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Channel: 死ぬまで生きよう!
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泣いてすごしたわ

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乳がんで闘病中の小林麻央の病状や状況が毎日のように更新されている。過去にも芸能人の闘病報告はあるにあったが、これほど取り上げられるのはなぜだろうか?彼女はブログを綴っているわけだから、気になるファンはそちらを読めばいいと思うが、麻央だけではなく海老蔵が、「どうしたこうした」までメディアが取り上げるのは、二人が国民的有名人だからか?

ブログでファンに報告するのはいいが、それにしても各メディアが日々重複して取り上げるのは、単純に言ってメディアに利益があるのだろう。でなければ、あえて毎日ブログ記事からチョイスするのはどうにも解せない。「麻央ちゃんはすごい人です彼女は強い人です」などのファンの反応も掲載するが、がんで余命いくばくもない芸能人フィーバーの様相に思えて仕方がない。

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世間に知られることもなく、病と格闘した多くの無名の人々を想像するに、「みんなすごい人、みんな強い人」であったろう。現在もひっそりとではあるが、日々病気と闘っている人に小林麻央は勇気を与えるとあるが、本当にそうなのか?無名の人々には彼女から何がしか恩恵を得るのだろうか?そういうこととは別に報道され、メディアがそのように書いているのでは?

誰に頼るでもない、誰から力を得るでもない、無名の闘病者は己の潜在的な生命力を信じて頑張っていると察する。誰に同情も必要とせず、誰にも心配をかけることもせず、公開することも公言することもせず、黙々と頑張っている人たちにも自分は思いを寄せてみる。6月5日の記事には、東日本大震災の被害者のことを書いたが、以下の言葉について意味を問われた。

「私たちは好敵手からいたわってもらいたいとは思わない。そして私たちが心底愛している人たちからも、いたわってもらいたくはない」

前段はともかく、後段についての疑問であったが、いわれてみると確かに分かりずらいのは、常用的な言い方ではないからだ。前も後も一人でも強く生きて行こうとの意味だが、自分を愛してくれる人から施しやいたわりを受けることが、強く生きる雑念になるとの決意と感じる。さらには、「愛するひとたちゆえに迷惑をかけたくない」という愛の本質が言葉の中に含まれている。

「見ず知らず人に迷惑をかけない」というのは公共道徳の基本だが、身近な人、愛する人にも迷惑をかけたくないというのは、至高の愛の形ではないだろうか。他人から恩恵や施しや同情を喜ぶ人はいるが、自分にはよくわからないところがある。感情よりも、理性が働くからであろうが、他人からの施しはできることなら受けないでいたい性格である。

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が、相手の率直な行為を無にするような非礼な態度はとらないが、自分のものはt自分で買いたい、自分の食ったものも自分でお金を払いたい。その方が充実感を感じられる。「情けは無用」、「武士は食わねど高楊枝」という言葉が好きだった。男と女が別の生き物であるのは理解としては知っているが、どうしてこれが同じ人間なのかと、理解を超えることがある。

「あたし、ワリカンしたことないの」といった美女がいる。あるテレビ番組に、「ブス枠」、「美人枠」というコーナーがあり、その、「美人枠」に登場したことから美人と言うことだ。名をMIHOといい、職業は美女ダンサーとある。今どき、「美人」が珍しいわけでもないが、「ワリカンしたことない」などと、自慢風にほざく女は、自分のなかでは「ド」ブスの類である。

なぜ、女は男にたかりたがるのか?というのも、女の子同士の旅行についていえば、それこそ1円単位にまでキッチリ清算してワリカンにするという。そうするのは正しいことではあるが、斯くも大雑把な男の旅行に比べると、女の細かさが如実に現れている。であるのに、女が男にあやかろうとするのは、女は男に愛されたい、言い寄られたいと思うからではないか?

あくまで自分の考えであるが、男に心から入れ込む女は貢ぎまくるからである。したがって、男に何でもカンでも支払わせ、あげくアレコレものを強請る女は、男の本体を愛しているのではなく、自分に貢いでくれるという男を愛しているに過ぎない。「心底愛している人たちからも、いたわってもらいたくはない」が愛の極致と考える自分には、愛する対象の相手ではない。

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「ワリカン」したことがないという女は、さも自分が美人でイイ女という自負を標榜したいのだろうが、男がそう思うなら結構なことで、他人がとやかくの必要はない。が、美人でいい女でも、育ちがよく、思い上がったところがない女性は、他人に支払いをさせて恐縮するものだ。昔気質で昔人間の自分は、女に支払いをさせるなどは、男の領分ではないとの気持ちで生きてきた。

が、上京してまもなく付き合った女が、一緒にデートした際の彼女の支払い分を、細かく記帳していたのか、別れの際に、「これは今まであなたが私のために払ってくれた分です」と、小銭が満載の貯金箱と、置手紙には驚きを超えた感動があった。この女はどれほど自分のことを愛していたのかという思いに気づかされた。付き合う女のなかで、最後に出会う女がいい女であるという確証はない。

最初であったり、5人目であったり、恋多き男なら10人目、20人目であったりするが、よりによって最悪の不作を伴侶にする男もいよう。女についても同じことが言えるが、これはもう言って行くところのない自己責任である。愛する男が自分と会うことを避けるようになった。拒んでいるのが明らかである。そういう時の女の気持ちに思いを巡らしたことはかつてない。

いつも自分のことだけで行動した。恋人をカップルといってみても、二人でワンセットではなく、思考そのものは自己中心である。したがって、他の女に目が行き、心が奪われるようになれば、これまでの恋は終わりを告げる。そういう時に、女は一人で物悲しく泣いているのだろうか?上に記した女は、花一輪を自分の部屋にかかげ、合鍵をおいて田舎に帰って行った。

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その花が、「都忘れ」であったことを後に知った。男の発想には及びもつかない、いたいけな女の心情である。自分の過去においてもっとも感傷的なワンシーンである。人はさまざまな経験を頭の隅において人生を過ごしたことだろうが、男と女が繰り出すあらゆる出来事を、生きた証として感謝すべきであろう。青春の一ページは儚くも切ない物語に彩られている。

流した女の涙など男は知る由もない。知ったところでどこ吹く風。愛の終焉は受け入れるしかない。もがけども、苦しめども、どうにもならないからだ。すがってまとわりついても、迷惑がられるだけである。自分がどんなに愛しても等価の愛を供与されるわけではない。失恋の打撃は、単に恋人を失っただけでなく、自らに供給し続けたものをなくすことでもある。

自分が幸せなら相手の苦しみが分かる余地もない。自分が幸せであればこそ相手を不幸にするのも恋愛である。人はより幸せを求めるが、新たな幸せより、現実の高揚を図るべき、それが婚姻関係ではなかろうか。今の相手に抱く不足が、許容できるものかできないかはケースバイケースであるが、そうではなくて、単純に新たな幸せを求めるなら結婚はゲームと化す。

愛を感じ、愛を知ることが他人と良い関係を樹立できるが、それだけでは自分にだけリビドーが行ってしまう。リビドーとは心理学用語で、生のエネルギーのこと。強い衝動、欲求、欲望、本能。また、性欲の意味でも使われる。自己愛にとどめることなく対象愛を求め、究極的には見返りもなく相手を愛せる状態になる事こそ、成熟した自己愛であるとしたのがフロイトである。

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反面、自分だけが一方的に愛されたいというのも、人間関係にあっては未熟な自己愛とされる。自分が相手に何も与えることをせず、「私は美人だから、あなたが私を愛するのは当然よ!」、「私のような美女と一緒にいれて幸せでしょ?」みたいな思い上がった女は存在する。その手の人間は男にもいる。が、こういう人は推して知るべきことがある。

表面的な魅力で愛の漂流者ではいれるが、おそらく結婚においては破壊者となろう。本来結婚とは、男にとっても女にとっても保守的な生き方を選択したことであり、いかに美人であろうと、いかにイケメンであろうと、それ自体が結婚に寄与するものは何もない。ばかりか、こういう未熟な自己愛所有者は相手から尊敬され、愛されることはおそらくない。

人間関係には自然に発露する、「ギブ・アンド・テイク」が必要である。与えるだけでも、求めるだけでも良好な人間関係は樹立しない。相手が自分に何を望んでいるかを常日ごろから想像し、察知し、そうした心理的なニーズを与えてこそ喜ばれる。気の利いた女性が好まれ、優しい男が好まれるのも、そういう気配りや配慮が身についているからであろう。

 利己性や独占欲は愛のコミュニケーションを阻害する。親子にあっても、母親の子への強い独占欲は、「過保護」という問題を引き起こす。本来、愛情は相手に束縛を与えてはならない。真に子を思い、大切に思う感情が愛であるが、それが行き過ぎたのが独占欲というエゴである。自分が愛されているか、支配されようとしているかの判断は、頭のよい子なら感じるだろう。

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いや、それをキッチリ判断できるから、頭がよいということになる。その点、自分は頭のよい子であったことが幸いし、親の操り人形にならなかった。が、子どもはどんなに親から虐げられても、親を見捨てないといわれる。哀しいかな、それが唯一自分がこの世に生存できる、「糧」であるからだ。親を捨てることは至難だが、それを決断すると呪縛から解放される。

親は一人ではない。そう考えた時に、自分は父への依存を決めたが、孤立した母は、ますます父と自分を目の敵にした。怒り狂うと見境の無い母を知る父は、見えないバックアップで自分を支えてくれたが、そうした明晰さがなかったなら、母は自分と父を歯牙にかけたかもしれない。ヒステリーは情緒短絡を遥かに超えた、「キチガイ」とまさに紙一重である。


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