「勝負ってのは、勝ったり負けたりするから『勝負』であって、負けない藤井聡太は勝負してると言わんのじゃないかね~」と、将棋仲間が言う。面白い事をいうなと思いながら、「そうかもしれないね~」と反論せず、とりあえず相槌を打っておいた。何を勘違いしてるんだか、「勝負」とは、勝者と敗者がいることをいい、たとえ勝率10割といっても眼前に敗者がいる。
若い時はともかくも、ひと年とったら人を見てむやみな反論はしない。広島の方言に、「やねこい」というのがある。キツイ、しんどい、苦しいの意味もあるが、難儀だ、面倒だ、むずかしい、という意味もあって、「やねこい人」は難儀な人、面倒な人のことをいう。上記のように言い返せば、「そっか、なるほど」といいそうな人、そうでない人は何となく分かるもの。
やねこい人には適当にあしらい、相槌を打っておくのがイイ。商売人が、面倒な顧客を上手くあしらうようにである。「あしらう」には主に二つの意味がある。①応対する、応答する。②相手を軽んじた(見くびって)応答をする。一般的には後者の意味合いで使うが、あしらってうるのを察知されないようにすれば悪いことではない。むしろこれは人間関係術といえる。
相手に分かるようにワザと、「あしらう」態度も見せるが、良くはないといっても、面倒な相手を遮断する人間関係術である。こちらの態度を明確に、あからさまに提示して相手に分からせるのも時に必要だ。相手がどう思おうと知ったことではない。しつこく、面倒で、付き合いたくない相手に対する露骨な態度は、「No!」をいうのと同じ拒否であろう。
これが出来ない人は、無理をするので神経症になりやすい人。自分も、この場で露骨にあしらった相手はいた。曖昧にするより、ハッキリ伝えてお引き取りを願うのは、何ら悪いことでもない。幼稚園の標語ではないし、「だれともなかよくしよう」などあり得ない。付き合う相手は選べばいいし、相手に選ばれることもある。相手に選ばれてないなと気づくことも大事。
人間の行動は、自らに殉じた行動もあれば、相手の気持ちを考えた行動もある。人間はいろいろである以上、相手を見極め、相手に即した応対が必要となる。相手に合わせるというのではなく、相手を理解したうえで適切な行動を心掛ける。逆に相手から捉えた自分をみるに、意思をハッキリ伝えるのは相手のためでもあり、相手に考えさせる意味で大事なことだ。
「No!」というのは、自分のためでもあるが、視点を変えれば相手のためでもある。こう考えると、「No!」が言えない人にも「No!」大切さを理解できるだろう。まずは理解し、そして行動だ。一人よがりでなく、明確な理解があれば行動は意味を持つ。人間がいろいろなのは、育てられ方という環境が大きい。過保護で甘やかされて育つと、自分のことしか考えない人間になる。
甘やかされて20歳以上まで育った人間に他人の気持ちを考えろなどと、毎日毎日100回、100年いいつづけたところで無理。斯くの人間は、口で言おうが、殴ろうが、蹴とばそうが、そんなことをいくらしてみたところで無駄。できるようになるには自ら気づき、自ら努力がいる。愛知県の美浜に、「戸塚ヨットスクール」というのがあった。今はどうか調べたら営業は続いている。
営業なのか、現存というのか、生徒がいるなら営業だろう。1976年、戸塚宏により、「オリンピックで通用するような一流のヨットマンを育てる」という理想の下で設立されたが、独自のスパルタ式指導により、不登校児や引きこもりや家庭内暴力などの数多くの非行少年を矯正させたという触れ込みで、戸塚ヨットスクールはマスメディアに登場し話題となった。
当時は校内暴力が社会問題化していたため、問題行動を繰り返す青少年の矯正を行えると自称した同スクールが注目されたが、訓練中に生徒が死亡したり行方不明になるなど、いわゆる、「戸塚ヨットスクール事件」が明るみに出たことで、1983年に傷害致死の疑いで強制捜査が行われ、校長の戸塚宏以下、関係者15名あまりが逮捕され、起訴されるに至った。
長年に及ぶ裁判の末、戸塚およびコーチらは有罪判決を受け、校長の戸塚は懲役6年の実刑で服役した後、2006年4月29日に静岡刑務所を出所し、スクールの現場に復帰した。その後も2006年、2009年には行方不明から死体で発見されるなどがあったあが、いずれも事故死・自殺とみなされた。2010年はスクール内の寮から転落し重傷を負う事件が発生したが、自殺未遂とされた。
2012年1月9日、スクール内の寮の前で頭から血を流して倒れている21歳の訓練生の男性が発見され、病院搬送後に死亡した。「ヨットスクールの生活がつらく、このまま生きていくのもつらい」と書かれたメモがあったことから、飛び降り自殺と考えられている。6年もの懲役刑を受けた戸塚であるが、釈放後も怯むことのない持論を展開し、行く先々で講演をした。
2014年11月28・29日に開催された、「第27回日本総合病院精神医学会総会」では『私の脳幹論』と題した講演で、子どもに与える恐怖の重要性を説き、「恐怖の使い方がその子の進歩になるか、落ちこぼれるかの境目」として、体罰によって訓練生へ恐怖を植え付ける正当性を主張した。こうした戸塚氏の主観論に対し、日本児童青年精神医学会は以下の声明を発表する。
◎戸塚氏が、戸塚ヨットスクール事件に至る理論的背景であった「脳幹論」を当時と変わらずに主張し、それがいまだに死傷者を出現させているにもかかわらず、恐怖を与えることの正当性を主張していることを、精神医学に携わる者は無批判のままに放置しておくべきではない。
◎「脳幹論」(「本能論」)自体が何ら医学的根拠を持つものではないにもかかわらず、医学雑誌である「精神医学」に無批判に「私の脳幹論」が掲載されたことは極めて問題である。
◎戸塚氏は医療を提供する立場ではないが、「脳幹論」(「本能論」)に示される戸塚氏の考え方が、朝田氏が期待するように、「これからの皆様の臨床の中で活かされることがあれば」それは私たち精神医学の臨床現場への重大な破壊行為である。
◎戸塚宏氏は、「脳幹論」を掲げ続け、以前の戸塚ヨットスクール事件と同様の「トレーニング」を繰り返し、死傷者を出現させている。戸塚氏の講演録を無批判のまま医学雑誌に掲載することは、子どもの最大の利益に反するものであり、精神医療に携わる者にとって許されるものではない。
戸塚氏の思想には、「儒学」が反映しており、さらには嫌韓(韓国や朝鮮民族を対象とした嫌悪感情)を主張している。彼は、「体罰は教育である」と公言して憚らない稀有なスパルタ教育信奉者である。考えを共有する保護者が戸塚氏を頼り、ヨットスクールに子どもを預ける以上、戸塚氏の持論は生かされることになる。批判者はいれども信奉者がいる限り人は慕われる。
いつもながらに思うは、「他人を理解することの難しさ」である。色々取りざたされるが、我々は戸塚氏の思想や行動を笑えるだろうか。他人の行動を我々は自分の理解し得る範囲内において理解する。よって、「理解できない」というのは、真に理解できないというより、理解したくないとの要素が強い。ニーチェの書が同時代の人には理解はできなかったように。
ばかりか、彼は奇人としかうつらなかった。確かに古来偉大な人物というのは、常に孤独の影を宿している。三島事件の際も、さまざまな人間がさまざまな解釈をした。が、真の三島の解釈よりも、個々の人間の器量の表明に過ぎないものが多かった。それを果たして理解といえるのか?世の一切のものを理解する必要もない。付き合う人間を選ぶように、付き合う思想を選べばよい。
人を恐怖に落とし込んで、何かの効果を得ることが例え事実であっても、それが優れた方法とは思わない。よって戸塚宏の思想を自分は敬遠する。愛知といえば藤井聡太が日本中の関心事。自分の興味がある事にはとことん集中するというところから、彼はアスペルガー、ADHDの典型では?という声もあるが、どうであれ彼の将棋のセンスは無比である。
あと数年でタイトルを取る、稀代の名棋士になる、そんなことをメディアはいうが、どうせなら気の早いこといえば、愛知の偉人になるだろう。愛知の名棋士といえば、今期A級に上がった豊島将之八段(一宮市出身)が秀逸と思っていたが、藤井四段の陰で存在感が薄れた感がある。とはいえ、5月7日、瀬戸対一宮の尾張対決が三河の岡崎市「五万石藤まつり」で実現した。
結果は一宮市豊島の圧倒的勝利で、公式戦で観ることのない藤井聡太の負けで、藤井は豊島を、「さすがA級棋士」と称えたが、「悪いところも分かっていますので…」と怯むところは見せなかった。本日も午後2時から対局があり、勝てば27連勝となるが、相手は東大生で学生チャンピオンの藤岡隼太。隼太vs聡太対決となるが、アマチュアの方がプレッシャーがあるかも…
天下人三人を出した愛知に新たな天下人の予感がする。以前、愛知は関東か関西かの談義で、ある奴がこう言った。「関東、関西の境の起点は、天下分け目の関ケ原で、愛知は関東になる」。思わず笑ってしまった。「天下分け目」の意味をはき違えている。「関」とは箱根の関所をいい、関の東を関東といったのは、主に畿内住民の言葉で、当時、関西という言葉はなかった。
昔のことを言っても始まらないので、現在の関西の範囲は、大阪府、京都府、兵庫県、滋賀県、奈良県、和歌山県の2府4県が一般的だが、関西地域振興財団は、福井県、三重県、鳥取県、徳島県を加えた2府8県を関西と定義している。したがって愛知はどちらでもない東海、もしくは中部というが、大阪と東京の間にある名古屋を、「日本の中心」とは誰もいわない。