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現人神と大権現 ①

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現人神とは天皇のことをいった。現人神が現存する時代の人にとって、現人神は天皇ではなく現人神そのものであった。近年は、「神」という言葉が安っぽい。ある格闘家を、「神の子kid」といい、とある野球選手を、「神ってる」という。戦前にいう、「神」の価値観とは畏れ多き違いである。価値とは何?価値観とは何だ?ふと浮かんだのがある乞食の言葉。

ある人が乞食に物を恵んだ。人はある人を誉めた。すると乞食は言った。「もらう価値のある俺も褒めてくれ…」と。何という言い方であろうか。こんなところに、「価値」という言葉を置くとは。アレクサンドロス3世といえば、その名も轟くアレキサンダー大王。その大王をして、「自分がアレキサンダーでなかったら、この乞食になりたかった」と言わしめた乞食である。

バカな学者どころか、バカな王様もいた。自分が裸で街を歩いていることすらわからないような…。その程度のバカなら笑っていればいいが、洋の東西には、「暴君」と言われる支配者がいたが、これは笑い事ではない。自分の気に入らない家来であれ妃であれ学者であれ民であれ、すぐに捉えて首を刎ねる。一個しかない首を刎ねられるのが、どれほど大変かなと。

そんな君主に気を使いながらは骨が折れるが、骨なら何本折れても首を刎ねられるよりはいい。アレキサンダー大王は大遠征を行ったことでも有名だが、征服地にその名に因んでアレクサンドリアと名付けた都市を建設、軍の拠点として現地支配の基礎に置いた。目的は、「同君連合」である。同君連合とは、複数の君主国の君主が同一人物である状態・体制のこと。

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アレクサンドロスのペルシャ東征は、広大な帝国を円滑に治めるためでありペルシア人を積極的に登用するなど、祖国マケドニア人とペルシア人との融和に尽力したが、彼は道半ばにて蜂に刺されて死んだ。信長も戦乱の世を収めるために天下平定を模索したが、彼もまた道半ばにて家来の謀反で生涯を閉じた。秀吉は老衰、家康は天ぷらを食べて死んだ(は、俗説)。

当時の天ぷらは今のものとは大違いで、現代の天ぷらは江戸時代も後期になって発明されたもの。名付けたのは山東京伝といわれている。家康が当たったといわれる当時の天ぷらは付揚げと呼び、三枚に卸した魚を三枚に卸した魚(すり身との説もある)を油で揚げ、生にんにくのすりおろしをたっぷりのせたもので、これは今でいう薩摩揚げのようなものと思われる。

いずれにせよ、榧油といい、生にんにくといい、どちらも内臓に負担のかかる食べ物ゆえに。高齢で胃腸の弱っていた家康が、「これは美味いがね~!」、こんな美味いもんがとパクパク食べれば、そりゃ腹痛を起こすがね~。文献によると、天和2年(1616年)1月21日、駿府城を出発し、田中(今の藤枝市内)にて鷹狩りをした。当日、鯉の天ぷらを食したのは記録にある。

当夜は田中城に泊まったが、夜中に激しい腹痛を起こす。田中城に3日間留まった後、駿府城に戻る。徐々に体力が低下し、朝廷からの勅使にも会わずということから、体調は極めて悪化していたようだ。そして、4月17日午前10時頃死去。どうやら胃がんにかかっていたらしい。ところで家康は名君であったのか?静岡に住むとそのように刷り込まれるようだ。

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まあ、戦に明け暮れた戦国時代の人を殺人犯とは誰もいわない。映画監督のマキノ雅弘はこう憤慨し吠えていた。「やくざ映画が遺憾言うて、なんで信長や秀吉、家康ならええのや。NHKはあんなもんばっかりやっとるが、アレらの方が余っ程ようけ人殺してるんや。アホやで、ほんま!」。NHKは今でもやくざ映画をやらないが、やくざまがいの集金人はいるらしい。

徳川15代で誰が名君かと言えば、基礎を作った家康と改革をした吉宗だろう。信長は冷静でありながら思い切りのよい点は評価するが、あの冷酷さは日本史の中でも無比といえよう。秀吉は人たらし、そそのかし屋であり、田中角栄と似ている。田中が今太閤と呼ばれたのも分かる。三人の中で誰が好きかといえば、好き嫌いよりも、この三人が上手くつながったようだ。

「織田がつき羽柴がこねし天下餅、すわりしままに食うは徳川」という言葉通りである。が、「一将功成って万骨枯る」というような、「一将」にだけに光や焦点を当てる映画や大河ドラマ並びに通俗歴史書より、埋もれた哀話に生きた歴史がある。山岡荘八の『徳川家康』に登場する鳥居強右衛門がいい。彼こそは長篠の戦いにおける最大の功労者である。

にもかかわらず、家康が人気がないのはなぜだろう。秀吉は大阪で絶大なる人気があり、信長は尾張のみならず全国的な人気がある。家康が江戸でまったく人気もなく、静岡県では名君と刷り込まれる。尾張はともかくとして、地元の三河ではそれなりに人気があろうが、"それなりに"である。トヨタは東京に行かないが、家康はなぜに江戸に幕府を開いたのか?

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岡崎にいれば三河幕府という歴史が誕生していただろう。が、家康が江戸に幕府を開いた理由は、朝廷(京都)と政治権力を切り離すためである。秀吉に江戸に遠ざけられた家康にとって、東国「江戸」は、京都の朝廷の干渉を受けない最適地だった。とはいえ、現役時代は京都の伏見城、引退後は駿河の駿府城、本拠地江戸城にいた期間は短かったようだ。

現代的解釈でいって家康の人気の無さは、日本人の嫌う4つの性質にあるといわれている。①華々しさ、潔さがない。②義理を重んじない薄情さ。③「タヌキおやじ」と呼ばれるズル賢さ。④目的のためには手段を選ばない。しかもそれで成功した「しぶとさ」。などで、歴史に素養あるひとなら、なるほどと頷けるはず。それぞれの項目に注釈を入れるなら…

まずは①だが、子ども時代に人気があった武将といえば、武勇伝がなによりだが、信玄に負けて脱糞しながら逃げ帰る家康である。義経、信長、幸村にあったカッコよさ、秀吉には貧農から大出世というこれまたカッコよさなどがない。②は、三河の小大名にあっては隣国今川を怖れて従属していたが、義元が桶狭間にて信長に破れると、今川を見限り織田と同盟を結ぶ。

③のこれまた三河の大名時代、領内の一揆に手を焼いていた家康は、とりあえず一揆側と和睦して解散させる。ところが、一揆側が解散するや否や手のひらを返し、武力で一揆を制圧する。豊家との「冬の陣」で、秀頼と表面的には和睦とみせ、大坂城の総堀を埋めるや否、「夏の陣」では豊家を滅ぼす。こういうやり方が「狡猾」でズルい家康といわれる。

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④については、信長・秀吉がなし得なかった天下統一を果たし、幕府を開く、「大偉業」に対する成功者への、「嫉妬」もあるかも知れない。日本人は姑息で卑屈な、「や・ね・そ」民族である。成功者に対し、喜びや拍手を贈るでなく、「や」っかみ、「ね」たみ、「そ」ねみを抱く。仏陀は、「恨みは恨みによって鎮まらない。恨みを捨ててこそ鎮まる」と言った。

山本七平も家康を書いている。興味はあったが、自分はもう「信長」、「秀吉」、「家康」に関しては耳にタコができている。が、山本の家康は少し毛色がちがうようだ。紹介文には、「家康はなぜ天下人たりえたか。鮮烈な“山本史観”で、「神君」でも「狸おやじ」でもない、「非凡なる常識人」家康の実像に新しい光を当てる」とある。が、買って読んでない本が山。

家康についてこんな記述がある。ある武将が家康から、「岡崎城5万石をお前に預ける」と言われ、「家に帰って家内と相談します」と答えたという。が、家内は方便で実は家老たちである。武士なら、「家老と相談する」と言えなかっただけで、実際家老たちとやれるかどうかを話あった。岡崎藩というのは、尾張家に対する目付の役割もあり、政治的な意味が大きい。

時は戦国の世、命を懸ける武将が、「女房に相談」と言ったことの方が、実際問題「笑い話」だが、誰に相談するというのが問題ではなく、要は、「衆議に照らしまして」ということを明示することである。あの時代は公方の命といえども、命を受けた個人がそれを単独で行動してはならない決まりがあった。必ず衆議に計って一致団結で行動するという規定である。

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これが日本的集団主義という、「見えざる規範」であった。それはまた、個人の行動原理であった。日本の組織はコンセンサス文化ゆえ衆議や評定が不可欠。話し合いによって関係者の感情への配慮や、コミュニティの調和を重んじる。近年は意思決定のスピードが求められ、相手の顔色ばかり伺う衆議制は、革新的な意思決定に至らないマイナス面が強調される。

欧米流の自己主張、それに基づく強力なリーダーシップ、あるいは自己を誇示するプレゼンだけでなく、相手の発言を聞いたり引き出したりの対話を通して、利害が対立する関係者たちと調整、協力しながらものごとを成し遂げるコミュニケーションは必要である。本来協調とは自立した者同士が成せるもの、その意味で協調優先の日本の初等教育は間違っている。


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