坂本博之というボクサーがいた。元日本スーパーウェルター級チャンピオンだが、世界タイトルには届かなかった。過去4度、世界タイトルマッチに挑戦したが、いずれも敗れたものの、元WBA世界ライト級王者畑山隆則との試合は壮絶で、ボクシング史上に残る名勝負といわれている。福岡県生まれの坂本は物心ついたころには両親が離婚、以後も不遇の人生を送っている。
両親の離婚で親類宅に預けられたが、なぜか食事を許されぬ事が多く、川でザリガニなどを食べて飢えをしのんでいたという。小学2年のとき、福岡市の児童養護施設「和白青松園」に入園し、そこで初めて三食の食事を与えられたという。 高校卒業後、東京都内のボクシングジムに入門した坂本は、ノンタイトル戦でもファンや観客を魅了するボクサーに成長した。
その彼に『僕は運命を信じない』という著書がある。読んではないが、ハードな練習に明け暮れる日々のスポーツ選手が、運命などという天の声を信じないのは理解するし、運命は自らが切り開くものと信じてトレーニングや練習を積むのだろう。同著は2007年出版だが、2011年には『運命を跳ね返すことば』、2015年には『運命を変える』などの著書が出版された。
いずれもタイトルには「運命」の文字があるが、『僕は運命を信じない』としながら、「運命を跳ね返す」、「運命を変える」というのはどこか変では?「跳ね返す」も「変える」も、いずれも定まった運命というものがあるような口ぶりに矛盾を感じる。本当に運命を信じないなら、跳ね返すも変えるもなかろう。己が踏み出す一歩一歩が自らが作る道(人生)である。
そのことに拘るというより、運命を信じないなら信じないような、信じるなら信じる考えがあろうハズだ。別に、信じたリ、信じなかったりでもいいが、一環であるのが分かり易い。自分の意思ではどうにもすることができない、人生はすでに筋書きが決められている、というのが運命肯定派の考えだが、運命否定派は、「そんなもん、あるわけないだろ」となる。
女性の側に運命や占いを信じるものが多いのは経験上分かっているが、運命を信じる男がどのくらいいるのかのデータを見ると、信じないが65.4%であった。つまり信じる者は3割ちょいの少数派である。まったく先入観もなく、想像もしていなかったので、数字の感想については、「そういうものか」であった。女性には興味はないが、数字は逆程度かそれ以上か…。
自分の周辺でも極度な運命論者はいなかったようだ。いたとしてもすぐに遣り込められただろう。なぜなら、運命という台本を肯定すると矛盾が噴出するからで、運命を信じない人間は、そうした多くの矛盾を根拠にしている。要するに、すべてが生まれながらに決まっているというのが納得できない。出会う人も付き合う相手も、すべて決まっていた。言うのは簡単だろう。
さまざまな矛盾があるが、矛盾とも気づかないのか、こういう運命論者がいる。「私も含めて人間は修行するために生まれてきた。この世で生きることそのものが修行なのだ」と持論を展開し、「人間の未来は運命によって決められている」というが…「???」オカシイだろ?修行って、自分を高みに導くためのものでは?人生が決まっているなら何を頑張るのか?
「あなたの人生は修行で頑張るという運命にあるのです」というが、そういうしかない。さらには、「運命は決められているが、人間はそれを知ることはない」などと言う。「いかに筋書きがあろうと、それを知ることが出来ないというなら、「運命などないと同じでは?」といえば、「人間が感知できないものでも在るものは在る。人間がそれを知り得ないだけ」という。
どうしても、霊とか前世とか来世とか、見えないもの、確定できないものを言葉で確定しようとする。それを言えば、「あなたも見えないものを言葉で否定しようとしていませんか?」と、永遠に平行線なので、運命論については矛盾を提起して終わりにした。「この世は修行」というのは嘘に聞こえるが、いう人にとって、自分は修行する運命に導かれているという。
「この世は修行の場」という言葉は、「未来は何も決まっていない」という風に取れる自分だから、「人は修行するために生まれて来た」などと言うなよ!と若いころは思ったものだ。今は、「好きに言えば?」で何とも思わない。思考も含めたすべてのものは、それぞれに与えられたものであるからだ。したがって、自分は多くの可能性を信じる派である。
結婚相手だって、決められていた、与えられていたではなく、自分が自分に合った相手を見つけたのだと。それを適当に、いい加減に、「決まっていた」などと死んだ後でも思わない。浮気を妻に見つかった夫が仮に、「俺はお前と結婚した後に、浮気をする運命にあったのだ!」と、そんなことで正当化できるわけなかろう。運命ではなく、お前の不始末だろに。
まあよい。運命については否定的でいればよいし、すべてのことは運命ではなく、自己責任であるとの生き方が真摯である。運命論者が抱える矛盾はこちらには関係ない。矛盾といえば、戸塚ヨットスクールの戸塚氏は以下のようにいう。「ワシのいう体罰とは、相手の進歩を目的とした有形力の行使、力の行使であって、あくまでも相手の進歩を目的としたものである。」
驕った人間はあまりに安易、あまりに単純、あまりに傲慢である。ようするに、自分の思う有形力の行使は正しい力の行使であって、受ける側はそれを善意に受け取らねばならない。お前の進歩に根差したものであるのだから」といっているようなもの。子どもを殴る蹴るの暴力を正しく受け取れって、戸塚のおっさん、あんたは、相手の善意一切を善意に受けるのか?
だてにハゲてはいないし、そうであるなら立派であるが、すべての人間が、すべての子どもがそのように受け取るわけでもなかろうが、それなら相手の受け取り方が間違いということになる。人の心は見えないものだ。見えない心は分かりにくい。だから、善意が仇にもなって、誤解を生むなど往々にしてある。戸塚氏の論理は、こうした独善論に貫かれている。
体罰を暴力といってもいいが、我々が子どもに行う暴力は、「質の高い不快感」であって、戸塚ヨットスクールの目指すものは、「質の高い不快感」を生徒に体験させることだという。「質の高い不快感」を与えているだけなのに、それをそのように受け取らないなら子どもが悪いということになる。今更ながら、バカだね~、短絡的な傲慢オヤジだね~というしかない。
親が子に、教師が生徒に、師が弟子に対し、いかなる暴力も認められないというのが一貫した自分の考えであるが、その理由は、こちらの意図がそのまま善意に相手に伝わらない怖さを秘めているからだ。戸塚氏のような傲慢な考えになれば、いかなることも正当化できるであろう。御国のためなら若い命とて、犠牲にすべきという考えにも通じるものである。
元中日ドラゴンズの星野仙一は、同じような鉄拳制裁主義の監督だった。言葉を用いる人間が、言葉によって話し、言葉を受け取る、それこそが人間の秩序であって、言葉を用いない鉄拳制裁は無秩序である。かつて日本軍は上官が兵隊に鉄拳制裁をしたのは、兵隊から言葉を奪ったことであり、そのことが日本軍が同胞におかした最大の罪ではなかろうか。
人が人から言葉を奪ったなら、残るものは動物的攻撃性に基づく暴力秩序である。言葉を持たない野生の動物に話し合いはない。野牛は暴力攻撃でしか決着できないように、戸塚や星野は人間にあらずと自分はみていた。事もあろうに日本軍の上官は、「鉄拳は天皇陛下のものである。有難く頂戴しろ」と正当化した。兵隊はどんなに殴られようと、「有難う御座います」という。
指導者の威圧によって自分の思った行動は去勢され、個人の個性を奪うことが必要だったというのは、一つの考えであって、その中でも短絡的な方法である。日本軍におけるスパルタ的手法は、兵士たちの思考を停止させ、上官の指示通りに動くように訓練されるが、ゆえに日本軍兵士は無思慮で無意味な、「万歳攻撃」や神風特高で多くの人命を失ったのだ。
体罰を肯定する親はいるのだろう。肯定はしないが無意識に手が出る親もいるのだろう。「いけないと思いながら、つい手がでて…」そういう母親は多い。これは肯定そのものであろう。本当に肯定したいなら、曖昧にせず暴力を否定すべき。権力を振りかざし、躾の名のもとに怒り感情を暴力で示しても、子どもは叩かれる痛みと恐怖心で親の言いなりになっているだけ。
親が伝えたいことはまったく伝わらない。そしてその子が親になり、子どもを動かす方法として、親と同じように暴力という手段を取るであろう。虐待の連鎖は、自分もそうされたのだからという親の真似である。そのことを暗に自己肯定化し、それが手っ取り早いということになるのだろう。中学高校になり、もし親の暴力に本気で挑んだら親は一たまりもなくなる。
手加減しないというのは、つまり肉親ゆえにである。だから家庭内暴力は本気になるがゆえに怖い。子の親殺しは、ある意味手加減する怖さである。手加減して足腰折って入院し、くどくど言われることを考えたら、いっそ殺して無き者にした方が、仕返しで睨まれることもない。他者から危害を加えられた者が逆の立場に転ずるときほど、容赦ない行動に出る。