人は生の過程において、「自分はどうしようもない人間だ」、「なんて愚かだろう」などと、誰でも一度や二度は思うのではないか。自分の存在までもが周囲に迷惑と感じられ、いっそ死んでこの世から消えた方がよいのでは?と思う人もいたはずだ。そのような回想を浮かべられるのは死を選ばなかった人であり、ゆえに、後にその時の思いが間違っていたと気づく。
笑い話と回想することもあろう。「後悔先に立たず」というが、誰もが後悔しないように生きたいと望むも、後悔しない人間などいない。誰もが苦しみたくない、悩みなどもちたくないと思うが、悩みのない人間などいない。辛い出来事や事件が起こるなども誰も望まないが、何も起こらなかった人生などはない。悩みや問題を解決したくてもできない人は多い。
苦悩は深くなるばかり…。事件や問題を解決できない人は、自分の気持ちによって動くからだろう。問題を解決するということは、自分の気持ちを抑えることだというのは、年を重ねると分かってくるが、若い時にはそのことが分からない。たとえそれがいかに人間的な感情であっても、そうした感情を抑えることが問題解決に繋がるという、そのことが分からない。
若さとは元気がいいにはいいが、自分をコントロールできない。ならば苦しみや悲しみを我慢すること。人間はどうあがいても、我慢ナシでは生きていけない。苦しみに耐えかねて暴発した人は沢山いたし、乗り越えた人が生きられた。我慢をするというのは感情を抑制すること。人間は社会的動物であり、社会の中で生きて行く以上、社会性を備えなければならない。
社会性とは、家の中で親に甘えてわがままに暮らすことではない。したがって、親が子どもに我慢を教えることは、社会性を教え育むことだが、それをやってこなかった親に育った子どもは、感情の抑制ができず、社会生活を営めない。社会の最小単位は2人である。社会には我慢が必要であると、当たり前に親が考え実践していたら、子どもは苦労しなくて済む。
欲しいものがあるのに得られないというのは、子どもであれ大人であれ辛く苦しい。普通の親なら何でもカンでもすぐに買って与えはしないだろう。それが良くないことを知っているからだ。思い出してみればいい。子どもの頃に欲しくても手に入らなかったモノを…。とはいうものの、近年の子どもは(自分の孫を見て思うのだが)、普段でも結構大金を持っている。
昔の子ども、つまり我々の時代や前の世代も、少し後の世代も、まとまったお金を手にするのはお正月くらいだった。それでも大金というほどではない。小学6年生になったとき、父の提案で小遣いを月額500円と決められた。周囲に聞くと月決めが珍しかった。皆は時々に必要なものは親に買ってもらい、おやつも親が買い置きしていて、小遣いは不要といっていた。
父には意図があったのだろうが、「考えて使うように」と言われた。それでも、親の目を盗んでは時々家の金を盗んだ。家のお金を盗むのが、「悪」かどうかはともかく、ある程度親の容認があったように思う。子どもが親の金を盗んでも犯罪にはならないが、やってることは、「オカシイ」と今にして思う事。ビートルズのシングル盤が330円だった時代である。
LPレコードは1500円であった。子どもには大金であり、LPを買うなど夢であった。だから親の金を、「ちょろまかす」。「ちょろまかす」とは、他人の目をかすめて、物を盗むこと。ちょろまかすに悪の意識はなかったが、他人の金を盗むなどは考えられない。親のお金は家のお金、家のお金は自分のお金で、他人のお金を盗むとは違い、罪悪感は希薄であった。
「おかしい」、「おかしくない」の曖昧な境界線は子ども時代に誰にもある。「家のお金を盗んだことないよ」という人もいるだろう。それは立派である。確かにしてはいけないことに違いない。が、そうすることで得たものもあったはずだ。正当化というより、結果的に見て…。若いころにやった、「おかしなこと」、「よくないこと」が何かをもたらしたかも知れない。
子ども時代に格別にイイ子だった子だけが、いい大人になるとは限らない。そういえば、人間は胎児時代の記憶を持つと話題になったことがある。子どもに問えば、その子が胎児時代のことをあれこれ話すだというが、自分は信じなかった。多少なりイマジネーションの強い子なら、そうした創作話もできるようし、胎児期の大脳や記憶中枢の発育を考えると、到底信じ難い。
子どもに聞き取る以外にしか方法はないのだから、研究といえどもいかがなものか?「胎児には素晴らしい能力がある」。という触れ込みで、1970年代後半から、胎児や新生児のすぐれた知覚や記憶力について書かれた本が、日本で相次ぎ翻訳出版された。『暴力なき出産』フレデリック・ルボワイエ(仏・1974)、『胎児は見ている』トマス・バーニー(米・1981)。
『誕生を記憶する子どもたち』デーヴィッド・チェンバレン(米・1988)などがあり、僅かながらも関心を持つ人が出てきている。胎内記憶と、誕生記憶に分類され、前者は胎児期の記憶、後者は生まれ出るときの記憶。2002〜3年にかけては、長野県諏訪市と塩尻市全域の保育園の協力を得て、3601組の親子に大規模なアンケート実施がなされた。その結果は…
◎ 胎内記憶が「ある」33パーセント、「ない」40パーセント、「どちらともいえない」27パーセント。
◎ 誕生記憶が「ある」21パーセン、 「ない」46パーセント、「どちらともいえない」33パーセント。
「ない」という回答のなかには、親が質問したことがない、子どもが幼くて上手に話せない、というものが含まれているので、実際にはもう少し多くの子どもたちが、生まれるまでの出来事を覚えているのではという。ただし、6歳を過ぎると記憶のある子は10パーセントに減り、中学生では2.5パーセント。成人してしまうと、ほぼ1パーセントに減っているという。
子どもは空想力に長けているので、正真正銘の胎内記憶、誕生記憶ではないと自分は思うが、そう決めつけたいわけではない。胎内記憶が話題になったころに、2歳児、3歳児の我が子に胎内のことをどうであったかを問うた母親もいて、子どもとの会話の様子がネットに紹介されているが、いずれも母と子の楽しくも、他愛のないやりとりと感じられる。それでいいのではないか?
「ママのお腹にいた時のこと、覚えてる?」
「覚えてる~」
「覚えてる~」
「ママのお腹の中で何してたの?」
「ねんねしてた」
「ねんねしてた」
「ママのお腹の中は何色だった?」
「赤色」
「赤色」
「お腹にいる時も、ママの声聞こえてた?」
「聞こえてた~」
「聞こえてた~」
「お腹から出てくる時、痛かった?」
「?(ちょっと考えて) 痛くなかったで~」
「?(ちょっと考えて) 痛くなかったで~」
「『ねんね』、『赤色』は同僚の子供の話と全く同じでした。子供と胎内記憶の話をしたことがある方、ぜひ内容を聞かせてください!すごく神秘的です」と母は結んでいるが、科学的な証明とか考察というのではないようだ。まあ、聞かれた子どもが、「そんなこと覚えてるわけね~だろ、バカいってんじゃない」といえば、それこそ親はショックかも…
人間の子どもは未熟なままで生まれることが分かっており、胎児出産といわれている。他の高等哺乳類には生まれてすぐに立ち上がるものは珍しくないが、なぜに人間だけが数年も親の保護を受けなければならないのか、進化の過程でそのようになったのかにはさまざまな考察がなされている。野生の動物はそうでないと、他種から襲われる危険性があるとの考えは理解に及ぶ。
胎児のままで産む方が母体への影響が緩和される。新生児が無力で未熟で長期間親の保護を必要とすることで、親子の愛情が構築される、などの納得できる。ヒトの乳幼児の無力さについて記された最初の記録は、ギリシャの哲学者でミトレスのアナクシマンダー(前611~547)といわれている。彼はあらゆる種の中でヒトだけが長い授乳期間を必要とすることに気づいていた。
ヒトがもとから現在のような姿であったなら、おそらくヒトは生きながらえることはできなかったろうと述べている。とすれば、ヒトはかなり早い段階から独力でやっていけるような、ヒトとは別のある種の生物から生まれたと考えた。アナクシマンダーはその種とは、水棲の、「魚人」といえる一種で、それが次第にヒトに変形していったと仮説を主張している。
この魚人⇒地上人への変態が、ゆっくりとした形態変化説の最初の記録である。19世紀になって、「全ての生物種が共通の祖先から長い時間をかけ、自然選択と呼んだプロセスを通して進化したことを明らかにした」のがダーウィン(1809~1882)であるのは誰でもしっている。進化論は創造主(神)の存在を否定する考えでもあり、精神・科学の両面から多くの否定者が存在した。
表題から起こした記事なので、あまりに別方向にいかぬよう、ダーウィンのことは取り置くが、「人間は、教育を必要とする唯一の被造物である」とカントがいったように、人間は教育によってのみ人間となる。サルは人間が育ててもサルだが、人間はオオカミが育てるとオオカミになるように、いかに人間の本能支配が薄弱であるか、精神が脆弱であるかを示している。
自分の幼児期、少年期、青春期、あるいは壮年期でさえ、「なんという愚か者であったことか」と思うほどに未熟であったが、裏を返せば、そのように思えること自体、自分の成長があったということになる。自己教育力も含めた、「教育」の賜物であろう。自分が敵としたのはいつも自分より高みの相手だった。軽蔑に値する人間をライバル視する無意味さを知っていた。
自分が尊敬できる相手であるがゆえに、自分の力を出し切って競争できる。たとえ競争に負けたところで、成長に役立つ多くの物を手に入れることになる。弱い相手を競争相手に選べば十分に力を出さずとも勝てようし、勝ったところで自分は成長も向上もしていないだろう。将棋というゲームにおいてもいえる。プライドの高い人は、自分が勝てない相手とはやらない。
自分が勝てないと面白くないという人は多い。「あんたとはもうやりたくない」と言われることもある。今さら強くなろうと思わずともいいが、どうして趣味として楽しめないのだろう。つまらぬ自尊心ばかりが先行するのだろうか。不思議で仕方がないが、近年は分からぬことは、「そういう人だ」と思うようにし、理解をするように努めるが、相手から避けられるのは仕方がない。
「ねえ、おかしいでしょ若いころ」というならともかく、70歳、80歳になって、こういう風に笑われては情けないと思うが、人はいろいろである。いろいろな人がいるから、人生もいろいろということになる。人が一種類ならつまらない。いろいろな人がいるからいろいろ学んでいける。しかるに人間関係とは、身につけるべく様々な人への対処力といえなくもない。