表題を、「学者バカ」とせず、「学者バカという言葉」にしたのには理由がある。「学者バカ」というのは比喩であり、核心でもあるが、専門分野においては知識も多く、さすが学者であるが、そういう学者も一般人から得るものはあっていい。それすらなく、威張っている学者、素人をつかまえて、バカ呼ばわりする学者、そういう学者を自分は「バカ学者」と呼んでいる。
哲学者カントは、学者だけが人間として偉いのだと己惚れていた。そして、無知の民衆を軽蔑していた。そんなある日、ルソーの書に触れ、彼は自身の眼の眩んだ自惚れをへし折られてしまった。今でこそルソーは思想家とされるが、土地測量などの仕事に従事し、『社会契約論』や『エミール』を執筆したのは、40歳を超えてからであった。カントは貪るようにルソーを読んだ。
「学者バカ」という言葉は、融通の利かない点、専門領域に一心不乱になるなどの側面を表す言葉で、同じように、「先生というバカでなし」という言葉もあり、だからといって、学者や先生がすべてにおいてバカとは言えない。言葉一つで人をいい表すことにも無理がある。「オタク」、「短気」、「真面目」、「天然」、「スケベ」などと、書けばキリがないほど性向を現す言葉がある。
占い師が、「当たる!」のは、人間が多面的だからで、いい加減とハッタリの職業。いかにも占い師らしい恰好がワザとらしい。人を一目見て、それが人相であったり、手相や服装であったりで、その人の過去や未来、性格や悩みが判断できるハズがない。「あなたは本当は短気だけど、のんびり屋さんでしょう」と言われて、「当たってる、すご~い!」とはしゃぐ人がいる。
「あなたは今、とっても大きな悩み事があるでしょう、それは彼氏のことね」。「わー、当たってる、すご~い!」。喜ぶのはいいが、何か言われて喜ぶためにお金を払っているわけじゃないだろに…。適齢期の女が異性で悩まないわけがない。仕事のこと、家庭のこと、お金のこと、容姿・容貌のこと、多くの悩みを持つ人間を欲とまで言わないが、とかく女に多い。
沢山の悩みを持てば、それだけ解決も大変である。それで占い師か?彼氏のことが一番の悩みでなくても、「それが一番でしょう?」と言われたら、「ハイ」と言うのが律義な日本人で、こういう人ほど洗脳されやすい。自分に自信がなく、人に合わそうとし、権威的な人なら傾向はさらなり。生きることに深く広く疑問や疑いを持つ人が、その解決に全力をかけるなら大きな人間となろう。
また、人間は自分に自信が持てるようになれば、人に冷たくできるようになる。無理に冷たくというより、こうすれば相手が喜ぶとか、いい気分になるだろうとか、そういう気持ちで接しないからからで、それを相手が勝手に冷たいと解釈するだけ。優しさとは相手の存在を大事にすることであって、相手に合わせることでも相手に都合の良い自分になる事でもはない。
人間が多面的である以上、多面的に人は生きるが、あまりに八方美人的だと自分自身すら理解できなくなる。ゆえに嫌いな相手に媚びず、是々非々にすべきかなと。金美麗にコケにされてへらへら笑う橋下なら魅力はない。自分をコケにする人間と仲良くしたいなら、節度は提示しておくこと。自分と他人の境界をハッキリさせるのが節度で、それを曖昧にすると必ず問題が起こる。
恋人や肉親家族に問題が起こるのは、緊張感が薄れ、節度がなくなった場合が多い。最初からできないことはあるし、最初からしたくないことはあるが、そういったものは最初だからできると言い換えられる。したがって、最初は嫌ではないと思っていても、後の自分の変節を考えて断る方が実は互いのためになるが、一般的にはそこまで考えないで行動する。
明石家さんまが小倉優子の離婚について、「お前が悪い。以前から注意していたろ?」と言っていた。小倉は夫と結婚する際、「(小倉の)好きなところを毎日10個言うこと」というルールを課していたという。それを知ったさんまが、「そんなことヤメ~、言わすな」と制止した。ところが、「新婚当時の寝る前にってことでやっただけ」と悪びれない彼女は物事を客観視できない。
人から言われても、「自分が良くなかった」と思えない彼女の幼稚さである。これでは離婚は必然かと。が、夫にも問題がないとは思わない。そんな、「お医者さんごっこ」のような注文をだされ、「そんなバカなことやれるか!」と言えばよいが、いわなかった側も問題というより、「No!」を言わない事が離婚になったと解釈できる。昨今の離婚理由というのもお粗末である
どちらも精神年齢が低いというか、未熟というのか、所帯を持つ大変さというのがわかっていない。「誰と食事に行ったかを教えてほしい」と小倉は求めていたというが、これすら人権蹂躙だから、「そんなこといちいち言えるか、バカもん」となろう。「バカもん」は余計にしろ、こんなおままごとに付き合わなければ結婚してあげないという女なら止めるべき。
そんな注文や指図をされた時点で、「この女は自分に合わない」となぜ思わない?男からみてその辺も腑に落ちない。こんな夢少女はいるが、結婚が現実ならそれに順応する男もだらしない。結婚するに際し、男と女はそうした、後の禍いとなるようなことは摘んでおくべしだが、お熱いのは分かるが、本来重視すべきことも見えないなら、結婚はお遊びでしかない。
もっとも、二人のことはあらかじめ話し合えるが、嫁いだ先の姑となると、これ分からない。自分は結婚前の妻に、母親の行状をことごとく話した。対処法もいろいろ告げたが、聞くだけで実感はなかったようで、「率直で分かりやすいお母さんだからいい」などと言っていた。嫁と姑問題は、女の性悪さ、陰湿さもあるが、日常の要因は老若の問題であると思っている。
「ハタキ事件」というのが我が家にあった。ある日母が自分に向けて愚痴をこぼす。「嫁は掃除を何と思ってるのか?濡れ雑巾も使わず、ハタキもかけない。あれでどこが掃除だ!」。いつものぶしつけな言い方にはぶしつけに返す。「ハタキで塵を飛ばす時代じゃない。あんたの喘息はそれが原因じゃないのか?濡れ雑巾だのハタキだの、大正時代じゃないで」。
「サッサ」のような科学雑巾も気にいらないらしく、「あれで汚れが落ちるわけがない」というので、「だったら掃除機も洗濯機も使わず、川に行って洗濯せーよ。炊飯器も使わずカマドで飯を炊けよ」。うるさい母親には返す言葉がなくなるような言い方であしらう自分だ。そうすればくだらない反論を聞かずに済む。昔人間が昔を基準に考えるのはある意味仕方ない。
が、それだと若い者と同居ができないのは年寄りである。現代の人間を昔に変えるのがオカシイ。なぜなら、昔に生きていない。ならば、現代を生きる老人は、現代に合わせて自分を変えることだ。が、「今どきの若いものは」、「今どきの嫁は」という言葉は永遠である。「当たり前だろ?今どきの嫁だ。あんたの姑も同じように嘆いたんだよ」というしかない。
江戸時代に本阿弥という人物がいた。肩書は書家、陶芸家、芸術家で、書は、「寛永の三筆」の一人と称された。頭もよく傑出した人物であったが、そんな本阿弥でさえ、「今時の若者は駄目だ」と嘆いている。300年前だろうと500年前だろうと、それが年寄りの本質である。老若の同居には難しい点が多い。孫の好きなハンバーグは気にいらない、パスタは食べない。
気に入らないだけならいいが文句を言う。文句を言うだけなら聞き流すこともできるが、意地悪やいじめにかかる。利口な姑なら、ハンバーグを食べ、パスタも食すが、姑の厄介さは、子どものような我が侭である。子どもに躾が必要なように、母を躾けるのは息子の役目である。嫁は他人だから遠慮もあろうが、こうした我が侭極まりない人間は諭すか放って置くか。
なぜに姑が威張る必要があるのか?「老いては子に従え」というように、息子に従えない親は、一人で暮らすしかない。それが組織論である。「学者バカ」で書く予定が、「バカ老人」になったが、「バカ老人」になりたくないというなら伝えたいのは「賢い老人」になる。では、「賢い老人」になるにはどうすればいい?若い頃、「賢い」の条件は学校の成績だった。
成績を基準にした。という方が正しい。線引きや基準がないと判定はできないから、テストや試験は合理的だ。そういう時代を経て、社会人や大人になって、賢くなるにはどうするか?「本を読めばいい」、「知識を増やせばいい」などが言われる。それは手段であるから否定はしない。自分も行っているが、たまに、「物知りですね」などといわれることもある。
子ども時代には、「物知り博士」に憧れていたが、今は物知りと言われても言葉を返さない。返しようがない。知識というのは他人から得たもの。確かにそれで物知りになれるが、物知り=賢いとは別である。我々が本当に賢くなるためには、自分の知恵によるしかないと思っている。我々には試験もテストもないが、経験という行為によって知識を知恵に変えていける。
それが、「賢い老人」になることであろう。「知る」ことと、「行う」ことは同じではない。正しいと知っていても行えないことは多い。悪いと知っていても止められないことが多いように…。知恵は知識とちがって、我々の汗や涙がにじんだものである。自身が書物などで得た知識に、感情なりがプラスされたもの、それこそが知恵であり、知恵はまた生きるためのもの。
子どものころ、お年寄りはみんな立派に見えた。が、こんにちお年寄りと交流を持つようになると、皆が皆人格者でないのも分かってきた。バカな老人もいるし、バカな老人は自分がバカであることすら見えていない。どうして愚かと思えないのか?などを考えるに、何が愚かであるかが解ってないようだ。やはり、賢くなるには、「愚か」を知ることが大事のようだ。