「過去と未来」ではなく、「回想と未来」にした理由は、「過去」が所有する範囲があまりに多すぎるからで、「回想」なら自身の周辺や人生に特化した範囲で語ることができる。正しくは、「過去の回想」かも知れない。『回想録』なる書物がある。想うだけでなく書き置く以上は記録に分類される。過去の日記とは違って、その都度書き留めていたものではない。
日記は時々の出来事をその時点で書き置いているわけだから、数十年前の事柄をその時点で記憶を呼び戻す「回想」に比べ、正確さや資料的な点において日記の方が正確だろう。かつて自分は日記を書いていた。夏休みの宿題の絵日記ではない。かといって、文房具店などで売っている、「日記帳」というものでもない。自分用の小さな手帳に1ミリくらいの文字で書いた。
「日記を書いた」という改まった言い方でなく、おもむろに付けていた感じ。あったことの記録を付けるだけでなく、出来事についての主観や分析から啓発する内容だった。感傷に酔って埋没するような日記は好きでなかった。人一倍好奇心が強く、感受性が極めて高い自分は感傷的になりやすいところがあった。センチメンタリズムを、「美しい」と感じた時期もある。
が、ある時期を境に、「感傷に浸るのは自身の敵」と考えるようになり、同時にセンチメンタリズムを、「美しい」と思わなくなった。おそらく付き合ったある一人の女性の、あまりの感傷的な態度・仕草に嫌気が差したのかも知れない。例えばペットが死んだことについて話せば、それはもうこの世で自分が一番不幸であるかのような語り口になり、聞くのが疲れてしまう。
「おセンチ」という言い方がある。おセンチとは感傷的な、情緒的な、涙もろいを示す意味の英語「sentimental(センチメンタル)」を略したもの。最近はあまり聞かなくなったが、「おセンチな彼女」、「おセンチな少女」などといった。「おセンチな少年」、「おセンチな男」という言葉はなく、したがって自分が、「おセンチ」であるのは男として恥でもあった。
考えてみると、「〇〇ねばならならない」、「〇〇であるべき」という言葉は昔は多かった。「男は強くなければならない」、「男は逞しくあるべき」、「女は気が利く方がいい」、「愛想なき女は女じゃない」。さらには、赤は女の色。男が赤い靴下など履くものじゃないというのもあった。だからか、ランドセルは赤と黒しかなく、赤が女子、黒は男子が定番だった。
他人のことをあれこれ言わない妻がある日、こんなことを口にした。「〇〇さん(我が家の長男と同級生の男子)は、お姉ちゃんのおさがりの赤いランドセルを使ってるけど、ちょっとビックリ…」。その話には自分もビックリだったが、〇○の父は自分と小中高の同級生だった。名は賢治であるが、あだ名は、「ガタケン」といい、みんな彼をそう呼んでいた。
誰がつけたか、「ガタケン」の意味は、「ガタがきている=壊れる一歩手前状態」であり、かなり侮辱的なニックネームである。同じ同級生で、「ゼロたん」と呼ばれたHは、0点ばかりとっいたことに由来する。「おケツ」のあだ名のAは、屁ばかりコいていたからだ。ほとんどのあだ名は近所の先輩から受け継がれたもので、あだ名で呼び合うことが常態化していた。
「姉のおさがりの赤いランドセルを嫌がらない躾をしたんだろう」。少し間をおいて自分の考えを妻に述べたが、本音は違っていた。そこまでする躾に異論があったが、父親は恥も外聞も気にしない徹底した変わり者であるのを知っていた。家が極度に貧しく、成人してからも家賃があまりに安いからと、スラムのような汚い家に住んでいた。貧困が沁みついているのだろう。
ガタケンの意味は一家が壊れそうなくらいにガタガタという意味だったかも知れない。「一億総中流」といわれた高度経済成長期においても、貧困者と中流家庭の差は歴然とし、それは衣服などに顕著だったし、彼はツギだらけの服を当たり前に着ていた。男が赤いランドセルだからといじめに合うことはなかったし、そういう配力は昔の学校はなされていた。
姉の赤いランドセルを与えられて卑屈にならない彼は、将来どういう大人になるのかを期待する点もあった。父は写真に興味があったようで、高校は写真部に在籍、卒業するとカメラ店に就職し、地道に勤めていたが、店が廃業し、しばらくガソリンスタンドで働いていた。後のクラス会の席で彼が、「『お前がDPE点は廃る」と言ったのが忘れられん」と言ってきた。
自分は早くからビデオカメラや動画に触発されていたので、「もうカメラの時代じゃない」みたいなことは言ったのだろうが記憶はない。言った側より、言われた側は覚えているものだ。動画全盛の昨今だが、静止画カメラの需要が全くないわけでないが、フィルムは廃れた。焼付・現像よりデジタル画像はその場で楽しめる。そういえば、すぐに見れるポラロイドカメラも廃れた。
50年前に誰が今の世を予測できたであろうか。多くの物が流行り、廃れていった。世界をあっと驚かせたユリ・ゲラーのスプーン曲げは世界を震撼させたし、日本人だけを煙に巻いたミスター・マリックの超魔術もである。スプーンを曲げることが世の何かに寄与するわけでも、尊い価値があるわけでもないが、それだけで御殿を建てたのだからゲラーは立派である。
ゲイツやジョブズとちがって起業家ではないが、稀代の詐欺師として名を残している。詐欺師の多くは法に触れたり収監されたりだが、ゲラーは違法なことは何もやっていない。2000億円にものぼる詐欺事件を起こし、殺害された豊田商事の永野一男会長は中学卒業後、トヨタ自動車に勤務、社名を、「豊田商事」としたのは、トヨタ系列と錯覚させるためだった。
また、1000億円詐欺で起訴された、「法の華三法行」の福永法源は、懲役12年の刑期を終えて出所した。早速、『ひとり野に咲く花』ホームページを立ち上げ、「福永法源写真集『追憶の情景』」を刊行するなど、ナルシストぶりは相も変わらず。「法源ブログ」に精を出すのをみても、未だ冷めあらぬ信者もいたりである。こういう人は、生ある限り大人しくはしない人だ。
懲りぬは信者なりけりであろう。ミスターマリックも日本人をアッと驚かせたが、彼はユリ・ゲラーの"超能力"番組を見たのが超魔術を編み出すきっかけになったという。ゲラーの超能力はアメリカの有名なマジシャンであるジェームス・ランディが全て解き明かし、ゲラーと対決を望んだものの、ゲラーはランディの前で超能力を発揮することはできなかった。
また、ゲラーの超能力を辛辣に批判する、「サイコップ委員会」に対して訴訟を起こすも、和解を提示されたゲラーは、「軽薄な告発」の賠償としてサイコップ側に対し12万ドルの賠償金を支払っている。その後は、日本に活動場所を移動し、日産自動車のCMに出たり、番組でスプーン曲げを行うなど、優しい日本人と日本のマスコミに親近感を抱いていたようだ。
それでも絶対に曲げられないスプーンの登場で、今はもうスプーン曲げなどやっても誰も目もくれない時代である。ブームとは何か?ブームと流行はどう違うのか?難しい理屈はともかく、サッカーブーム、スピリチュアル・ブームというが、今年はインフルエンザがブームといわない。インフルは流行である。そのニュアンスからブームと流行の違いを感じればいいかと。
一時のスピリチュアルブームも華々しかったが、テレビ局の自粛は総務省の指導であり、今後も番組として成立はしない。ブームの時流にのって多くのスピリチュアリストが登場したのはブームに便乗したからに過ぎない。ブームが去っても信念を貫くリストはいるが、さっと手の平を返したかのように、今度はスピ批判をメシのタネにするなど、節操のない人もいたりする。
この手のものに惑わされたり、振り回されたりしないためにどうすればいいか?何も自分が語らずとも、ネットにはいろいろ書かれている。がしかし、ブームに便乗して恥をかくのは信者側も同様であって、あの勢いや熱心さ、それに蓄えた知識は今後の彼らの人生の糧になるのであろうか?それとも笑い話と一瞥するのか?無関心な世間の中で立ち位置はない。
自ら信じることを変えるのは自己の否定になるのでできないという人はいる。自己否定は新たな自分を作るために有用だ。宗教の改宗が大変なのは、改宗者の言葉を聞くと分かる。「信じる者は救われる」というのは、善意な人間を圧迫する言葉である。10000円のおそなえより、100万円出す方が深い信仰のあらわれ、などと言われると、同じ信者なら100万出さねばの気になる。
「いや、自分は1000円程度の信者でいい。それで十分!」という気には、なかなかどうしてなれないらしい。どうせ信者なら10000より100万の信者でいたいということになる。こういうことを自分は愚の骨頂、バカげた張り合いと考える。誰もが自身と格闘し、あげく無理をし、破滅する。して、ご利益はない。これはアーチストに対するファン心理と似ているところがある。
自分自身と格闘する点に於いて。あるアーチストのファンである濃度を測るのは、そのアーチストの公演に誰よりもたくさん出かけるCDも買う、本やグッズを買う、それをすることが自らに対するファンの証という自己満足である。自己満足である以上、他人があれこれいう必要はない。人は自らの価値に沿って生きればいいのであるが、問題なのは孤立であろう。
人と考えが合わないから孤立ではなく、孤立を自由という観点から実行するのはいい。集団に属せば、その空気に飲まれて意に反して挙手をすることにもなる。自分が信じるものは自己のためであって、あまり他人に披露しない方がいい。よしんば披露する場合は、批判を受け入れる覚悟がいる。批判を超えた非難や攻撃に耐えられるだけの度量があるならいいが…
ただ、自己主張をしたいだけのために持論を披露する人がいるが、これは対話の精神に合致しない。視野が狭く、頑固で柔軟性はない、一神教の信者のような人は、同じ考えの人とスクラムを組むのがいい。異なる価値観を持つなら、同時に異な価値観を受け入れる度量も必要。つまり、他の人の意見を耳を傾ける際は、自分の考えや概念などは横に置くことだ。