このような表題を目にしただけで、「家族を否定しなくてもよいではないか」という風に捉える人もいる。本を読んではないが下重の講演には、否定的な文言が効かれる。家族に限らず物事は全肯定で成り立っていず、全否定されるものもない。素直に感じ取り、否定されるべくは否定して改め、肯定できる部分を歪めたり、曲げたりで否定するのは愚かなことだ。
「美化の必要はない」については賛同するが、家族は大切であり、大事であり、自分の家族については否定的な要素は特にない。ないけれども、下重の言いたいことや問題提起は理解できる。世に短絡的な人はいて、自己を肯定するあまり他人を否定し、自分が否定するものは他人の肯定に賛同しない。賛同はしなくてもいいが、己の都合で否定はなかろう。
金美齢というクソババアがいる。台湾出身の日本国籍の評論家、政治運動家。という肩書だが、「クソババアって、自分が言ったのではない、橋下徹だよ~」みたいな幼児年齢ではない。自分も彼女はクソババアの類だと思っている。橋下のクソババア発言は、2016年1月31日の彼のツイート。「確かに僕は自分で知性と教養にあふれていると言うつもりはない。
ただ確信している。金美齢というクソババアに橋下は知性と教養はないとテレビで公言されるほど知性と教養に欠けてはいない。だいたい他人に向かって知性と教養がないと言い切れる人間こそ、知性と教養のかけらほどもない人間だ」。 とあるからして、金は橋下を知性ナシ、教養ナシと言ったのだろう。橋下は怒るではなく、金の態度を対する自身の態度を明示した。
他人に媚びぬこうした大事なことだろう。どういう経緯かは知らぬが、対象を、「無知」、「無教養」と名指しするためには、その当事者が、「無知性・無教養」であらねばならない。まして、「無知性・無教養」でない人間に対してそのようなことを言うのは、発言側が、「無知性・無教養」ということ。だから、橋下は怒ってなどいない。明らかに金をそのように見ているからだ。
バカに、「バカ!」と言われて腹が立たない理屈と同じ。橋下は続ける。「他人に知性と教養がないと言い切る人間は、自分には知性と教養があふれていると確信し、それを恥ずかしげもなく公言しているのと同じ。究極の自慢。私は金持ちで性格はよく、異性にモテまくると公言しているのと同じ。気持ちわりーーっ!」。確かにそんな事をいう奴は、「気持ちわりーーっ!」。
同じように、「自分は賢い。自分は偉い」という人間も頭がいかれている。自分は本気でそう思っているにしても、当人が賢いか否かは周りが判断することである。「賢者○○」という呼び名を、「どうかしてる」という奴がいたが、シャレだろうし、「賢者」を名乗ったからと言って賢者であるハズがない。本人がそう思っていても、判断するのはやはり周囲である。
金美齢のクソババアに賛同するのは、橋下にそんなことをいったからではなく、今回の下重暁子の著書『家族という病』に対し、「あなたの歪んだ家族論に反論させていただく」と、『家族という名のクスリ』を書き上げた。もっとも、こういう批判本というのは、「柳の下に泥鰌」を狙った部分もあるゆえに姑息であるが、下重の65万部の10%も売れないだろう。
下重&金のどちらも読んではないし読む気もないが、『家族という名のクスリ』とはいかにも下重の読者をターゲットにしており、「病」に対する「クスリ」とは金も思い上がったものよ。大体において金は上目線で思い上がったババアであるが、著書はamazonの書評にてさんざん批判されていたところをみれば売れてないだろう。批評には納得せざるを得なかった。
H氏はこう書いている。「この書籍は『正論』である。そして、家族との間に、そこまで大きな問題がなかった著者だからこそ書ける内容なのだろうと思う。『家族という病』は確かに稀に見る悪書である。だが、家族が枷となってしまっている人間にとっては、反面教師として読むことで、人生への心構えを確かなものにする効用がある。しかし金氏のこの書籍は、論理的に正しすぎて、救いにはならない。(略)
私は『家族という病』を読むことで、『病』は80歳を超えても解決しないことを知り、心の準備ができた。そのような人間にとって、少子化だの社会保障だのを考える余裕は、無い。特に最後の、娘とのいかにも仲よさそうな対話を掲載している章は、身体障害(難聴)の父を持つ私にとっては願っても絶対に叶えられない行為であり、吐き気がした。下重氏、金氏、双方に、ノブレス・オブリージュを求めたい。
G氏はこう書く。「著者の主張は確かに多数派の正論であると思う。ただし正論を受け入れられる恵まれた環境で生きてきた側からの一方的な上からの意見の発信であり、正論を否定はしないがそのようには生きられない者に対する考慮や理解はまるで見られない残念な内容だった。作者の自己満足、人生自慢がまるで人類の一般論であるがごとくにすり替えられて随所に散りばめられている。
また、全編においてケンカ越しで上からの物言いである。よほど怒りを込めて書いたのであろう。言っている内容は正論だが、そこまで鼻息荒く対抗するようなまとめ方をされると逆に疑問を覚える。正論を認めろというなら、それ以外のいろんな生き方があることも認めても良いのではないだろうか。また、正論な方法以外でしか生きられない人々が正論の生き方を認めてないわけではない。」(以下略)
両氏ともに似たような意見だが、幸福な環境に育ったものが、不幸者を見下すために書いたものに説得力はない。幸福者は自身の境遇の自己満足に浸っていればよく、不幸な境遇者への批判文をしたためる必要はない。金美齢がクソババアであるのは、自分の意見にそぐわない生き方は真っ向否定し、切り捨てる狭量な性向をいう。テレビの討論番組でもうんざりする。
他人の価値を認めぬ者は、自己の価値も認めてもらえず、独りよがりを言うだけだ。そういえば、「いかなる理由であれ親に反抗する人間はどこかおかしい」という記述があった。彼が傲慢でエゴイストの親に育ったら、同じことを言うのだろうか?せめて、それくらいの想像力をもって物事を考えるべきだが、自分の価値だけを述べるは、まるで学童の作文・感想文である。
物には表裏があるように、如何なる物にも、「是」と、「非」が存在し、「非」をどう考え、どう扱うかによって持論は形成される。都合悪きものは無視、嫌なものは排除という女性にありがちな視野狭窄さは、下重にも感じられる。家族を拒否した下重に、家族は、「病」とした方が拒否の正当化になるのだろう。書いてあることは真実であろうが、下重しか知り得ないことゆえ誇張もある。
自分は親の奴隷になどなりたくなかった。鎖に繋がれたペットで可愛がられるより、隙さえあれば鎖を切って逃げ出すことしか考えなかった。親の存在は否定したが、家族を否定する考えは毛頭なかったし、むしろ悲惨な家庭であったからこそ、和気藹々で賑やかな家族を作りたかった。現在81歳の下重は45年前に結婚したというから、36歳の年齢である。
結婚理由は料理のできる夫であったからだといい、自分は今でも全く料理はしないという。要するに、料理のできる夫から料理を教わるのではなく、自分が横着ができるからというのは、巷の主婦には反感もあろう。したいことだけをし、したくない事はしないというなら、家をブタ小屋にする主婦と同じこと。権利重視で不義務であれど、自分たちがいいならいいでしょう?
この言葉が彼女の端端に出る。子どもも作らなかったという。できないことを作らなかったと言い換える人もいるが、それは自尊心の問題なので言い換えは自由。「家族ほどしんどいものはない」というのは、彼女が面倒臭がりの横着人間なのではないのか?親がしんどいというなら分からなくもない。最近毒親本が結構出回るが、親に耐えたという人は確実にいる。
耐えられなかった人が親を殺めてしまう。また、子どもに耐えられない親は子どもを殺める。自分にも一触即発の危機はあったが、耐えたわけでも、我慢をしたわけでもない。「耐える」や、「我慢」は、その場の鎮静に過ぎず危険である。自分はそんな片手間な一時しのぎより、物事を根本から徹底思考する性向で、沈思黙考を重ねた結果が、「親を捨てる」であった。
「耐える」も、「我慢」も抑圧である。そんな根性は持ち合わせていない。だから、「捨てる」。これはむしろ快感である。自分が親の下にいないで、上に位置するから出来る。つまり、「従」と、「主」が逆転の快感である。そのためには、一切の依存を断ち切る用意があった。親としての義務は義務として享受するが、捨てた親に依存するのは矛盾する。それができるか否かを熟考した。
その辺りの経過を人にはサラリというが、納得させる気で話さない。おそらく無理だ。別に自分のことだからそれでいい。金の無知や自己自慢やチャチ入れには虫唾が走るが、今回、下重の講演を聞き、本は読まずとも彼女の多くに賛同できなかった。が、世の中に病的な家族がいるのは間違いない。下重自身も他人への依存を嫌うように、病的家族の本質は、「共依存」である。
自分はこの書籍をタイトルから勝手にそう捉えていた。それなら賛同できるが、下重の極端で独善的で感情的な考えは、男の自分に馴染めない。65万部超も売れれば、続編も書きたくもなろうし、商業主義の現代である。思想や体験談がお金になるのも有名人の特権だ。それも著名人の有難いお話を聞きに出かける人がいるからこそ成り立つ。だから講演もアリだが多くは聞きき流し。
「そうめん流し」ではないが、昨今は、「聞き流し」、「たれ流し」、「言いっぱなし」の時代である。書店に行くと新刊が山積みで、こんなに本が多く出て資源の無駄遣いでは?などと思ってしまう。下重の『家族という病 2』には以下の書評がぶら下がる。「言いたいことはわかるが…やはり子どもを育てた経験なしでは、家族の善悪を語るのは説得力はないですね」。
別の書評に、「『幸せな家族なんて存在しない』も、なんでそんなに家族という存在を否定し、違に嫌うのか?」とある。最初の一冊は、「家族関係に亀裂」という現代に警鐘を鳴らしたか?のような誤解もあって売れたようだが、ここに至っては、子どもも持たず、夫婦二人が独立採算という、まるで他人と同居生活を営む下重が語る家族とは、ただの綻びに思えてならない。
家族を美化する必要はない。親が子を、子が親を美化する必要もない。大事なことは、動物のように親は子を自然に育むこと。親に感謝をしろとか、親孝行を要求するとか、そうした恩着せがましさが愛情でないように、親は勝手に子を育て、子は勝手に育ち、さらに子は親から自然に巣立ち、親は何の言葉も置かず死んでいく。まるで、ユゴーの小説のバルジャンが如く…