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「恋愛」は人生の花 ③

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恋愛賛美は若い人に与えられた特権ではない。かと言って、「老いらくの恋」を奨励するのでもない。恋愛は万人共有の共感現象といいたいわけだが、恋愛否定論者はおそらくいるであろう。恋愛は男女の愛情を育むが、愛憎を芽生えさせることもある。恋愛否定者には、恋愛による苦い体験を含む何らかの愛憎劇のようなものがあったのかも知れない。

若いころに、「恋愛の目的は結婚である」という友人がいたが、恋愛に目的があるのか?という自分である。確かに恋愛結婚は自分で相手を探し、結婚をアプローチし、承諾を得ることで成される自助努力であり、自己判断でもあり、自己責任と言える。お見合い結婚は、親もしくは仲介者のアレンジする結婚であり、恋愛結婚を望む者は多かった。

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恋愛の極致を結婚とするのは否定をしないが、結婚が形式なら同棲に決まった型はない。かつて同棲はふしだらとされた。結婚もしない男女が共に暮らすのはふしだらなことだった。なぜふしだらと言われていたのか?一般的に結婚とは、子どもを設け、家庭を作るなどの目的が正当化されるが、同棲というのは性的な目的だけで互いを必要とし合っている。

そうかどうかはともかく、そのように見えることがふしだらだったのだろう。「婚前交渉」という言葉すらなくなった現代にあって、「婚前交渉の是非」が盛んに議論された時代である。恋愛中の二人においても、結婚という契りが成されないで勢い肉体関係を結ぶのは、一般女性にとって欲望を抑え込む、「力」になっていた。結婚に処女を持参すべきものだった。

結婚を前提とした付き合いのカップルであっても、勢い余った男が自制できず最後の一線を越えようとする寸前、「ダメよ、結婚するまで…ねっ、分かって!」というのは小説の中の話ではない。今では、「最後の一線」という言葉すらなくなった。中高生の恋愛小説には出てくる言葉なのか?こんにち社会は最後の一線を、最初の一戦にいたすようである。

昔の人間は、「昨今は性が軽んじられている」との見方をするが、昔を基準に現代の荒廃を嘆くというより、性を封じ込めたり、根拠のない純潔教育賛美に問題はなかったのか?硬直した考えであったのは事実である。昔人間といってもいろいろで、昔を基準に考えれば現代批判になるが、昔人間の誰もそういう考えではない。「昔とてそれほどでない」と感じる者もいる。

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「昔は良かった」という言葉はしばしば耳にする。何がよかったのかについては人によって違うが、こういうことを言いたくなるのものジジババのノスタルジーである。「今の若者はなっていない」と、これも耳にタコができている。昔はマナーも道徳もちゃんとしていたのか?昔もダメな若者はいたが、確実にいえることは、若者自身が、「若者はダメだ」とはいわない。

昔の日本の公衆道徳はそんなに優れていたのか?たばこの吸い殻やマッチの燃え殻が至る所に散乱していた光景をよもや忘れてはいまいだろうか?車のゴミを道路の植え込みに平気でなげる、雑木林に粗大ゴミをまとめて捨てる人など普通にいた。ペットを飼うのはいいが、生まれた子犬や子猫をリンゴ箱にいれて、遠くに捨てに行く。まだまだあるが書けばキリがない。

画像は40年前の、「鉄道ジャーナル」に掲載された、大阪発富山行きの特急雷鳥の車内である。床にゴミが点在しているのが分かろう。昔の日本といっても、何時が昔かの議論はあろうが、昔のヒドイ若者(自身も含めて)のことなどコロリと忘れ、「最近の若者は~」みたいな発言を、メディアのバックアップを得て口にするジジババにはいささか反感を持っている。

沢山記事を書いてきたが、「今の若者は~」というのは、ただの一行たりとも書いてない自分だ。その理由は、自分たちの時代を頭ごなしに押さえつけたオトナや学校や社会や親に反感を持っているからでもある。昔は良かった派のジジババと自分はそこが違う。とはいえ、昔がダメで今が良いというではなく、是々非々に物事を見るからして、現代批判も少なからずある。

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政治家、官僚、教育者に揺るぎない批判は当然だ。特に教師の質の低下はどうしたことか。人権意識の高い教師が、「教師とて人間だ」などというが、それで盗撮、買春、覗きなどは本末転倒である。人を指導する職業においては、何より強い自制心が求められるとの自覚がない。確かに教師も人間であるが、子ども託す教師がエロでロリコン人間であっては困る。

一般的に恋愛感情と性の意識は相伴うものであるべきだが、メディアや社会が性ばかりを強調し、喧伝することで、恋愛感情と性の意識バランスが崩れ、興味の対象が、「性」に限定されるような時代になったと自分は推測する。性の抑圧はよくないが、性を煽る社会より、まずは恋愛という花を咲かせ(正当化させ)、その後に実をつけるべきというのは、決して古い考えではなかろう。

実とは体験のこと。性あっての恋愛ではなく、恋愛あっての性であるがゆえに、恋愛というものが人間の両性に営まれるもののなかで、もっとも美しく、かつ難しい愛の交換行為と思われる。近年の性重視の関係においては、あまりにイージーであり、愛の交差という人間関係の難しさを知らない、それが離婚の多さにも繋がっているのではないかと愚考するのだ。

確かに男女の引き合う力は、子孫という実を結ばせるための、「罠」としての花であったと、そういう風な見方もできなくはない。すべての恋愛の実態を指し示すものではないが、欺瞞の恋愛もあろう。したがって、「恋愛論」というのは、ジジババの年代に書かれものが多元的で深みはある。が、若者は恋愛という花に愛着し、迷い、疑い、嫉妬し、苦悩するのが現実だ。

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偏った視点でいえば、恋愛は自然の授けた性の策略のようなものであるが、それにぶつかった当事者にとっては、自身の生きる上においての最大の意義となるべく、重大な精神の問題である。それ即ち、恋愛と性の同一化の問題であろう。近年は、そうしたまどろっこしい関係をあえて避け、「セフレ」などという性欲のはけ口としての異性を求める傾向にあるようだ。

このことは昔にも存在したが、相手にその意を気づかれぬよう配慮したものだが、互いがセックスフレンドであるを公言するという、このあっけらかんとした態度を我々の世代人は理解できない。共通認識というのは便利で使いよいが、そういう男女関係はいかにも味気ない。商売女を買うというのはあるが、そこに男女の人間関係というものはない。あるのは金銭関係だ。

長く生きて分かることもあるが、同時に分からぬことも出てくる。「セフレが2人いる」、「3人いる」と臆せず公然と口に出せる女とはいったい何者か?我々の知る、「女」の概念は、我々の時代にともに過ごした女でしかなく、こういう女は理解を超えている。団塊の世代が、新人類と称する若者を、「まるで宇宙人。さっぱり理解できない」と困惑していたと同じか。

「昔がよかった」というより、昨今は簡単に異性をゲットできるつまらなさに、昔に生きて良かったと感じる。面倒臭がりやで、恋愛よりも性欲放出主体ならソープや、"立ちんぼ"という路上売春はあったが、金銭関係だけの味気無さにはまるで興味を持てなかった。堅いガードの女性がデパートの特選品売り場なら、安っぽい女はバーゲン商品である。どちらが価値が高い?

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男遍歴の女もいたが、彼女たちは気のいい優しい人間だから、すぐに人を好きになってしまう。そういう彼女たちでさえ、「セフレ」という言葉は頭の引き出しにもなかったようだ。彼女たちでさえ、「セフレ」という定義は味気なく、「今のオンナノコはわからない」という。分からぬことを想像するに、性のモラル意識が無いというより、恋愛の悦びを省いている。

「恋愛は自然派生する性の欲求を正当化するための修飾である」という一文を目にしたとき、「ちがうだろ?」と感じた。というのも、思春期に体験した純愛には、性の欲望を抱かなかった。性に臆病というではなく、人を好きになることと性の欲望は別であった。動物はどうか知らないが、傍にいるだけで、手を握るだけで心が満たされた時期を「青春」というのだろう。

異性に対する畏敬の念であるのか?それとも異性を神聖化していたのか?どちらもあったように記憶する。異性に相対し、異性のミステリアスな部分に慄いている、それが思春期である。異性に対する情報もなく、先輩やオトナたちから耳に入れる情報に心をときめかす。思春期女性は恋愛小説を読みふけって、これまた異性という疑似体験をするが、男はさすがにそれはない。

男は能動的であり、想像力よりも接触欲が勝る。頭で考えるより触れて触って確かめるという刺激を求めるようだ。女性のヌード写真に興じる男もいたが、二次元よりは生身の女性が目の前にいる。男の分岐というのは、その辺りでかわってくるようだ。自分は女体そのものより、異性に自然本能的な憧れを抱いた。ひたすら優しい女性を求めたのは母のトラウマであろう。

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「性に目覚める」という言葉がある。生体的には内分泌の成熟だが、自覚されるもので、自分にも時期も到来した。それまではプラトニックラブ(精神的恋愛)を美しいと感じていたが、要はそれ自体が美しいのであって、それだけで恋愛関係が成就することはない。ましてや、精神的恋愛だけで結ばれた同士の結婚生活が、うまくいくのを保証するものでは決してない。

が、「処女をなくしたらお嫁にいけない」と考えていた女性は多かった。ようするに、あの時代に国策としてなされた純潔教育は、女性に対してのみ一方的に、処女での婚姻を奨励したのは、封建制度の名残であろう。「女は三界に家なし」という慣用句が示すように、「家にありては父に従い、嫁しては夫に従い、夫死しては子に従う」と、まさに安住の地はないという事。

「処女と結婚する男が男果報者」というのがいかに茶番であったか。妻の過去を知って打ちひしがれ、苦悩する男がいた。「なぜに出会う前の女の日常を、お前が拘束できるたか?今の出会いをなぜに良しとできない?」素朴な疑問だが、言って分かるものではない。言われて分かろうとするなら分かる。要するに、「分かる」とは、本人の理解力でしかない。

タイムリーなのが菊川怜。アラフォー直前に射止めた彼は資産家でイケメン。自尊心の高い彼女には申し分のない結婚相手だが、男の下半身は緩すぎる。入籍はしたものの、未だ同居していないのはショックの表れか。「(夫の過去について)知りたくなかった」と言うように、祝福されない結婚であるが、菊川が、「いい」ならいいのであって、最後は彼女のキャパの問題だ。

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