自分が誰を好きで誰が嫌いか、を分からない人はいないだろうが、いるとすれば人として壊れている。ただ、物事を曖昧にする人はいる。物事を曖昧にする人は、争いを好まぬ人。嫌いな人間に表立った物言いをせず、態度もみせず、曖昧にすれば人間関係の火種とはならないということだろうが、若い時分にはこういう人間が不思議で仕方がなかった。
ならばと、「自分のことはどうだ?自分を好きなのか?」と聞けば、自分のことは好きだという。いいながらも彼は、心の中では自身を嫌悪しているようでもある。こういうのを屈折した心情という。さらに屈折した心理を「倒錯」というが、『群青の夜の羽毛布』のさとるのような、心の底では憎んでいるにもかかわらず、母を好きだと思い込もうとする人は結構いる。
心理の根底にあるのは依存心。さとるの母もそのことを分かっているから、「あの娘は私がいなきゃダメなのよ」などという。もう一つ、自分の気持ちに正直に向き合うのが怖いという心理状態。こういう相手も幾人か経験したが、自らが感じているように感じることは、心の弱き人にとっては難しいようだ。だから、実際に感じてることから眼を背けようとする。
受験に失敗した人が失望感から眼を背け、それに手を貸す人に惹かれていくほどに人間はメンタルな生き物である。そこに乗じて利用されたり、洗脳されたりする。オウム事件を回想して解るのは、人間は付き合う相手を間違わなければ基本的な間違いを起こさないが、相手が健全か否かの判断は難しい。まして失望感を抱いている場合はさらなりで、相手次第で人生を棒にふる。
物事の考え方が健全な人の見分け方はいろいろあるが、最も重視することは、心が不健康な人は、相手が自分のために犠牲を払うと喜ぶ。それを愛と錯覚するからだろうが、相手の利益のために利用されているのに気づかない。心の健康な人は相手が自分のために犠牲を払うことさえ拒む。相手は自分のためにではなく、相手自身のために生きて欲しいと願うからだ。
これを恋愛関係に当て嵌めてみるとわかる。愛とエゴは紙一重というが、愛とエゴの違いをハッキリ区別できるのが健全な人。恋愛に限らず家庭内の親子関係においても、健全な親は子どもの人生を操作しない。親子は幼少期の依存関係を経て、学童期~青春期となるが、それに合わせて成長しない親はエゴイストになる。人間はだれも欲で、傲慢で、自己中である。
ゆえに格闘しなければそうした、「業」から抜けれない。物事は簡単でなく、ゆえに深く考えることで正しい、間違いが判別できる。「理性」とは冷静な視点であり、冷静な視点とは現実的な視点である。視点にも区別があり、直観的視点と客観的視点があって、それらを臨機応変、使いわけれる様にできている。いうまでもない、「感情」とは熱い視点のことをいう。
ある女が、「読んで欲しい。映画も観て!」薦められて読んだのが、『冷静と情熱のあいだ』という文庫本。ついでに映画も観た。推められたのは20年も前に付き合った女で、「こんな風に会えたらいいね」などとまどろこしい言い方は、いかにも女の情緒である。前置きはどうでも会いたきゃ会えばいいが、率直な男と違って女は物語のヒロインを演出したいのだろう。
結婚式の煌びやかなクサイ演出に感動するようにである。それにしても、人に薦められた読み物でいいと思ったものがない。やはり相手の、「いい」は、自分の、「いい」とは別物である。自分の読みたいものが自分に合っている。だから、自分も「お知らせ」程度にし、人には薦めないようにしている。昔は違った。自分の、「いい」は人も、「いい」と思っていた。
人は経年で変っていくが、それこそが成長のたまものだ。人間を理解するも成長である。人間理解とは、他人は自分でないこと。そこの境界をハッキリさせること。「自分が嫌い」という人は問題と言われる。「自分が嫌い」であるなら、他人を好きにはなれないからだ。自分の嫌な部分は誰にもあるが、自分の全部が嫌いという、全否定と部分否定は別である。
他人と話したりのとき、無意識に自分の意地悪な部分が出てくるときがある、「何て嫌な奴だ!」と自らに思うことがある。なぜに人間は意地悪なのか?自分の場合、意地悪を言ったりしたりが面白いからだ。冗談交じりのシュチエーションで意地悪を楽しむが、それで相手を傷つけることがある。まさか、これで傷つくとは思わずの結果に対し、悔いるしかない。
多くの人の意地悪もそうではないだろうか?しかし、現実には本当に、「底意地の悪い」人間もいる。典型的なのは嫁に対する姑の意地悪だが、逆もあるのだろうか?実際は姑の立場が強いから、姑の意地悪が横行する。親と子の年齢差が子より親が偉いと同じように、姑はその年齢差において嫁より偉いのか?他家がどうであれ我が家ではこれはバカげたこと。
なぜなら、母と息子は息子が上位で、従えぬなら我がファミリーから退場してもらう。のようなことを言っては見たものの、そんな考えに盲従するはずがない。姑は姑の生きた時代を基準に物事を思考し、思考だけならいいが押し付ける。世の中に「老害」と揶揄される人がいるように、昔のことを基準に物を言う人、古い考えを押し付ける人は迷惑でしかない。
若者の邪魔をするとしか思えないが、そういう人たちは邪魔をしているなど思ってもいない。変に遠慮したり、気を使うよりも、邪魔は邪魔だとハッキリ言って分からせた方がいい。言っても分からないほどに硬い頭なら、せめて自分たちは邪魔なのだと、それくらいは分かってもらい、大人しくしてもらう方がいい。それをのけ者にされたと憤慨する人もいよう。
そういう親はそういう性格であってそういう性格に問題があるわけで、いじけた人には自己教育力をもって修正してもらうしかない。会議や話し合いで、相手の意見を批判していじけるのと同じことだろう。それを親に対してヒドイ扱いをする息子だなどといわれたくはない。こちらから見れば障害である。老害と名指しされた人も、自らが自らを改めるしかないようにだ。
「情」とは相手に媚びたり、遠慮したりではないと考える。人と人との、「情」は大事だが、むしろ、「情」とは、人間社会の道徳を悪い方向に下がらないよう維持するべきであろう。「情」の悪い面をキチンと正しく考えるのも、人間の頭の良さである。「情」という美しい言葉にほだされ、「情」を美化するあまりに、「情」を断ち切れず人生を台無しにする人もいる。
「多情淫奔(たじょういんぽん)」という言葉も死語になったが、誰にもカレにも情を抱き、すぐに体を許す女のこと。昔、近所にいたし、男はその女のところに押し寄せたというが、いかなる男と飽くことなき性を楽しむという、病的なまでに下半身の緩い女は、「情」を捨てて商売に徹した方がまだしも利口である。昨今にあっては性に目覚めた中高生に傾向をみる。
婚姻者の不倫大ブームの背景には、双方がやりたい相手を選ばない、抑制もしないという社会に移行しつつある。それが離婚に至る程度なら自己責任の範疇だが、一夫一婦制という社会制度が困難という問題に突き当たれば、制度改変も検討されるべきだ。異性との不法行為が離婚に至る昨今の現状は、結婚そのものがゲーム化しているように感じられる。
断定するわけではないが、様々なゲームが流行る時代には、大切なことすらゲーム感覚で捉えるようになるのかも知れない。菊池寛作、『藤十郎の恋』の濡れ場面、藤十郎に言い寄られて苦慮の末に行燈の火を消したお梶だった。途端に藤十郎は、立ち上がり部屋を出る。藤十郎の芸の肥やしに利用されたと知ったお梶は、己の淫らな行為を恥、翌日首を吊って死を遂げた。
名場面の台詞。「この藤十郎も、人妻に恋をしかけるような非道な事は、なすまじいと、明暮燃え熾る心をじっと抑えて来たのじゃが、われらも今年四十五じゃ、人間の定命はもう近い。これ程の恋を――二十年来偲びに偲んだこれ程の想を、この世で一言も打ち明けいで、いつの世誰にか語るべきと、思うに付けても、物狂わしゅうなるまでに、心が擾(みだれ)申して、かくの有様じゃ。
のう、お梶どの、藤十郎をあわれと思召しめさば、たった一言情ある言葉を、なあ…」。と、藤十郎は狂うばかりに身悶えしながら、女の近くへ身をすり寄せている。ただ恋に狂うているはずの、彼の瞳ばかりは、刃(やいば)のように澄みきっていた。余りの激動に堪えかねたのであろう、お梶は、「わっ」と、泣き俯してしまった。
闇の中に取残されたお梶は、人間の女性が受けた最も皮肉な残酷な辱しめを受けて、闇の中に石のように、突立っていた。悪戯としては、命取りの悪戯であった。侮辱としては、この世に二つとはあるまじい侮辱であった。が、お梶は、藤十郎からこれ程の悪戯や侮辱を受くるいわれを、どうしても考え出せないのに苦しんだ。
それと共に、この恐ろしい誘惑の為に、自分の操を捨てようとした――否、殆ど捨ててしまった罪の恐ろしさに、彼女は腸(はらわた)をずたずたに切られるようであった」。名作である。命を懸けた人妻の恋に感動、だから名作というではなく、これほどに人間の情念、本質の心理描写である。「恥の文化」が切実に感じられた時代は、今に思えば遠きいにしえか…