悪妻という響きは世の妻にどのように受け止められるのだろうか?「わたしには当てはまらない」、「関係ないわ」あるいは、「わたしもじゅうぶん悪妻かも」あるいは、「悪妻ってなんなの?よくわからない」などなど…、男の側からの想像だ。確かに悪妻が何を定義するかは人それぞれではないか。良妻の定義もである。要するに、「良悪」は主観であるということ。
「あの映画は良かった」、「あの子は悪い子だ」、「彼女は良い性格だ」、「なんという性悪女」などは、万人に共通・共有の概念を持たない。例えば、『群青の夜の羽毛布』でいえば、あの映画はイライラしながら観ていたが、母に従順な姉より親に是々非々な考えの妹の方がずっと良い人間に感じる自分だった。姉と妹で浮かぶのが、「南幌町家族殺害事件」である。
2014年10月1日に北海道空知郡南幌町で発生した、女子高生が母親と祖母を殺害した事件である。事件のあらましは、同日深夜1時頃、地元の薬局に勤める長女が帰宅した際に、1階の寝室で母親が、2階の寝室で母方の祖母が寝間着姿のまま死亡しているのを発見した。母親は喉仏から頸動脈まで切り裂かれ、祖母は頭と胸を中心に7か所刺された状況で発見された。
二人とも失血性ショック死だった。警察の事情聴取に三女は、「寝ていたのでわからない」と答えたが、のちに犯行を認めた。凶器は台所の包丁で、軍手や衣類とともに、自宅から5km離れた公園内の小川で発見された。この証拠隠滅には長女も関わっていた。次女は同家に同居していない。父と祖母の折り合いが悪くなり、両親の離婚に伴いし、次女は父と共に家を出た。
取り調べに対し、三女は犯行の動機を、「しつけが厳しく、逃れたくて殺した」と述べていた。長女によると祖母は、「子どもは一人でいい。犬猫みたいで嫌だ」と言い、三女が泣くと口から頭までガムテープで巻くなど虐待を続け、母親はそれを黙認するだけだった。三女は就学前の2004年2月、祖母に足をかけられて頭に重傷を負い、救急車で病院に運ばれた。
このとき児童相談所が、「三女に虐待の疑いがある」と判断し、一時は保護したが、母親が迎えに来て自宅に戻された。床下の収納部分に閉じ込められたり、冬でも裸で外に出されて水をかけられるなど、三女への虐待は一層深刻化し、生ゴミを食べさせられていたと長女は証言した。長女と三女は、祖母と母はこの世からいなくなったらなどの妄想話をしていたという。
三女は供述調書で、姉も(祖母を殺害したいという)同じ気持ちであることを知ったが、長女が交際男性との同居を望んだときに祖母から罵られ、「祖母がいなくなればいい」という言葉が三女の決意を後押しした。事件前に三女は友人に、「自分とお姉ちゃんの自由のため」と、祖母と母の殺害の意思を伝えたという。犯行は姉と三女が計画し、姉は睡眠導入剤とゴム手袋を提供した。
事件の詳細が明らかになるにつれ、自分はこの姉に憤りを感じた。事件後三女の同級生の親らが減刑のための署名を1万以上集め、同年11月に札幌地方検察庁に提出したことも影響もあったと思われるが、家裁送致された三女は2015年1月、札幌家裁で責任能力を認めた上で被害者による虐待が動機に影響しているとされ、医療少年院送致とする保護処分を決定した。
殺害計画に加わったことで殺人幇助の罪に問われた長女の裁判員裁判は、2016年2月に札幌地裁で行なわれたが、懲役4年の求刑に対し、「子どものころに虐待というべき日常生活を余儀なくされた影響が大きい」として、懲役3年・執行猶予5年が言い渡された。長女の用意した睡眠薬やゴム手袋は、「実際の殺害行為を助けるものではなく、目に見えた効果は少ない」とされた。
こういう見解は到底納得できない。裁判員の判断には驚かされた。刑法62条1項(幇助)の規定は、正犯を幇助した者は、従犯とする。刑法63条(従犯減軽)の規定は、従犯の刑は、正犯の刑を減軽するとあるが、いみじくも、法の規定は人間を正しく裁かないもののようだ。本件のもどかしさは法が人間を規定することにある。自分は長女を刑罰を重くすべきといってるのではない。
懲役3年・執行猶予5年が妥当ならそれでいいが、長女を、「殺害行為を助けるものではなく、目に見えた効果は少ない」との文言は、到底人間理解に及んでいない。三女の心情や気持ちが反映されていない。が、法はあくまで行為者を裁くものだ。たとえ姉にそそのかされたにせよ、行為者が罰せられる。虚しい…。家族ってなんだ?兄弟・姉妹って、何なのだ?
当時、長女は23歳、三女は17歳である。祖母と母の死体は長女が発見して110番した(ことになっている)。駆け付けた栗山署員に対して三女は、「(敷地内の)離れで寝ていて気づかなかった」と話す(ことになっていた)。祖母と母は1階と2階の部屋にそれぞれ倒れており、室内には荒らされたような形跡があった(ということは)、物取りの犯行に見せかけた計画である。
姉の行為は妹の犯行を隠匿するため、姉自身が考え出した計略だろうが、23歳の姉の方策は、あまりにマンガである。妹は姉の指示に従うも、問い詰められて犯行を自供した。凶器の包丁は自宅から約5キロ離れた公園の中で見つかったのは姉の工作だ。姉は午前1時頃に自宅に帰って祖母と母を発見したというが、これは嘘で、臆病姉は怖くてどこか隠れていたと見る。
睡眠導入剤とゴム手袋を用意し、凶器を5km先の公園に隠した後に、物取りに見せかけたアリバイ工作を妹に伝授、何食わぬ顔で死体を発見して110番をするのが姉の担当である。妹は祖母は頭と胸を7か所刺し、母親の喉仏から頸動脈まで切り裂く役目である。犯行の悲惨さは、まさに狂気としかいいようがないが、憎悪が人を狂気に駆り立てる。他者がどれだけ理解できよう。
こうまでした理由、自分にはよく分かる。ただ、犯罪を至らしめる人間をどうすれば抑止できるかも経験上知っている。盗みや万引きとは訳が違う。祖母と母親という近親者二名を殺す凶悪犯罪だが、自分にはそうは映らない。人間は本質的には受け入れられないことでも、表面上は受け入れたかの生活をする。そこに気づかぬ祖母や母親が、気づくこともなく葬られたということ。
「バカは本当に、死ななければ直らない」ものである。どれほど相手に苦痛を与えていたか、そういう想像力すら考えない人間の悲劇といって、決して言い過ぎではなかろう。友達に宛てた、「自分とお姉ちゃんの自由のため」という言葉がいたわしい。姉が入れ知恵をして犯罪の隠匿を図ったものの、妹の純粋な心は隠匿など望むべくもなかったと自分は察する。
そのような大罪を妹に行為させんとする姉、せめて妹のために自分はできるだけのことをやったと、いわんばかりの茶番である。姉の性格が手に取るように感じられる。姉自身が行為する、もしくは妹を諭す、これ以外に何の姉であろうか?一般的に長姉、長兄は大事に育てられる。親とすれば初めての子であるがゆえに力も入り、至れり尽くせりで子育てに取り組む。
マイケル・サンデル教授を一躍有名にしたのが、『ハーバード白熱教室』という番組だ。その中でサンデル教授が学生に、「君たちの中で長男・長女は?」と問いかける。多くの挙手があった。ハーバード学生の実際の数字は第一子率は70~80%に及んでいる。教授は言う。「君たちは努力したというだろう。が、長男や長女に生まれたのは自分の努力じゃないだろ?」
面白い問いかけである。さらにサンデル教授は、「長男や長女だから家庭の支援や注目を受けて、最初から有利な位置にいたじゃないか!」とたたみ掛ける。こんな自由な論理を展開するような教授は、日本の大学にはまずいない。これは、「格差原理」といい、人は自らの幸運(第一子あることなど)で利益を得ることが出来るというのを、事例をあげて率直に述べている。
「長幼の序」とは、年長者と年少者との間にある秩序をいう。下は上を、子は親を、子どもは大人をどもは敬うというだけではなく、上は下を、親は子を、大人は子どもを慈しむというあり方だが、妹に親の殺害を行為させた姉は卑怯である。ズルいどころではない。何のための姉なのか?こういうときこそ姉である。嫌な役を自ら受け持つのが上の取る態度である。
裁判員の文言に、「姉は犯罪を防ぐ立場であるにも関わらず、しかも自らの手を汚すことなく妹に殺人行為を暗に望み、加担したのは卑怯である」とすべきではなかったか。人間の卑怯さ、ズルさを断罪するのも、社会の教育力である。にもかかわらず、「(姉の行為は)殺害行為を助けるものではなく、目に見えた効果は少ない」などと、人間の心の奥に潜む自己救済に言及していない。
長女も三女も、良くない祖母や母を持ったのは同情に値するが、祖母と親を殺したという厳粛な事実を一生背負うことに加担した、出来の悪い姉を持ったことも不幸である。そういう家庭の中に生まれた自分に罪はないが、かといって生まれながらに不幸という人間はいるのだろうか?そんな風に思う者はいる。環境や境遇を呪う者はいる。変えて行こうとなぜしない?
ぐずぐず言ってるだけの人間がいる。不満ばかりたらたらの人間もいる。状況を変えようとなぜ行動しない?努力しない?そんなに難しい事なのか?三流大を出たのは、そこに行きたかったわけではなかろう。そこにしか行けなかったでは?それを棚に上げてぐずぐず言う前に、平凡な人間が非凡を成すという現実が、なぜ起こるかを考えない。不満を言う前に凡事をやれ。
「夫が結婚したことを後悔するような品行の妻」。のっけの、「悪妻」を自分はこう定義する。もしくは、「傍目から見てあんな女とは結婚したくないと思うような誰かの妻」。単に、「あんな女とは結婚したくない」と思う女はまだ妻ではないが、将来の悪妻予備軍なのは間違いない。結婚してみて、「こんなハズじゃなかった」と思っても、言って行くところはない。