古事記に、「オオクニヌシの国譲り」という物語がある。オオクニヌシとは、「因幡の白兎」の大黒様。大黒様とは本来は大黒天であり、なぜか大国主命(オオクニヌシノミコト)の大国(だいこく)と重なったことで、大国主命が大黒天として信仰されることになった。そのオオクニヌシの尽力で、実り豊かな国、葦原中国(あしはらのなかつくに)が出雲の地に成った。
ところが、神々のおわす高天原を治めるアマテラスは、この国は我が子が治めるべきと言い出した。アマテラスはその意向を葦原中国に伝えるために、三柱の神々をオオクニヌシの元に送り込む。その際に拘ったのが、「言趣く(ことむく)」、「言向く(ことむく)」といわれる話し合いによる説得と合意であった。日本は言霊の国、言葉には何がしか力があるとされる。
「言趣く」、「言向く」とは、それを相手に向けることによって、相手を説き伏せ、相手から合意の言葉を引き出す行為と考えられている。アマテラスの、「言趣く」、「言向く」工作による説得は延々と続き、な、なんと11年以上もの歳月を要し、ついに最終合意にいたったという。その合意の内容は、オオクニヌシが、自分のために荘厳な殿社を造営すること。
高天原の神々の子孫と同等の待遇で自分を祀り、出雲の地の信仰の対象となること。これらを条件に、葦原中国を譲ることに合意したのだった。この物語は、天皇の皇祖神にあたるアマテラス側と、出雲の地に勢力を張った部族との間におきた領土をめぐる争いが、「話し合い」によって決着したことを語っていると解釈される。日本の神々は実に人間的だ。
権威をかさに威張ったり、命じたり、強引なこともせず、11年もかけて話し合うとは真に畏れ入る。そもそもGodを、「神」と訳すからいけないのだろう。Godとは一神教の神。世界で一つしかないものだから、英語表記では大文字で書く。日本古来のカミを一言でいえば、自然現象を人格化したもの。『古事記』、『日本書紀』に登場するカミや、神社に祀られるカミ。
また、太陽、月、風、雨、海、大木、岩や動植物や人間など、並み外れたものはみなカミである。と、江戸時代の国学者本居宣長は日本のカミを定義する。彼によると、人間に、「あはれ」という感動を与えるものはみな、カミなのだという。このように考える日本人にとって、国土は豊かな自然に恵まれ、至るところにカミが臨在している、カミの国である。
同じ日本人ながら宣長の思想に驚く。古代に神道が発達した要因として、①狩猟採取の縄文人が抱いた自然崇拝の習俗が底流となった。②米作を営むようになった弥生人は、土偶など土地の生産力の象徴を崇めた。③中国から伝わった青銅製の武器や鏡は首長たちの祭具や呪具となった。④中国由来の易や天文暦学、神仙思想は統治者の祭礼や葬礼に反映された。
⑤各地の共同体や有力集団はそれぞれの氏神を祀り神社を建立した。こうした要素が渾然一体となって神道と意識されるようになったのは、仏教が伝えられた後であった。つまり、人びとが仏教との相違と対抗を意識してからである。①仏陀は悟りを開いた人間でカミではない。②カミは人間と異なるが、人間の祖先であり、生きていることも死んでいることもある。
③仏陀は男で独身を守る。カミには男女があり結婚もする。④仏陀は仏像をつくり寺に安置するが寺にはいない。カミは神像をつくらない。神社には依代(よりしろ=カミがやってくる場所となる物)を安置するが、カミは神社にはいない。日本に伝わった仏教は中国を経由し中国化した。テキスト(書物)は漢字で書かれた漢訳仏典であり、教団組織や運営は中国流である。
日本人は、こうして学んだ仏陀と対照し、カミの観念をもつことができた。カミも神も仏もGodも信じない自分だが、信じる人は正直すごいの一言。教えを信じることは、それだけ頼りにしているということか。頼るは依存だが、信仰は依存でないのか?信仰の意味すら分からないが、信仰者は信仰の意味を分かっているのか?依存ではないのか、依存なのかについて…?
自分には関係ないので不思議な世界だ。信仰もないのに死ねば真宗のお経をあげられ、真宗寺の墓地に埋葬されるが、そんなことは望んでいないので、散骨を願っている。これには遺言がいる。「葬式無用 戒名不用」は、白洲次郎の遺言書。大金を払って戒名をもらい、それを木の板に書いて仏壇に入れ、線香の煙を立てるとか、蝋燭に火を灯すなんて変な宗教だわい。
人がやってるからやらねばならぬこともない。慕う父であったが、墓にも行かない法事もでない。墓に行って何を拝むのか、法事でじっとしている理由に意味を感じない。念仏とか経とかより、日毎に思い出し、感謝する方が距離感を感じる。冠婚葬祭否定派の自分は、形式より実利を重視する。規制の概念に囚われない新しい時代の人の葬り方でいいと思う。
鳴くまで待った家康の様々な局面を史書で知るが、一回きりの人生とはいえ波乱という言葉が相応しい人物である。そうして彼は神になった。本当になったか否かはともかく、家康に神の位を授けたのは天皇である。人が人に神の位を授けられるのか?それはできない。天皇は神道の最高位。国家神道の名称は明治以降のものだが、天皇は遥か昔から『現人神』だった。
「東照大権現」という家康の神の称号の発案者は、家康の宗教顧問であった天海である。豊臣秀吉は「豊国大明神」という称号だが、これと差別化をした天海の大権現であろう。権現とは、「神が、仮に仏の姿を取って現われた」という意味。東照とは、「東のアマテラス」であり、天照大神という天皇家の祖先神に対峙する、関東武士の祖先神ということになる。
天海は比叡山延暦寺出身の僧で、江戸を京都に見立て、鬼門方向に比叡山をそっくり配置した、「東叡山寛永寺」を作り、裏鬼門に山王日枝神社を作った。江戸の神社仏閣を完璧に配置した天海が、関東平野全体の結界つくりの総仕上げとしたのが「日光東照宮」で、源義朝の日光山造営に遡り、東国の宗教的権威となっていたが、家康を大権現としてここに祀った。
日光東照宮には、家康以外にも秀吉、頼朝が祀られているのはなぜか?いろいろ調べたが、「理由は不明」とされている。想像される理由として、秀吉を相殿神(侍従の神)という立場を与える事で、家康の方を格上であると位置づける。もしくは、秀吉の霊が徳川に災いをもたらす疫病神にならないよう東照宮に封印、家康の霊に監視をさせるため。どちらも一理ある。
源頼朝については、清和源氏の嫡流で武士最初の征夷大将軍であるが家康は違った。かつて従五位下という官位に任官されるとき、『松平などと聞いたこともない出自の者が任官された先例はない』と断られそうになった家康は、後の征夷大将軍を睨み、『徳川氏は源氏一族である』と吹き込んでいたのは、「将軍にしてくれ」、「お前はダメだ」といわれないためにであろう。
その後、系図を捏造して源氏性を手に入れたのは知られている。これは家康が征夷大将軍に任ぜられる遥か前の、1566年に三河地方を統一し、三河守に任官を希望した頃である。用意周到というのか、老獪というのか、よく言えば先を見越して手を打っておく性格が読み取れる。いずれにしても家康は、清和源氏嫡の流本物の源氏である頼朝を尊敬していたろう。
征夷大将軍に任ぜられた頼朝が、京都にも来ず、鎌倉にでんと腰を据えたように、頼朝を真似た家康は江戸に幕府を開き、京都とは別の政治体制を敷いた。幕府という名称は、征夷大将軍が戦争のためにテントを張る(つまり本営を置く)こと、それを幕府という。現代的に分かりやすく言うと、防衛大臣が鎌倉にテントを張って、日本国全体の政治を行うこと。
これは無茶苦茶な論理であって、律令体制の最高位である太政大臣の平清盛が、日本政府の最高位として全国の政治の仕置きしたのは理に適っている。幕府が国を支配することに怒った天皇には、後鳥羽上皇を始めとする上皇・天皇連合チームは、ことごとく武圧に制された。ついに幕府は政治の実権を握り、それは慶応三年、徳川慶喜の大政奉還まで続いた。
平家を京から追い出すなど、目に余る武士の台頭を規制するため、武士政権のための法令(式目)が作られた。貞永元年に制定された「御成敗式目」だが、別名「貞永式目」ともいう。これには国家の統治権は幕府がもつとは一行たりとも書かれていない。何がゆえに幕府が立法権を行使し得るのかについてもかかれていない幕府政権とは、まったく正当性はないものである。
天皇と将軍、朝廷と幕府による権力の二重構造は、「御成敗式目」が制定された1232年8月10日から、1867年11月9日の大政奉還まで、延々635年も続いた。なぜこのような違法状態が続いたのか?について、「御成敗式目」を制定した北条泰時は、「これは法ではない」としている。法でないなら何の、「式目か」という疑問だが、こんなことは今の日本にいくらでもある。
労働基準法による企業の違法残業にしても、やっと厳しく監視され、手を付けられるようになったが、企業に都合の良い論理は、労働者に抗えない仕組みになっている。上司に文句を言ったところで、「貴様のそういう精神がたるんどる!」と言われれば何も言えない。精神論が法の上に位置するこの国において、身分保証を求めて司法に訴えるのは、クビ覚悟の行動である。
泰時の、「御成敗式目」は日本の武士階級の総意であり、暗黙の合意を了承とした創作的申し合わせに過ぎず、あまりに見事な書式であるために以後600年間、誰も文句をつけなかった。日本の政治というのは、ある政権が社会通念上の支持(選挙など)を得れば、合法とみなされる曖昧さがある。一旦認められた憲法なら、議論を積み重ねてみても否定論は難しい。