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価値についての考察 ①

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価値とは、或るものを他のものよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の肉体的、精神的欲求を満たす性質、あるいは、真・善・美・愛・仁など人間社会の存続にプラスの普遍性をもつと考えられる概念の総称とある。したがって、価値観とは善・悪、好ましいこと・好ましくないこと、といった価値を判断するときの、根底となるものの見方や尺度をいう。

解り易くいうなら何が大事で何が大事でないかという判断、物事の優先順位づけ、物事の重み付けの体系のこと。「哲学的価値」という考えは多少難解だが、値打ちの吟味と考えればよい。「真の価値」、「善の価値」、「美の価値」、「愛の価値」、「仁の価値」については、さまざまな事象が具体例として指摘できるが、価値の本体は物質自体にあるものなのか?

ダイヤモンドは美しい光を放つ宝石として最高価値を持つが、原石はただの石で、加工技術を経て価値あるものにする。とはいえども、ダイヤモンド自体に絶対価値があるかと言えばそうも言えない。飢饉で食物難の地域にダイヤモンドを贈るバカはいないし、パンやおはぎの方が断然喜ばれる。人は水や食べ物がなければ死ぬが、ダイヤがなくて死ぬことはない。

つまり、ダイヤの価値はどういうものかを人は考えられる。将棋に、「一歩千金」という格言がある。将棋を指す者は誰でも経験するだろうが、「金」という価値の高い駒より、もっとも価値の低い「歩」の方が価値の高い局面は随所に現れる。さらに、「飛車」や「角」という価値の高い駒より、「歩」が高い価値を持つ場合もあるが、駒の価値自体がが相対的であることを示す。

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ダイヤモンドでさえ絶対的価値はないし、将棋の駒にも絶対価値はない。となると、他の例で思考してみる。容姿端麗である美人は、どれだけバカでも社会的価値が高い。市場価値ともいえるが、CM出演などに需要が高い。普通のOLが、20年、30年かかっても稼げない金額を、CM一本で稼いでしまうのは、「美」という価値に対し、社会の市場価値が高いということ。

価値は無限という言い方をするが、確かに価値観の対象となるものは人間の周囲のほとんどに該当する。食、家事、洋服、居住場所やスタイル、生活習慣、趣味、同性・異性関係、子育て、金銭感覚、イベントなど、あげればキリがない。金銭や生活に関しての価値観は人によって違ってくる。違う家庭に生まれ、違う環境で育てば、価値観が一緒ということはあり得ない。

他人同士の男女が出会った後、共に生活を営む結婚や同棲には良い面も少なくないが、様々な軋轢のを生むのも事実である。つまり、「結婚」に対する価値観は、生物学的観点から見ても、男性と女性では決して分かり合えないだろうと言われる。確かに、親兄弟ですら微妙に違うのに、生まれ育ちが別々の異性であれば、ささいなずれや溝が生まれるのは当たり前のこと。

「価値観の相違は必然」という前提なら、さて、それでどうするかとなるが、そもそも他人と付き合うというのは、「価値観が異なる者同士が、互いに影響を与え、影響を受けながら、二人の生活をみつけていくもの」と考えればよい。自分はこうだから、相手もこうであるべきと考えるのは間違い。男女の場合は物の考えに性差的なズレが生じることも多い。

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そこでどうする?そうした違いを埋めるには、とにかくお互いの価値観を見せ合い、披露しあって歩み寄るしかない。「歩み寄る」というのは、「妥協する」ことでもあり、妥協とは話し合いによってもたらされる。この『三段論法』がまずはなされるべきで、それでも妥協にいたらない、解決できない場合はどうするか?喧嘩をするしかない。言い合いも喧嘩のうちだ。

自分の気持ちを素直にぶつけ合うのは悪い事ではないが、犬の見ている前で丁々発止、やり合えばよい。ただし硬いものを相手めがけて投げつけたり、刃物を持ったり、相手の肉体を傷つけるのはよくない。理由は、犯罪であるからだ。昔は黙認されたが、昨今は精神を傷つけることも犯罪となる。人間は心身でできているから、身も心も傷つけてはならない。

ペットのワンちゃんにに静観されながら夫婦は喧嘩をし、ほとぼりが冷めたらSEXしてまた仲良くすればいい。「子は鎹(かすがい)」という言葉があるが、「セックスは男女の鎹」である。男の自分がいうのではなく、山本文緒も同じようなことを言っていた。精神的にも肉体的にも相手を受け入れるのが愛情の形である。肉体的に受け入れるのは女の側の形であろう。

面白い言い方をする女がいた。男からすれば、「入れる」というのが自然な発想で、だから女は、「入れられる」という風に思っていたが、その女は、「入れられるというより、男の人を包む感じ」と言った。そんな言葉は、その手の小説の表現に眼にしたこともなく、別の女から聞いたこともなく、後にも先にもその女独自の表現だが、時々その女のその言葉を思い出す。

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「男を包む」という彼女の価値観はどういうものなのか。女性は受け身ではないという強烈な自己主張なのか、それとも途方もない女の包容力のなせるワザなのか、彼女の日常の生活態度や言動から真意を探ったが、真意は分からず仕舞いだった。あまり長く続かなかったからだ。山本文緒は、男女に普遍的な愛はなくとも、瞬間的な愛は間違いなく存在するという。

一見、普遍的に見える老齢夫婦は、努力と理解の賜物であろう。努力も理解も愛情というなら否定はしないが、愛情を絶やさぬための一方法ではないかと。経年で愛情が増すという夫婦はいる。その背景には互いの理解が深まったと考える。それを愛情という言葉を別の言葉に置き換えて、「信頼」と呼んでみる。我々ははや人生の半分を悠に消化し、超えている。

経年で物の見方も多元的で冷静になり、人間理解が深まる。それくらいに人間は多面的である。愛情を形にするのが、「贈り物」だといわんばかりのCMがあった。それも山本のいう瞬間的な愛である。商業主義のコピーに惑わされることなく、普遍的な愛を模索するとき、愛情の真の形が「信頼」であることに気づく。愛情とエゴの差異は難しいが、「信頼」に嘘はない。

「愛情とは信頼」を実感できれば、その人は愛を把握したことになろう。では、信頼というのはどう培われるものか?先ずは第一に、人を信頼する場合、対象(相手)を知っているというのが前提であろう。顔を知っている、存在を知っている程度の、「知る」ではなく、相手のいろいろなことを知るということ。それにはある程度の知識もいるし、経験もいる。

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知識とはある事象における人間理解についての基礎知識。そうした知識は書物からでも得られるが、主に体験から得られる。あまり相手を知らないのに、信頼して騙される人は多い。セールスマンから、「わたしを信頼してください」といわれ、それで信頼するのは、騙す側の罪より騙される側の罪と自分は思っている。なぜなら、騙された側は言って行くところがない。

ガラクタを何百万で購入させられた責任を追及でき、そっくりお金が返ってくるならまだしも、泣き寝入りの責任は自ら負うしかない。それが嫌なら安易に人を信頼しないことだ。所詮は、いい人ぶりたい人にこういうことが起こりやすい。騙そうとする人間は、騙すようには見えないが、相手の善意を利用するので、こちらが善人にならず、むしろ嫌われる方が利口である。

「知る」ということは客観的な事柄であることを念頭においた方がいい。そうすれば、「振り込み詐欺」も防止できる。相手の声や話の内容の主観的な判断は危うい。せめてその程度の知識は必要。主観的な人は月を見ても涙を流す。月を見るというのは純粋に客観的ことなのに、涙がでるのは主観的情緒に溺れている。詩的で悪い事ではないけれども…

その人にとっては夜空に浮かぶ月の価値が、他の人よりも多いということだから、感受性の高さという評価はできる。ただし、月をただの月と捉えることも大事なことである。日常生活の中でも、客観的事実に自身の主観を混ぜていることは多い。そういう人が自分の考えにない意見に触れ合うとき、自身の主観的矮小さに気づくことになるが、それを認めたくない人もいる。

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そういう人は権威的な人にはひれ伏すがゆえに、それがセールスマンであればケツの毛まで抜かれてしまう。権威に弱い人は自信のない人が多い。権威を欲しがる人も自信を失った人に多い。権威は虎の子であるが、所詮は虎の毛皮を被って生きることになる。人間の本当の強さとは雑草の強さ、生身の強さである。エリートが脆弱なのは虎の子を被っているからだ。

確かに指導的立場にある人は権威を必要とする。宗教の教祖のしかり、教員しかり、権威なき指導者が人を指導するのは至難である。昨今は父親の権威がないといわれる。母親に権威が委譲されている。「厳父慈母」という言葉が喪失した時代にも家庭に威厳は必要だが、母親の権威が問題であるのは、男の子が成長するにつれ、バカの雄叫びに見える事。


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