神や霊魂や前世・来世、あるいは運命の糸などといった、現在の科学で証明できないことはあるのかも知れない。例えば神の存在については多くの哲学者が論理的な証明を試みたが、理論物理学が理論的な模型や理論的仮定を基に理論を構築し、既知の実験事実(観測や観察の結果)や、自然現象などを説明する学問同様、神や宗教概念についての理論的考察を行う学問もある。
それらを「神学」といい、主にキリスト教を指すのが一般的だが、これは他宗教における神学を否定するものではない。他宗教における神学は、「イスラム教神学」などと宗教名つけて呼ぶ。神道や仏教では「宗学」、「教学」が用いられる。日本のミッション系大学などでは「教育」と、「学問」を合わせた、「教学」とし、欧米のキリスト教神学とは別のものである。
神学とは何?神学と定義するものは何?ややこしいもののように思うが、何のことはないキリスト教の神学とは、単に、聖書に啓示された神の言葉を深く掘り下げ、理解しようとする学問ということになるが、キリスト教にとって聖書とは唯一無二の聖典だが、実はキリスト教のみの聖典ではない。『旧約聖書』は、ユダヤ教、イスラム教の聖典でもある。
これが無神論者にとっては、ありもしないことをひたすら時間と労力をかけて学んでいるとしか思えないのだが、信仰者と無神論しゃというのは両極である。したがって、神学とは信仰を前提にするものだが、日本のキリスト教系ミッションスクールは、信仰者である必要はなく、先祖代々仏教徒であっても、カトリック系、プロテスタント系の学校に行く子は多い。
日本のカトリック学校は、信者を増やす目的ではなく、カトリックとはこんなものですよ、と紹介するために作られている。プロテスタント学校は様々のようだが、仮に信者を増やす目的で作られていたとしても、信仰を強制することはできない。一見して矛盾のようだが、日本のキリスト教信仰者は1%程度であり、信者だけではなりたたない、運営がやっていけないということ。
仏教徒が青学や上智や立教に行こうとも、聖書の授業はあったとしても信仰を前提に行くわけではないなら、何の矛盾もない。信仰があろうがなかろうが、学校は勉学をしに行くところだ。純粋な信者もいるが、宗教で問題になるのは、前世や因果、因縁話を吹き込んで恐怖や罪の意識を煽り立て、印鑑や数珠や念珠、壺や多宝塔、仏像を高額で売りつける宗教である。
これを霊感商法といい、特に統一教会による霊感商法は徐々に社会問題化していく。有名芸能人を広告塔に、アンケートや手相鑑定を装うなどして、街頭で手当たり次第に声をかける。物品販売が社会問題化すると、今度は手を変え、献金と称して現金を支払わせるなどに移行した。信者もしくは信者になり立ての人に預金や保険を解約させるなどさせて献金させる。
「広く浅く」という以前の手口に比べ、「狭く深く」へと移行したことで、一件当たりの被害が高額になり始めた。統一教会のこうしたやり方は警察の摘発を受けることとなり、民事事件から刑事事件化され、各地の教会に家宅捜査が入り、逮捕者も多数でたことで霊感商法は影を潜めて行く。摘発されたマニュアルには、「印鑑を売るな開運ろいう幸福を売れ!」とある。
福岡高裁の、「霊感商法事件」では、ある被害者が先祖の因縁話を信じ込まされたあげく、一冊3千万円もする、「聖本」という文鮮明教祖の説教集を十冊も売りつけられる悪質極まりない事件だった。3千円ならともかく、本一冊3千万というから恐れ入る。被害者は、信者になってわずか五年間に4億3千万を超えたという。判決は教会側に4億円の弁済で結審した。
「殊更に不安や恐怖心の発生を企図し、あるいは、不安や恐怖心を助長して、相手方の自由な意思決定を不当に阻害することによって過大な支払いをさせるのは違法」と、従来にました踏み込んだ判断は、協会側が上告をしなかったことで本判決は判例として確立する。信仰の深さは自分がもっとも大事にする金銭を吐き出すことで決まるというのが、「金持って来い宗教」の台本である。
こうした宗教の、宗教的実践とは勧誘の信者側にも当てはまる。つまり、多額の集金が信仰の証しであるとされ、信者自らも経済的収奪を受ける組織体系に組み込まれていくのだが、信者たちは誰もこういった組織体系に組み入れられることを知らされないし、知らぬままに信仰を植えつけられ、あげくは組織から離脱できなくなるという怖さである。ヤクザと宗教は似て非也。
以前、「エホバの証人」信者を離脱させるために頑張ったが、証人たちは伝道に費やした時間、信者獲得の数こそが信仰の証しと洗脳させられていた。率先しての伝道ではなく、玄関払いの恐怖に満ちていた。それに対する作り笑顔を強制され、嫌々ながらも自信のステータスを上げるためとの、涙ぐましい現実を知り、何という憐れな子羊たちとの思いに至る。
大学受験に失敗し、貧しい家庭ながらもアルバイトをしながら、予備校に通う彼女の自責の念はいかばかりか。そんなとき、ふと訪れたエホバの証人伝道者を室内に招きいれたことで一変する。挫折感と失望感の交差する日常のあって、初めて人から愛の言葉を聞き、そのことで今の自分の虚しさを悟ったという。彼女の悟りは彼女のものだが、看過できない自分だった。
会衆所というところで、同じ目的を持った信者たちが聖書の勉強に励む、そんな日々は予備校の勉学の先行きの見通しが立たない不安に比べ、幸せを予感するものであったろう。彼女は大学受験の失敗を自身の至らなさと決めつけた。大学に受かった友人たちと自分の存在の違いが自分を苦しめた。反省すればするほど、その苦しみは強く重くのしかかっていた。
すべてを払って新たな挑戦をすればよいのだが、自責の念の強い人間は、自分を周囲に対する加害者とみなし、それがさらに自分を苦しめる。受験の失敗は被害者なのか加害者なのかという問題提起を持っていた。貧困が彼女を親に負担をかける被害者に仕向けたようだった。他人に比べて自分の存在の特殊性に悲嘆し、涙する彼女を救ったのが宗教である。
彼女が自己の存在の特殊性に涙するのは、彼女の父親の言葉でもあった。「お前はどんだけ迷惑をかけるんだ?」の言葉の裏には出来のいい姉の存在もあった。浪人すると親に告げたのは勇気のいることだったが、受験に失敗して働く勇気がなかったというが、「来年頑張ればいいよ」という親を持たなかったことも不幸である。誰も彼女の慟哭を理解しなかった。
予備校を辞め、荷物一つで家を出て信者宅で同居を始めたのは、余程の感化であったようだが、彼女の宗教者としての新たな一日が始まった。家庭にも親にも愛がなかったことが、何よりも彼女の背中を押したという。彼女の目指すものは安っぽい幸福ではなく、高貴なものであったという。彼女の心の苦しみと世俗の価値観との戦いが、彼女を美しいものにした。
「会衆の長老にあなたのことを話したら、悪魔とは手をきるようにといわれました。今後も私たちは、ものみの塔の上からエホバの神に監視されます。わたしはここで生きて行くことにしました」。これが彼女の用意した最後の言葉だった。改宗は徒労に終わったが、人は誰も自然の生き物としての要求を持っている。それを抑える人に比べれば、自然に発露できる人は幸福だ。
そのように考えると彼女を別の見方で眺められた。これまで彼女が親や学校や友人などの環境から得たもの、あるいはそういった過去に制約されて物事を考えていたことから、まったく異なる世界に向かうことにはなるが、彼女はそこに新たな生き場所を求めた。「失うものを失いたかった」というトルストイの言葉にあるように、「失うものを失えない」そんな人もいる。
「失うものを失うこと」によって、得たいものを得たというのは逆説的真理である。欲しくないものなど失いたくはない。人間は失いたいものをこそ望む。これが人間の矛盾であろう。自分もそれは母親という、「失うものを失いたかった」という経験で分かった。そもそも自由というのがそうした矛盾をはらんでいるものなら、矛盾もまた実用的といえなくもない。
彼女が親を捨てた時に、それはそれで勇気のいる、強い決心であったろう。人が人を捨てる時、完全にその捨てた人が自分にとって何でもなくなるまでには、多くの激痛を支払わねばならない。捨てたということが、何の良心の呵責を覚えなくなるまでに人は多くの戦いという体験をしなければならない。罪の意識に苦しんでいるうちは、まだ捨てきれていない証拠である。
自分に対する仕打ちと同時に、相手のどうしようもない醜さを露骨に見てしまったとき、人は人を捨てられる。子は親を捨てられる。捨てなければその呪いの中で自分は永久に不幸になるだろう。完全に捨てるということは、完全に相手の醜さが分かるということである。人に騙されているのに気づかない人がいる。「お前はそんなこともわからないのか?」といっても虚しい。
分からないから騙され続けるのだが、口を開けば天使や聖人のようなことをいい、物を書かせばキリストのような人間に人は騙される。人間は頭から人を疑うことがどうしても難しいのだろう。ことに、青春の一時期とはそうしたものである。宗教者や賢人・賢者と自称する人間は、神の生まれ変わりのようなことを言ったりするから、つい信用してしまう。
「40過ぎたら自分の顔に責任を持て!」いい言葉だ。どんなに辛い悪条件においても、自分を大切にし、自分を励まし、素直に、そして粘り強く生き抜くとき、それが目立たぬありきたりの人生であれ、結局は自分が築き上げたものだ。自分の人生において、自分が責任を取らないで誰がとる?そう考えることが、人間の成熟さを示すもの。それが人の顔だ。