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「恋愛」は人生の花 ②

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「恋愛とはいかなるものか、私はよく知らない」。これは自分が唯一読んだ坂口安吾の『恋愛論』なる表題の冒頭の書き出しである。さも分かったように恋愛を語る人間の多い中で、"恋愛がなにかを知らない"というところが彼らしい。知らないもの、知らないことを書けるのか?という野次は的外れであり、知らないから問題提起をできるし、だから書けるのだろう。

「論」とは評論であり、「恋愛小説」の類ではない。恋愛小説も読んだことがなく、恋愛小説を読んでワクワクした経験もない。ワクワクなら推理小説に匹敵するものはなかろう。いや、まあ、自分の思うところであるが…。オンナコは恋愛小説が好きなようだった。オトコノコが推理小説SF小説が好きなようである。「なぜ女が恋愛小説を好むのか、私は知らない」。

それを解明する前に、「なぜ男は恋愛小説を読まないのか?」を導入として考えればいい。とある大学の研究による第一の理由は、恋愛小説は昔から、「女性のもの」という思想が男性の中に深く浸透しているという。その理由は、「軟(やわ)」なものとの見下しである。男が恋愛小説を読むと、「女性化」しているなどと周囲から変な目で見られるからだろう。

「女性的なものに興味がある」と思われることすら屈辱であった。いわゆる、「らしさ」という自己規範が、社会規範によって作られていた時代である。「なんだあいつは、男のくせに〇〇なんかしやがって」、「女のくせに木登りするなよ」などと、ハッキリと峻別されていた。これらは家庭教育にも顕著で、「男がめそめそするでない」、「それが女の子なの?」など。

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学校教育の場においても、男はきびきびとした態度や返事を求められた。「なんだ、その返事は?男らしくないぞ」とやり直しをさせられる。地域の教育力もあった時代だから、弱くめそめそした男の子は近所のお兄ちゃんに、「肝試し」の洗礼を受ける。肝試しの場は人の住んでいない民家や墓場と決まっていたが、怖くてもやせ我慢をして度胸を付ける。

こうした学校、家庭、地域という教育力が機能していた時代、子どもはそれなりに足りないものを補い育っていた。これを「男が男で、女が女だった時代」とするのは、当時の時代の要請である。今の時代に、「オカマ」や「女装愛好者」を非難するのは、差別主義者ということになるようだ。が、男の女装が許されるのは、特別な職種、特別な職場であることに変わりはない。

一般の企業や会社で、男が口紅を塗りたくり、スカート履いて、「おほほほ」なんてことはあり得ない。マツコやミッツマンという色物が許容されるのは、彼らの特別な社会においてであって、社会的な支持を得ているというのは、思い高ぶっている。許容はするが特殊なのは揺るがない。いわゆる、「らしさ」の崩壊、「価値」の多様化が起こった時代にも遭遇した。

時代の価値観を変えた人はいろいろいたが、自分たちの世代で筆頭に上がるのはビートルズであろう。彼は長髪という男子にあるまじきヘアーを主張し、みるみる全世界に浸透した。自分たちの少し前、エルビスの腰をふるセクシーな動きは保護者の批判に晒され、良識を基調とした、「エド・サリバン・ショー」出演の際、下半身は映さないとスタッフに厳命されていた。

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これまで、「ダメ」とされたものが、「なぜダメなのか?」について明確な理由がなく、「ダメなものはダメ」という校則程度のものでしかなかったということ。次いで丸山明宏(後の美輪明宏)のノンセクシャルな風貌が、「ゲテモノ」、「キモチ悪い」と批判されたが、ピーター(後の池端慎之介)が続いたことで、オカマという価値観が徐々に市民権を持つようになる。

社会学的な分類をすればまだまだあるだろうが、上記の人物は、自分の中で大きく価値観を変えた人である。価値観の変革はなぜ起こるのか?これについても様々な理由があるが、我思うは、「感覚の変容」がもたらすものではないか?クラシック音楽の歴史を見て思うのは、西洋音楽の変遷は、「教会(宗教)音楽」から始まり、バロック~古典派~印象派と変節した。

モーツァルトの伝記映画『アマデウス』のなかに、「音楽は愛に満たされるもの」という発言がある。イタリア人のサリエリは、「(音楽に)愛など、我々にはまったくない」と苦笑するように、彼らにとって音楽は神聖ローマ帝国の名残であり、宗教的なものである。モーツァルトの『フィガロの結婚』のフィナーレは、登場者全員の愛の多重唱を聴かせてくれる。

これに対してサリエリは、「オペラのフィナーレは派手にバン!とやるべきだ」と批判をするが、こうした音楽の作為性と純粋性の対比が、サリエリとモーツァルトの差異に現れている。同じくモーツァルトの『魔笛』のアリアには、「感情は愛情だろうか、そうだ、大事なのは愛情だけなのだ…」と歌われる。さまざまな感情の中で、もっとも大事なのは愛情である。


上記『フィガロの結婚』の有名なケルビーノのアリア、「恋とはどんなものかしら(Voi che sapete)」の歌詞は、「恋とはどんなものか、ご存知のあなたが、さあ判断してください。僕がそれを心の中に抱いているかどうかを…」で始まり、同じ歌詞で終わる。これは伯爵夫人への求愛ソング。年端のいかない少年ケルビーノの伯爵夫人への切実な想いが伝わってくる。

ケルビーノの苦悩を代弁するまでもなく、「恋」の本来の意味は、相手に強く引きつけられている思いが満たされず、苦しくつらく思う気持ちであろう。つまるところ、恋の神髄は苦悩にあるといっていい。悩むことこそ恋であり、その思いを何とか満たさんと行為し、努力するところに人生の意義があるのではないか。恋とは人が生きていくうえでの無上の喜びの一つである。

苦しくとも、人を恋する気持ちこそが人生における花である。それほどに恋には計り知れない力がある。昔の人は、「惚れてしまえば千里も一里」といったが、飛行機も新幹線もない時代である。今は電話やネットで世界は縮まっている。恋はまた、人間としての情感を豊かに育んでくれる。恋は一人でできるが、恋愛は二人でするもの。恋と恋愛の違いはそういうこと。

一人でする恋は自己の愉しみだけに終始できるが、恋愛はそうはいかない。なかなか自分だけが愉しむというわけにもいかず、そういうエゴイスティックな人の恋は破綻する。恋愛の基本は、相手を愉しませることに集中すべきである。相手を愉しませても自分が愉しくないと感じるひとは、恋する年齢に達していない。相手の愉しみ=自分の愉しみ(喜び)であらねばならない。

愉しませるといっても、笑わせることではない。安っぽい笑い生む側も提示される側も疲れてしまう。相手が心から愉しむ状況を作り出し、その上に自身の愉しみが築かれていくものだろう。恋をした人に必ず起きるのは、自身の変化である。意識、無意識はあっても、確実に起こる変化が、「恋」の現れでといえる。ただし、人は恋の対象相手の舞台だけに立っていない。

仕事、家族、友人、趣味といった別の世界にありながら、恋の舞台に立つわけだが、恋に熱中するあまり仕事に手がつかない、友人関係もおろそかに、家族にも頓着しなくなるというのはありがちだ。これらの善悪を論じるよりも、それくらいに熱中するものであるなら、自制も必要となる。恋はまた、「闇」といわれ、思慮分別を失い、正誤の判断を誤ることもある。

こういう風に書くと、恋に対する注意書きとなるが、恋する人に注意書きを述べても仕方がない。恋に際してどのように対処するかは、自らが行うもので、友人・知人に相談する人の気持ちも分からぬではないが、恋の相談に他人が的確な返答は無理であろう。他人の考えはあくまでその人間個人の価値観を基準にしており、人の恋路の相談には理性的に答えるのがやっとだろう。

当事者の感情や状況に即して思考しても、下す答えは理性的なものとなる。思いは口に出さなければ伝わらないこともないが、実際、身振り素振りで伝えようとする女はいる。これをどう読むかについて、正しく読むのは難しい。意図的に思わせぶりを愉しむ女もいるからで、愉しむだけなら被害はないが、騙そうとする相手も少なからずいる。気もないのに物を強請る。

自分は物を強請る女は、自分の純粋な意思の発露ができない点において好きではない。「何か欲しいものがある?」と問われての意思表示ならともかくだが、そういう女は決まってこういうセリフを用意する。「好きな人から貰うと嬉しい」。そうであるなら、強請っていいものか?「好きな人から貰って嬉しい」のは主体性という愛情であり、それが物に変わったもの。

強請って買ってもらったものが果たして愛情か?人はともかく自分は違う。女は愛情を物に簡単に変換するが、それは「物が先」というのが根底にある人間で、愛情が先の人間は自身のエゴをしまっておこうとする。愛情はエゴを抑えたものであり、エゴとは愛情を裏切るもの。子どもに勉強しろというのは親のエゴ、勉強するまで口を出さないのが愛情である。

ところが、「そんなこと言わなければいつまでたってもしないじゃない」というセリフを用意するが、親がこに命じるもののほとんどが親のエゴであろう。がしかし、親のエゴであっても吟味し、行為を促すものもある。要は、藪から棒に何でもカンでも命じたりしないこと。こういう風にうるさい母親になると、一言一言の言葉に重みがなくなるので注意されたし。


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