滑稽と可笑しいの意味の違いは、「滑稽だから可笑しい」という用法から分かろうが、「可笑しいから滑稽だ」とはいわない。滑稽は、中国古代の歴史書『史記』中の列伝の篇名として知られる用語で、当時は、饒舌なさまを表した。転じて後世には、笑いやユーモアと同義語として日本に伝わり、滑稽本などを生んだ。一説によると滑稽の語源は、酒器の一種の名であった。
その器が止め処無く酒を注ぐ様が、滑稽な所作の、止め処無く言辞を吐く様と相通じるところから、冗長な言説、饒舌なさま、或いは智謀の尽きないさまを、滑稽と称するようになったという。ニワトリの品種に烏骨鶏(うこっけい)というのがあるが、字も違うし何の関係もない。卵一個の値段が400円くらいする高級品種だが、食べたことはない。何でそんなに高いのか滑稽だ。
若いころのあまりの思慮の無い行為は、今となっては笑い話になるが、自分がもっとも「滑稽千万」といえるような何があったろうか?胎内記憶、誕生記憶というのがしきりに言われたこともあったが、自分の中で最古の記憶というのは、自営で多忙であった親に変わって、祖母が自分の子守りに参じていた。祖母の背中に背負われて寝かしつけられたある夜のこと。
大きな満月が自分の視界に入った。背中でお守りだから2歳かそこらだったと思うが、祖母の背中でみる月は、なぜか自分たちの後を突いてくる。歩けば木々や家々はどんどんと後方に下がっていくが、なぜか月はいつも自分の左横について来た。まるで自分たちと歩調を合わせたかのように、歩けど歩けども月はついてくる。疑問を抱くというより、じっと月をみていた。
これでは寝るわけがない。「月夜のふしぎ」、「月のふしぎ」がどうやら最古の記憶である。後は母から受けた虐待の記憶が多い。小学一年生の書き取りのマスは大きい。そこに習った漢字を書くのだが、目の前には鬼の母が、綺麗な字を書かせようと監視体制である。膨大な書き取り練習を泣き泣きしていた。子どもは筆圧が強いから薬指のペンダコが痛くなる。
自分の痛みは他人に分からない。親と言えどもだが、それが痛くて泣いていた。男の子だから泣くのを容赦しない母は、泣くと板の間に正座をさせる。何故か正座が罰であった。「抱き石」といって、十露盤(そろばん)板と呼ばれる三角形の木を並べた台の上に正座させ、膝の上に重石を載せる刑罰があった。それは刑罰であり拷問であったが板の間の長時間正座もキツイ。
いたずらをすると体を縛って押入れに入られるのだが、子どもはどうして押入れが嫌なのだろう。押入れは闇の恐怖、そこにはお化けがいると思えた。冷静に考えたらこんな滑稽なことはない。手足を縛られ、押入れに入れられたところで、嫌がりもせず、怖がるどころか、暗くて寝るのに丁度いいと、あっけらかんとなぜできなかったのか、今にして思う。
自分ながらにひねくれていたと思うが、押入れが怖いというのはさすがに子どもである。「押入れなんか屁でもないわ、入れたいなら入れてみやがれ」とまで言えるほど、ひねくれてはいなかったのだろう。もし、前世も来世もあって、前世の記憶が来世に残っているなら、「押入れに入れてみやがれ!」と言おうと思っている。が、前世も来世もおそらくないとの考えだ。
ましてや記憶となると正気の沙汰とは思えないが、「自分の前世は仏陀である」とか、「あたしの前世は天草四郎なのよ」という人は、へそが茶を湧かすほどに滑稽と思っていた。前者は大川隆法、後者は美輪明宏である。彼らが特別な何者かなどは一切思わないが、そうではないと証明できないのを逆手にとってか、好き放題いう人間はイカレていると見るのが妥当。
1990年代初頭、オカルト、超能力、霊界ブームがあった。「幸福の科学」を始めとする「不思議宗教」が出現もした。スピリチュアルや宗教というのは、本来は、「神聖な分野である」はずなのに、扱う人間によってはビジネスや詐欺に利用された。日本の仏教や神社などと同じで、利益を得てはいけないわけではないので、扱う人間の本質的拠所になっている。
既存の宗教概念ではとらえようがない不思議宗教だが、阿含宗、GLA、真光系教団など、「新新宗教」と呼ばれる一群の新しい宗教とて同じであろう。宗教的な広がりはないものの、一部の霊感所有者の多くは、「現代的な霊界観に基づく体系的宇宙観」や、「新宗教の重要な要素ともいえる"心なおし"をうたうことで、信者獲得を広げんとしている。
人間には下半身があるという理由からか、新興宗教教祖が絶対に口にできなかった、「自分は神」という言葉を使う者まで現れた。「幸福の科学」しかりの大川隆法は、普段一見はヌーボー感漂う人間だが、講演となると別人もどき変貌する。饒舌で声が裏返る白熱さには引いてしまう。声の裏返る人は決まって高めで早口で饒舌、落ち着きの無さを感じる。
声が裏返るのは、故大島渚、ジャパネット高田社長、物乞い賢者テラ、将棋の加藤一二三は、ただでさえ高い声が興奮すると自制効かずで裏返る。裏返る手前で止めればいいが、独りよがり人間の特質だ。大島はただの騒音、高田社長は商売熱心、自称神の賢者テラは自宅のキッチンで説法、加藤に至っては奇人以上、精神異常者以下。若くもないが彼らは滑稽だ。
独りよがりにならぬよう、落ち着いて冷静に話すを旨とする自分は、説得より相手が納得するを心掛ける。目を凝らさずとも世の変化は凄まじい。30年、50年前に比して近年の時代変化の特徴は、社会の個人化という様相である。そうした中で自我をどう支えて行くのかだが、ゆえにか、自己実現のためのチャネリングを通した各種の啓発セミナーが盛んである。
流行と見る向きもあるが、ともあれ宗教や異次元霊界には、現世利益的な個人の安心、他方は理想に献身するなかで、自らも救われるという二面の機能が、信者の魅力となっているようだ。人間の基本は自力なのか他力なのかは、大きく分かれるところだが、地力は自信、他力は依存である。それぞれが自分の心や性格にあった生き方を選択するということのようだ。
確かに、「他力」というのは、日本史におけるもっとも深い思想であり、凄まじいパワーを秘めた〈生きる力〉である。法然、親鸞、蓮如などの思想の核心をなすのも〈他力〉である。法然は難しい往生の修行をやさしく説いたし、親鸞は法然の説いた道をより深めた。さらに蓮如は、親鸞が深めた信仰を、広く人々に手渡さんと、自らの生涯を賭けて行った。
したがって日本の仏教は、「難しいことを易しく」、「易しいことを深く」、「深いところを広く」という三人の聖人の働きによって、日本人の心に長く定着していった。宗教に帰依せずとも生きては行けるといいながらも我々は無意識に宗教の影響を大きく受けているだろう。ただ、御利益を期待しないのが、信仰に与しないものの鉄則と言い含めている。
つい人間はその弱さもあってか、詣でに参じて小銭を投じ、大きな願いをかけたり祈ったりするが、これとて滑稽千万と自分には映る。如何に「苦しい時の神頼み」とはいえ、虫が良すぎるのではないか。そういう辛辣な考えもあれば、「別に大願成就など叶うとも思わない。神社仏閣においては儀礼的に手をあわせているだけ」という考えも、いかにも日本人らしい。
父の墓前で手を合わせるとき、お願いごとをするなどもっての外と、「南無阿弥陀仏」というしかない。神や仏や御先祖様が、身勝手な私利私欲を聞き入れるはずもない。ヴェルディのオペラ『トスカ』では、毎日祭壇に花を捧げ、お祈りを捧げたトスカ姫は無常のアリアを絶叫する。信者が神に対するこうした屈折した心情を抱くなら、無神論者は楽と言えば楽である。
私は芸に生き 歌に生き
人様には何ひとつ 悪いことをしませんでした
不幸な人を知れば そっと手を差し伸べ助けました
人様には何ひとつ 悪いことをしませんでした
不幸な人を知れば そっと手を差し伸べ助けました
私はいつの日も 心からの信仰をこめて
祈りを聖壇に捧げましたし
心からの信仰をもって 祭壇に花を捧げました
祈りを聖壇に捧げましたし
心からの信仰をもって 祭壇に花を捧げました
この苦しみの時に、何ゆえに・・・主よ
私にこのような報いを お与えになるのですか?
私にこのような報いを お与えになるのですか?
私は聖母マリア様のマントに 宝石を捧げましたし
星に・・・天に・・・歌を捧げれば それらは天上で
いっそう美しく 微笑んでくださいました
星に・・・天に・・・歌を捧げれば それらは天上で
いっそう美しく 微笑んでくださいました
この苦しみの時に、どうして・・・主よ
私にこのような報いを お与えになるのですか?
私にこのような報いを お与えになるのですか?