昨日とは内容を変えて、学者はどうあるべきかを考えてみる。どういう学者がいてもいいし、学者は腐っても学者だろうから、自分の考えは個人的なものだ。浅見は『にせユダヤ人と日本人』を執筆する前の1980年9月13日、某出版社の斡旋にて未公開ながら山本七平と対談を行っている。未公開という条件もあってか、この対談は録音されたが公にされていない。
未公開という条件は、対談当事者や関係者を含む全員が硬く口をつぐむという条件であろうし、約束は守られなければならない。しかし浅見は、『にせユダヤ人と日本人』執筆にあたり、"問題個所"という断りを置いてはいるが、一部を著書で公開している。これはルール違反でないのか?以下はその部分。浅見は録音テープから問題部分を正確に引用したという。
浅見:「(『日本人とユダヤ人』の英訳本について)……あれはあれですね。少なくとも原著じゃなくて英訳ですね。
山本:「はい。」
浅見:「原著はないんですね」
山本:「ええ。」
浅見がこの点を尋ねたのは、『日本人とユダヤ人』の英訳は、R・L・ゲイジ訳でジョン・ウェザーヒル社から出版されている。浅見の言い分は、「ベンダサン氏が英文で書いた著作を山本が日本語に訳したというなら、その日本語訳をなぜにゲイジ氏が、「英訳」する必要があるのか。この論理から、イザヤ・ベンダサンと山本七平が同一人物という論法が成立する。
イザヤ・ベンダサンが山本七平のペンネームでは、という噂はもちきりだったが確証はなく、後に司馬遼太郎や江藤淳ら30人余りの著述家が擬されている。山本書店版、奥付の著者略歴によると、「イザヤ・ベンダサンは、1918年神戸市中央区山本通生まれで、彼の両親はエストニアから亡命したユダヤ人。第二次大戦の勃発前に一家は全員アメリカに移住した。
青年イザヤは戦争中陸軍の諜報活動に従事し、1945年の終戦時に日本に戻った。数年後にはイスラエルの独立戦争で戦い、そして再び1950年に日本に戻り、5年間日本国内で暮らした。1955年、彼は特許ブローカーとして日本とイスラエルとアメリカ合衆国との間を往き来するようになり、インディアナ州のテリ・ホートで幸福に暮らしている。」となっている。
日本の実業家でウシオ電機株式会社の設立者である牛尾治朗はこんなことを言っている。「いつだったか、週刊誌などで、イザヤ・ベンダサンは山本さんのペンネームにちがいないと騒がれたことがあった。山本さんに聞くと、あれはヘブライ語で、"地に潜みし者で、誰もさがしだせない者"という意味です、と例のおだやかな微笑みを浮かべられた。」
堺屋太一は、「同著がイザヤ・ベンダサンと名乗るユダヤ人か、山本七平自身であったかを詮索する必要はないが、私はいまもイザヤ・ベンダサンの実在を信じている。私にも、発想と知識と生き方の点で大いに触発された日本語堪能な外国人の友人がいたからである」と話す。昭和51年時点で谷沢永一は、イザヤ・ベンダサンが誰かの決着はついたと見るべき」とした。
ジャーナリストで元朝日新聞記者で、『週刊朝日』副編集長も務めた稲垣武は、こんなことを明かした。「ある日、『あれって、あなたでしょう」と聞いた夫人に七平は、『まあね、そういうこと。ユダヤ人から彼らの伝統や習慣については聞いたけどね。日本人は同じ日本人の無名の人間の言うことなんか頭から相手にしないから、外国人の名前にしたのさ。」と言ったという。
稲垣武は、『 怒りを抑えし者 【評伝】 山本七平 』で第3回山本七平賞を受賞した。稲垣は上のことを山本夫人から聞いたのだろうが、あそこまで詳細に答えることからして、夫より口止めされていたという感じはない。夫人に聞くとは稲垣もしたたかである。山本七平没後に、『山本七平ライブラリー』全16巻を刊行した文藝春秋編集部は以下のように述べている。
「当初イザヤ・ベンダサン名で発表された諸作品は、山本七平氏の没後に残された談話やテープや知人の証言等から、ほぼ山本氏の著作、もしくは山本氏を中心とする複数の外国人との共同作業と考えられるが、本ライブラリーでは、発表当時のまま著作名をイザヤ・ベンダサンといたしました」。これだけ騒がれるのも、山本がただならぬ著述家であったからだ。
刊行当時わずか1500部という書が300万部というのは本人すら予期していず、外国人名にすれば多少なりとも読まれるであろうとの山本の日本人観が、ユーモアを交えて、「いざや、便出さん」というちゃらけたペンネームにしたのでは?「地に潜みし者で、誰もさがしだせない者」と、牛尾に述べた意味であるというが、ならば自身の口から明かすことはない。
騒がれる段階になって、嘘もつきたくないという心情も相俟ってか、「私は著作権を持っていないので、著作権法に基づく著者の概念においては著者ではない」と述べる一方で、「私は、『日本人とユダヤ人』において、エディターであることも、ある意味においてコンポーザーであることも否定したことはない」、などと述べている。山本はクリスチャンである。
クリスチャンは嘘をつかない、ついてはいけないとされるが、嘘をついたり、悪事をするクリスチャンもいる。ましてや教導職に就いていながらも嘘は言うし、悪い事をする者もいる。キリスト教の神父や牧師が少年少女を犯し、その事実を隠蔽しようとした事件もあったが、世界に20億人もいるキリスト教徒である。悪事をする際は、聖書のことなど頭にないのだろう。
そのことはともかく、浅見定雄の批判は確かに的を得たものである。彼が学者としての学究的態度は、是を是とし、非を非とする点に於いて評価されていい。が、『日本人とユダヤ人』が40年間も売れ続け、今なお版を重ねている現状に比べて、『にせユダヤ人と日本人』は一時文庫版化されたが現在は絶版となっている。インチキ本が売れ、正当本が売れていない。
この矛盾はどこに原因があるのか?この問いに対する答えは明瞭である。浅見の山本批判の根底には、学者という真摯な応対を超えた一神教徒にありがちな、自己を絶対化するあまりの非寛容な態度が見える。こういう人が大学の教員であることは、いかにも問題である。政治的、思想的中立は難しいといえ、少なくとも教職にある者は自己絶対化を戒めるべきであろう。
帝国主義、軍国主義の時代ならともかく、生徒を色に染めるのは日教組批判と同じもの。したがって、浅見のような憎悪むき出しの論述は、学者としては不名誉であり、、クリスチャンとしての品位の無さは致命的である。これらの指摘は立花隆や小室直樹もしている。たとえ山本の指摘に誤謬があり、その誤謬は小さなものでないにしろ、敵意むき出しの批判は反感を買う。
ハーバード大学で神学博士の学位を取得する浅見である。そんな学者がヒステリックに山本七平を論破し、その指摘が正確であっても、読むに堪えない本は遠ざけられる。善人が正義を気取り、正論をぶっても、義人でないことが人間的な品位を落とすようにだ。例えばテレビなどで品性のない学者が大声で怒鳴り散らすようなもの。別の言い方でいうなら、「好感度」。
どんなに真面目で誠実でお金持ちでイケメンでも、好感度が悪い男を女性は避ける。容姿に好・嫌があるように文にもある。金美麗の批判本も感情的に書かれている(らしい)。文は人を表すともいうが、自分も自分をどう現しているのだろう。「山本というかくもいかがわしい、『文化人』が、どうして世にまかり通るようになってしまったのであろうか」と浅見は書く。
よほど「肌」が合わないのか、論旨を超えた人格批判である。『肌さわりの美学』(安齋伸著 現代情報社、1976)という本がある。著者は上智大学名誉教授。探したが絶版のようだ。「肌が合う」、「肌ざわりがいい」など、物理的な皮膚とはちがい、日本人は、「肌」と言う言葉に独特の意味を持たせる、日本文化の特質を浮きだたせる、もののあはれ的な概念である。
肌は人に与える印象のことをいう。つまり、肌さわりのいい毛布のような感覚を持った人。浅見定雄や金美麗には備わるべくもいないが、山本七平という人間にはそれが感じられる。谷沢永一は、「史上最高の日本人」と山本を称した。彼の山本観とは、「読者を上から見下ろさず、読者と同じ平土間で、呟き語るのを好んだ。大向う受けを狙ったことは一度もない」。
確かに山本にはそうした奥床しさがある。「日本とは何か?」、「日本人とは何か?」この問いに、生涯を費やし、格闘した著述家だが、なぜに山本七平は、日本人に拘ったのかを考えるに、この国には、「現人神(あらひとがみ)」という言葉がある。「この世に人間の姿で現れた神」を意味する言葉で、主に第二次世界大戦終結まで天皇を指す語として用いられた。
「現人神」なる言葉を誰が考えたのか?山本は、『現人神の創作者たち」にこう記す。「戦後20余年、私は沈黙していた。もちろん、一生沈黙していても私は一向にかまわぬ。ただ、その間、何をしていたかと問われれば、現人神の創作者を捜索していたと言ってもよい。私は別にその創作者を戦犯とは思わないが、もし本当に戦犯なる者があり得るとすれば、その人のはずである。」