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自分ばかりを責めて…

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藤井聡太四段の快進撃が止まらない。23連勝など誰が予測し得たろうか?そういう事が言えるのは、どこだかの霊能者くらいだろう。「予測した」ではなく、「予測した」と言えるのが、霊能者という職業だから。それなら自分でもいえるが、言って箔がつくわけでもないし、バカ呼ばわりされるのがいいとこだ。自分においてももそういう事をいえばバカだと思うので言わない。

当たればこれみよがし、当たらなければ黙りこく霊能者を結構みたが、彼らにどういう存在意義があるのか分からない。彼らのいうオーラや前世や守護霊についての蘊蓄などを耳にするに、運命論を肯定する気には到底なれないし、特に若い人は自身の可能性や人間の未知性を信じて頑張って欲しいと願う。運命論は人間をネガティブにする「無用の短物」である。

長すぎて役に立たないものを、「無用の長物」というが、長物にもならない短物とあえてした。「自分の人生はあらかじめ決められている」というのが運命論だが、「自分達の人生は、自分達が生まれる前に決めてきた」というのが自己責任的運命論である。職業、居住地、結婚相手など、多くのものが選択可能であるが、一切はすべて決まっているという。

先の大戦をはじめ、多くの人々が紛争や戦争や事故や病気、あるいは事件などで命を落とす人達の生を、死を、持って生まれた運命などと言ったところでバチは当たらない。頭がいかれてると逮捕されることもない。どういう根拠があるにせよ、根拠をもたない無責任な発言をすることも可能だ。霊能者は責任ある発言をするが、素人さんは無責任な発言だと、誰が決める?

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信じるものが決めるだけだ。霊能者はすごい人なんだと…。信じるというものはそういうことだ。霊能者も様々な矛盾を指摘され、返答に窮することもあって、以前のような決めつけ断定をしなくなった。逃げ道を用意する言葉を選んでいる。断定の方が説得力に富むが、ボロが出た時に困るからであろう。今なお第一人者(?)の江原啓之はこんなことを言うようになった。

「運命は努力によって変えることができるんです」。「は~?変えられないもの、生まれながらの台本を運命というのではないのか?努力はそれを変える?」というのは若者に光明を与える言い方だからそれはいいとして、あらかじめ決まっていた運命を努力によって変えたと、どうして解るのか?変えたではなく、努力して得たものがその人の運命というのは分かる。

運命という語句より、「努力して得たものがその人の人生」の方がいい。変わる前に決められていた運命が分からないのに、それでもあなたが努力する前の運命はこういうものだったと、どうしていえるのか?適当な言葉しかいいようがない運命論には腹も立つが、腹が立つ理由は、そういう誤魔化しを人に信じさせようという態度にである。何故にそれほどまでに「運命」に拘る?

運命がなければ人は生きるのに困るわけでもない。むしろ、悲惨な現状に陥った人に、「ああ、これが自分の運命などだ」と、生きる希望をなくすことが問題である。いろいろな人間の存在を考えると、「運命」などという言葉はない方がいい。どうしても使いたいなら、寿命を全うした人が、「自分の運命はこうだったんだ」と回想に浸る場合は、良い言葉かも知れない。

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あるいは、未来のある少年が、「自分は絶対にプロ野球選手になる運命のもとに生まれて来たのだ!」と自己暗示をかけて奮発するのは結構なことだ。何でもない奴らが、したり顔で「運命」などと言わなくてよろしい。彼らの言葉には何の益も観られない。したがって運命論者が、「運命は努力で変えられる」と言った時点で、運命論者を辞任したことになる。

「自分を責めて死んだ人はいる」。「自分を責められて死んだ人もいる」。どちらも死を選択するという悲しい結末である。自分を責めるのはいいが、死以外の選択を考えること。自分を責められるのは仕方がないが、死以外の選択はある。なぜ、死はダメなのか?常々思うのは、「もったいない」である。たまたま与えられて命を絶やすってもったいないだろに。

デブになって着れなくなったお気に入りの洋服だって、タンスにしまってあるだろ?もったいないからである。いつか着れる日が来るかもしれないという、ささやかな願いが捨てられない。命も同じものよ。今は辛い、苦しい、だけどいつかまた笑顔を取り戻す日が来るかも知れない。その日のために生きて居よう。洋服と命は違うかも知れないが、同じ部分を見つけること。

風が吹くことと桶屋が儲かることと、何の関係もないようだが、実は関係するように、そういうロジックで自分をみたらいい。狭隘な視点だけではなく、色々な視点で物事を考えるようにする癖をつけると、困った時も困らないで済む。用意周到であっても、何気に失敗もし、ミスもするし、人間はミスをする生き物だ。自分の犯したミスを隠そう、誤魔化そうはよくない。

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大概のミスは不注意から起こるが、起こしたミスを隠さず、誤魔化さず、それを受け止めて生きるとそれなりの人間が作られる。自分は遅刻の常習犯だった。が、嘘をつくまい、言い訳をすまいと考えたのは、自分は絶対に遅刻をするという自信があったからで、「お前は強いよ」と人は勝手にいっていただけだった。どうせ、言い訳は底をつくと、最初に判断しただけ。

それくらいに遅刻をする自信は消えなかった。「すいません、寝坊です」。こんな簡単に済んでしまうことを、嘘八百並べて言い訳するなど、自分から見てバカに思えた。言い訳しない自分をバカだと思う奴もいた。どちらがバカかはさておき、嘘をついてでも自己を正当化し、人に認めさせようとする人間を自分は軽蔑していた。なぜなら、それが母であったからだ。

どうしてああまでして自分の正しさを人に認めさせようとするんだろう。母のそういう行為は歪で愚劣にしか見えなかった。そうした親の行為を、親という垣根を超えて、人間の愚劣さとして客観的に冷静に見据え、一人床に入って考えていました。したがって、嘘を弄してまで自分の正しさを訴えるのは、自分が自分を軽蔑する事なのであり得ない。

前に述べた、「恥の文化」とは、ある行為を自分が「得」と見るか、「軽蔑」と見るかによって行為が決まる。人に恥じる行為は誰でも嫌だろうが、見ていないとか、嘘で誤魔化すとかと違って、自分に恥じる行為は誰より自分が分かっているし、誤魔化せない。したがって、人を護摩化す人間は自分を平気で誤魔化せる人間だろう。我が心を痛めるより、得を選ぶ。

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無責任に放言を垂れ流す人間も信用できないが商売なら仕方がない。商売の原則は買い手何を売るのも自由。わざわざ他人の偏見をお金を払って聞きに行く人もいるが、そこには商いが成立している。戦争や冒険や宇宙旅行、世界探訪とか、誰もが経験でき得ないことを体験者・実践者から聞くのは感動させられる。自分は小野田寛郎元少尉の講演に行ったことがある。

霊能者に無視を決め込む人も多い。所詮は目に見えないものを信じるか、信じないかという世界だから、否定するしないより、信じるか否かの世界だからだが、辛辣な映画評論で知られる町山智浩ほど江原啓之をクソみそに貶した奴はいない。『27時間テレビ』(フジテレビ)での"やらせ"発覚騒動でBPO(放送倫理・番組向上機構)から「放送倫理違反」を指摘された江原。

胡散臭さが完全に露呈してしまった「スピリチュアル」という分野には未だ根強いファンは少なくない。何を信じるかはその人の自由で、輪廻転生自体は古くからある仏教思想だが、前世、来世をあまりに楽観的に電波で発言すれば、自殺願望に加担することになる。やはり、こういう人は特定の信者を前に有料で話すのがいい。ファンなら金を払っても行くだろう。

ある江原講演会会場で冒頭江原が、「今日ここにいらっしゃったのも偶然ではなく……」と言うと、みなが声を揃えて、「ひつぜ~ん」と叫ぶ。のっけから学芸会状態の様相で、やることが幼稚すぎる。パフォーマンスではない真に思想を供与するなら格調高くと思うが、近年宗教は、半分はパフォーマンスに彩られ、そのパフォーマンスに魅入られて入信するという。

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町山の雄叫びはこうだ。「江原だけは許せね~。霊能力とか、スピリチュアルって、小学館のマンガ雑誌じゃね~んだから、フザケんじゃね~って。(いきなり声を荒げ) 霊能力とかねーだろコノヤロー。ホントに霊能力があるっていうんだったら、俺を呪い殺してみろよ、このデブ!絶対に呪い殺せよ、このヤロー!分かったか!」と、いうことだ。

真に悩める人には何が必要なのか?大人なら宗教もあるだろうが、小学生、中学生、さらには高校生…。子どもたちは、自分を責めるしかない。相手を責めても解決しないのが分かっているからだ。虐待されている子どもは絶対に親を責めないという。自分を責めるしかないというのは、そういう親でも生きて行くためには依存の対象であるからだという。

依存のように見えるが、子どもを育てるのは子どもを作り、産んだ親の義務である。「お前なんか産まなきゃよかった」といわれ、「だったら作るなよ。産んだ後でいう言葉か!」と自分は返した。怒りにまかせて母は何度かその言葉を言ったが、そう言い返されて言葉につまり、いわなくなる。権威に歯向かうとは、相手に何も言えなくすることと悟った。

自分ばかり責めるのは良くない。自己否定や自分を責める心理の深層には、実は自身の中に存在する無意識が何かをしようとしてくれている行為である。その何かとは、己のあら探しをして短所や落ち度のようなものを見つけて、それで安心したいという心理である。その人にとってそれを見つけることが自信となる。自信のはき違えだが、長年の癖が身についている。

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