豆腐のルーツは中国といわれている。今から2千年以上も前の前漢の時代。初代皇帝劉邦の孫である劉安が家来に作らせたのが、豆腐の始まりとあるが、この説の根拠は16世紀明の時代、李時珍が編纂した『本草綱目』の中に「豆腐の法は漢の淮南王劉安に始まる」とあり、この記述が「豆腐淮南王説」を広く普及したものと考えられているが、他説もたくさん存在する。
『本草綱目』は、今でいう百科事典のようなもので、当時の文化人の必読書であった。『本草綱目』以外にも、「淮南王説」が出てくるが、この説には疑問が残る。というのも、劉安の時代の中国には、まだ豆腐の原料となる大豆が存在しなかったからで、中国に大豆が入ってくるのは、この時代から半世紀もたってからだ。したがって、豆腐の明確なルーツは謎のまま。
劉安は哲学書『淮南子』などの著作を残した著名な学者であったが、彼が書いた書物の中に豆腐の文字は一切出てこない。ところが百科事典ともいえる、『本草綱目』の影響からか、「淮南」や、「淮南佳品」という言葉は、中国では豆腐の別称として残っているようだ。現在、豆腐を食べる地域は、中国から朝鮮半島、日本、東南アジアにまで広がっている。
日本と中国はともに、「豆腐」と書き、朝鮮半島では、「トブ」、ミャンマーでは、「トーフー」、ジャワ島でも、「トーフ」と、多少のなまりはあっても、ほぼ共通した呼び名が使われている。誰が考えたにせよ「豆腐は不思議な食べ物」といったが、豆腐ができた経緯を想像するに、この、「陸の肉」ともいわれる滋養に富む大豆をどのようにして食べるかであったろう。
その結果、豆乳という形態が一番消化がよいことを経験から知り、これに塩味を加えて調味し、豆腐の原形が生まれたのではと推測される。日本に豆腐づくりの技術が入ってきたのはいつ頃か?奈良時代に遣唐使が中国と日本を往来するようになり、日本に仏教が伝えられるが、それとともに寺院で使う食材の一つとして豆腐が持ち込まれたのでは?という説がある。
が、文献に初めて豆腐という文字が現れるのは平安時代の後期である。奈良~平安から鎌倉時代に入り、中国から禅宗が伝えられる。禅宗では修行の一環として肉や魚を避け、植物性の食品だけで作った料理をとるようになる。いわゆる精進料理で、そのためはどうしても不足しがちなたんぱく質を補うために、大豆が重宝されるようになり、それが豆腐であった。
江戸時代になると、それまでは主に僧侶や武士の食べ物であった豆腐は庶民の間にも広まる。江戸時代に作られた狂歌に、「ほととぎす 自由自在に聞く里は 海屋に三里 豆腐屋に二里」というのがあり、この歌からしても、豆腐屋がいろいろな場所に作られていたことが分かる。1782年(天明2年)、100種類の豆腐料理を紹介した『豆腐百珍』が出版されて話題となる。
なんと翌年には続編が出版され、その後付録までが出版されています。合わせて3冊に紹介された料理の種類はなんと約240種類。それだけ、江戸時代に豆腐は幅広く使われた人気の食材であった。さて、豆腐嫌いの自分が唯一好んで食べるのが冷ややっこで、すき焼きやしゃぶしゃぶ用の木綿豆腐より絹豆腐を好む。木綿豆腐は歯が欠けるからではなうが、やはり硬い。
したがって中華料理の定番、「麻婆豆腐」は注文したことがない。確かに豆腐を使った中華で人気もあり、家庭でも手軽に作れるのが麻婆豆腐。これを日本でポピュラーにしたのは、「料理の鉄人」である陳建一の父・建民の功績といわれており、いわゆる四川料理である。「麻婆豆腐」の生みの親は、四川省の都・成都に住んでいたチャオチャオという女性であった。
彼女は顔にあばたがあったが、とても魅力的な少女だった。17歳で結婚した彼女が移り住んだのが、成都の郊外にある三軒長屋で、住まいの両隣には、豆腐屋と羊肉屋があった。菜種工場で働く夫と彼女は仲睦まじく暮らしていたが、その夫が10年後に急死することとなり、若くして未亡人となったチャオチャオは、その後も独身を通し、つつましく暮らしていた。
そんなのチャオチャオが生きるの糧となったのが、彼女が作る料理であった。両隣が豆腐屋と羊肉屋で、お客さんは油かつぎの人夫たちが多かった。これはもう、料理の材料にはこと欠かない。彼女の料理の評判は、成都では知らぬ者がないほど有名になっていった。このときの人気の豆腐料理が、「麻婆豆腐」であった。チャオチャオはこれを、「羊肉料理」と名付けた。
ところがチャオチャオが亡くなった後、彼女の得意だった、「あばたのおばさんの豆腐料理」を誰ともなく、『麻婆豆腐』と呼ぶようになったという。『麻婆豆腐』寒い四川省にあっては身体を真から温めてくれるばかりか、栄養満点の申し分のない料理である。豆腐をビタミンEが豊富な油脂を使って料理をすると、大豆に含まれるゲステニンの抗酸化作用が高まる。
唐辛子や長ねぎ、しょうが、にんにくなどにも抗酸化作用をアップさせる働きがあることから、「麻婆豆腐」は、抗酸化作用が抜群にいいお料理といえる。人間が酸素を吸って生きる動物であることが、反面は酸素の害に晒されることで、抗酸化物質がにわかに言われるようになった近年である。酸化は金属を腐食させるように、人体の老化を促進させることにもなる。
「麻婆豆腐」は四川省から中国のあらゆる地域に広まり、中国人になくてはならない国民食となる。話は変わるが、天津丼は中国には存在しない中華料理である。確かに天津なる地名は中国にあるが、天津丼を知る中国人はいない。ご飯に八宝菜のあんをかけた「中華丼」日本の中華料理店で考案された。あの「エビチリ」も陳建民考案の日本人向けの料理である。
陳建民が日本で中華料理店を開く際に、「乾焼蝦仁(カンシャオシャーレン)」というエビを辛いスープで炒めた中華料理を、ケチャップで甘めにアレンジして作ったものだ。確かにアメリカで食べたケンタッキーFCやマグドナルドが、まるで日本と味が違うのに驚かされたように、食は国の文化である。スパゲティの定番であるナポリタンも本場にはない。
あるイタリア人が、「パスタにケチャップってどういうこと?あり得ん!」と思うらしいが、ある日本人がイタリアのナポリでナポリタンパスタを食べさす実験をした動画がある。やや社交辞令入りのボーノ(美味しい)であるが、デパ地下の試食で、「マズ~い」といわないのと同じだろう。以前、歯科医院の衛生士がパーマをかけたニューヘアを「どう思います?」という。
自分は、「何その髪、ぜったいに似合わない、おかしいよ」といったらしょげてしまった。デリカシーの無さはお世辞が言えないということだろうが、オカシイものはオカシイのだ。数日後、彼女はこういった。「娘に、『そのお客さんは絶対に正直な人だと思う』といわれました」といったが、オカシイものでもカワイイといわれたいのが女であるのは知っている。
口説く意図があるなら速攻で、「いいね、かわいいよ」といったかも知れない自分って、現金な男だぜ。昔、デブ女がケツの割れ目が半分どころか、3分の2以上もでているパンティを履いていたのに驚いて、「それってパンツの役目を果たしてなくない?」といったことがある。事実だからそのまま言ったし、悪気はないのだが、おそらくとんでもない悪者になったようだ。
少なくとも自分はイヤミでもなく、もう少し大きいのがいいのではと思っただけでグンゼのズロースを奨励したのではないが、彼女は自分に二度とパンツを見せる気を失せたようだ。ま、当然といえば当然で、以後は相手がイイと思うものに、こちらの主観を言わないよう心得た。チャラい男になる気はなく、なれない自信はあるが、女の前で男は誠実より寡黙がいい。
寡黙であるのと聞いてないは別である。聞いてはいるが意見は言わないのは、率直な人間のたしなみの一つであろう。率直も度を越せば「愚直」となる。嘘も方便や世辞の類は身につけなければならぬものと、ある時期に感じた。他人の妻の不平の一つに、「夫は私の言ってることをぜんぜん聞いてない」がある。いわゆる、「馬耳東風」の夫であるが、気持ちはわかる。
ようするに、減らず口女房なのだろう。一般的に男は、うるさい女に口をつむぐ。何かをいっても、相手の思いに合致していなければ攻撃されたり反感持たれたりで、「馬耳東風」は防御の心得であろう。東風とは「春風」のことをいう。諸葛孔明の有名な東風が吹くのを待って、火計を用いたという場面がある。孔明は東風を吹かせるために壇(拝風台)を築き、祈祷をした。
いかにも出来た話だが、孔明の呪術的・道教的な風景を挿入せんがための作り話であろう。宮城谷昌光の、『三国志』にもそう書かれている。「人は春風(東風)が吹けば春の息吹を喜ぶが、馬は耳を撫でる東風に何も感じない」という意味である。夫の、「馬耳東風」は、聞いていないではなく、返答を憂慮して聞いてないふりをしている。と、豆腐の話が東風にて落着。