安吾は、「恋愛は人生の花」といった。が、昨日の表題はあえて、「恋愛はこの世の花」とした。「恋愛は人生を彩る花」に対して後者は、「恋愛はこの世の中で存在する事象であり、男女の世界を彩るもの」といういみである。島倉千代子のヒット曲『愛のさざなみ』の冒頭歌詞は、「この世に神様が本当にいるなら、あなたに抱かれてわたしは死にたい」とある。
「あなた」は神様ではなく、神様に抱かれたいでもなく、「神様、どうか彼に愛されますよう願いを叶えて…」の意味である。神様に抱かれるなのキモチわる過ぎる。神様はセックスなんかしないに決まっている。セックスが下賤だからではない。神は崇高であるからだ。崇高であるから、セックスもしない、うんちもしない、屁もコかない、食事もしないということ。
勿論、偶像である。偶像だからこそ崇拝できるのだ。いかに口があり、言葉があっても、狂信的な新興宗教の教祖とはいえ、「自分は神である」と言った人はいない。なぜなら、彼らには下半身があるからだ。下半身を弄ぶ人間の何が教祖ぞ?ということだろう。かつて、「性」を押入れの隅に押しやっていたいた時代、親や教師はそういうことをしないものであった。
子どもに尊敬を抱かせるために、親や教師は白目をむいてセックスしてのたうち回ってはならなかった。だから、親は子どもに性を教えられなかった。学校で性教育の話が持ち上がると、自分ではできない親たちは、「教師がやってくれるならこれ幸い」とばかりにほっと胸をなでおろした。困ったのは教師である。「先生もやってるん?」という問いは必然だ。
「どう答えたらいい」、「どう答えるべき」などというのが当時の教師の実態であったのを知っている。「教師は聖職」という考えはさすがに廃れていたが、それでも子どもたちの前で教師は自己欺瞞を強いられていた。聖職でなくとも、生殖を教えられない。苦心惨憺の結果、「性は子孫を反映させる行為」と教えるのがやっとだった。それでも冷や汗ものである。
生殖の性は、人間以外の動物の営みである。彼らの性は生殖目的以外にないが人間は違う。人間の性教育を生殖目的と偽った時に、コンドームの役割を説明できない。そもそも、学校で性教育を必要とした理由は、エイズ予防、望まぬ妊娠という悲劇を食い止めることだった。コンドームの必要性、有用性を子どもに教える主眼から、学校における性教育ははじまった。
生殖だけに性があるなら、「コンドームは何であるの?」と聞かれて教師は閉口するしかない。つまり、性教育元年において、教師は生徒と水平な関係であらねばならなかった。なぜなら、性の話題は大人と子ども、親と子、教師と生徒を水平の関係に誘うよい教材であるからだ。親も教師もやることは変わらない、その中で親や教師の権威を模索する必要が生まれた。
家が隣で一緒に保育園に通った幼馴染のNが20代の成人になってこんなことを言った。「うちね~、お父さんとお母さんがそういうことをしているって、ショックだったし、思わないようにしてた。でも、妹が、『お姉ちゃん、昨日お母さんの凄い声が聞こえたよ』と言ってくるんよ。聞いてる方が恥ずかしくなるしね。あの子は、ホンとにどうしようもないから…」
確か、10歳以上離れた遅出来の妹で、近所でも評判の、「不良少女」の烙印のあった子だった。小さいころから、「見て、見て」といって、スカートの後ろをまくり上げて男の子(自分も含めて)を喜ばせる、サービス精神に満ちた子であった。「お母さんの声が…」くらい、彼女ならいいそうだが、姉はそういう妹に手を焼いていた。それにしても、親の性がショックとは…
「綺麗な物しか見ない、見たくない」などは、幼児期からクレヨンや多色の色鉛筆を使い、「いかに塗り絵を綺麗に塗るか」という女の子の女の子としての性であろう。男はどうしてあんなにもガサツで汚い塗り絵になるのか?一緒にやっていて、いつもNから見下された。「塗り絵しよう」と言われて、仕方なくやるのだから、ガサツで汚いのは無理からぬこと。
おママゴトだの、塗り絵だの、そんなつまらない遊びに付き合わされた記憶がある。「もう女と遊ぶのは止めた」と、男の子なら当然である。それにしても、塗り絵を色鉛筆を駆使し、薄く見事に塗る女は男から見て天使に思えた。自身の中に潜在する美への憧れ、探求心が、具現化されるものであろう。お姫様やプリンセスや可愛い題材を偶像化する女の子である。
30代にもなって塗り絵に没頭する女がいた。「いい年こいて塗り絵かい?」と部屋に入って驚いたが、少女のまま大人になった(なり切れない?)そんな女だった。題材は子どもの塗り絵とは比較にならない、細かいデテールで、あれはおそらく欲求不満のはけ口、癒し効果があるのだろう。認知症予防になるからと、老人ホーム入居の婆さんが塗り絵をやるらしい。
塗ること自体はシンプルで単純な作業であるが、脳の様々な分野を使って脳を活性化するというが、やはり爺どもに塗り絵は向かない。闘い好きの男には囲碁や将棋の方が向いている。そもそも脳の構造からして違う男と女は別の生き物を実感できることは多いが、言われてみると笑える部分も多い。facebookやblogでより多くの「いいね」や、「ナイス」を嬉しがったり…
細かく分類はされても、基本は他人と自分との比較における、「自己認知」が女の特質のようだ。自分が本当にやりたいことは何か、それを見つけて邁進する男にとって、いちいち他人を気にしていたら自分のやりたいことはできない。卓球の平野美宇の「脱いい子宣言」の決意を聞き、世界という目標を掲げるなら人に好かれようなどは止めて孤軍奮闘で頑張るべきかと。
アスリートという種族は、目的とするものが大きいほど自制心も必要になる。体脂肪10%以下、サッカーのカズやバスケの田臥の節制は気が遠くなるほどだ。「ここ何年も、とんかつや揚げ物などのカロリーが高いものは口にしていません」。当然と言えば当然である。そもそも脂肪というのは肉布団を羽織っているようなもので、体脂肪増加は身体のキレが悪くなる。
飽食時代において一般人は節制が難しく、「食」という娯楽は至難である。ゆえに節制をしないでダイエットで後手を引く。そのダイエットが続かないのは、甘いものの誘惑だ。甘いものを止められない人は、摂る時間帯に留意すること。体内には脂肪細胞に脂肪をため込む働きをするたんぱく質があり、なぜか1日のうち明るい時間帯、午後3時前後に最も分泌が少なくなる。
したがって、「3時のおやつ」は理に適っている。最近、スーパーなどで甘酒が目立つと思っていたら、テレビで、「ダイエットにいい」と報じられたという。甘いものがダイエットにいいというのは、どう見ても話し半分で、メーカーが仕込んで書き込みをさせている部分もあろう。例えば人間は、ジョギングなどの運動などで疲労すると甘いものを脳が要求する。
そこでコーラやジュースなどを飲むとどうなる?糖質を摂ると血糖値が上がり、血糖値を下げるためにインスリンが分泌される。このインスリンの分泌がポイントとなる。インスリンは糖質を脂肪に変えてしまう一方、脂肪分解を抑制する働きがある。したがって、インスリンの分泌量が増えると太りやすくなる。カロリー制限しても痩せないのはこういうこと。
インスリンは24時間休みなく少量ずつ基礎分泌され、さらに食事で糖質を摂ることで基礎分泌の何十倍ものインスリンが追加分泌され、脂肪蓄積を促そうとする。よって痩せるにはここがポイント。3大栄養素(糖質、脂質、たんぱく質)の中で血糖値を上げるのは糖質だけ。そして、インスリンの追加分泌が行われないと、体脂肪の分解がノンストップで続くのです。
つまり、糖質を制限するとインスリンの追加分泌が抑えられて、ダイエット効果が期待できる。これが巷で言われる糖質制限ダイエットである。糖質制限ダイエットでやることはシンプルで、要は糖質が多い食品を知り、それを食べるのを抑えればいいわけだ。先の、「甘酒はダイエットにいい」ではないが、「ダイエットにいい」の文言を誤解する人は多い。
目の前の甘酒を飲むと飲まないとどちらがいい?当たり前に飲まない方がいいが、飲む方がダイエットに効果があると勘違いをする。「ダイエットにいい」の言葉の真意は、ショートケーキやチョコレートを食べるよりは甘酒一杯にしなさいであって、ケーキやチョコを食べて甘酒を飲むのがいいのではない。あくまで甘酒はケーキやチョコの代わりということ。
食べないで痩せようとするのが厳禁の理由は、脂肪が落ちる前に筋肉が落ちてしまうからで、たんぱく質を多く摂り、基礎代謝を上げることだ。ダイエットをする人は、これくらいの基礎は誰でも知っているが、続かない理由は最後は意思の問題。ライザップで50万かけたが、痩せた期間が6か月では一時の自己満足である。CMに起用されてもリバウンドした芸能人も多い。
などと、書いた後で笑ってしまった。本日は表題を書いて記事を書いたが、「ダイエットは人生の花」状態。こじつけるわけではないが、恋愛願望女性にダイエットは必須。付き合い始めはポチャで可愛かったのにどんどん痩せて、胸もしぼんだ女性がいた。まだ女心が分からず、「前の方がいい」などと不満を言い続けた自分は彼女を傷つけた。遅いがあん時は「ゴメン」。