、そのことに彼女は気づくのだった。その生き方を改めることには程遠い道のりと、新たな苦悩が要求されることに耐えられなかった。そして彼女は、「旅に出よう」の辞世を詩を最後に、自身のつたない生き方にケジメをつけたのである。

彼女の求めたものは、小市民的な幸福ではなく、人が生きているを実感する「生の実在感」であったが、それが自分にとって果たし得ない遠き道のりであったことへの挫折であった。高野悦子の日記の最後、「旅に出よう」は6月22日に書かれたもので、彼女が鉄道自殺を遂げる2日前、48年前の1969年の今日であった。書き出しは「また朝がやってきた。」で始まっている。


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