誰が決めたか、家庭は安らぐ場所である。子どもも、夫婦も、夫婦の親も同居なら、世代を超えた安らぎの場であらねばならない。ところが、安らぎを阻害する者が家庭にいるのはどうしたことか?あってはならないことだし、「よくないこと」と、誰もが答える。しかし、現実に家族や家庭を阻害する者が存在する。 ならば大事なのは、組織にはやはり管理者が必要か?
組織を円滑に運営し、機能させるための管理者がいれば、幾多の問題は発生段階で食い止めることができる。その管理者に誰がなるか?というようなことを考えたことがある。家庭が紛れもない組織である以上、「組織論」は有効であるとし、誰かがその役を担うべきとなる。その誰かとは、公平で冷静な視点で家族を見渡せる人間でなければならない。
戦前の家長を中心とする「家制度」は、1898年(明治31年)に制定された民法において規定された日本の家族制度であり、親族関係を有する者のうち更に狭い範囲の者を、戸主と家族として一つの家に属させ、戸主に家の統率権限を与えていた制度で、中心となる者を家長と定め、家長が家族を統率していた。いわば、「王制」のようなもので問題もないわけではなかった。
いうまでもない、家制度には家を統括する戸主の権限濫用により、家族の権利が犠牲にされる危険性があったためで、大正時代においても、法律上の家族制度を緩和すべきであるとの改正論が支配的となる。第二次大戦によって改正作業が中断したものの、戦後の1947年5月3日に施行された日本国憲法を以って廃止された。本年は憲法施行70の年、憲法にはさまざまな感慨がある。
民法改正と同時に施行された、「家事審判法」の第1条が、「家庭の平和と健全な親族共同生活の維持を図ることを目的とする」としていたのと同趣旨である。ところが、「家事審判法」は2013年(平成25年)1月1日を以て廃止された。もっとも大きな理由は、「家事審判法」が時代に即さなくなったことだが、どういう変化が重要視されたかを考えてみる。
面白くいうなら、「夫婦喧嘩は犬も食わない」である。親子喧嘩には犬が食うだけの十分な事由がある。ゆえに慣用句はない。成長過程における自我の露出において、子と親の喧嘩はむしろ必然であり、反抗期のない子どもの方が危険とみなされている。家庭内紛争の処理は、肉親ゆえに複雑な感情の交錯する家族関係を対象とし、訴訟的処理になじまない。
家族問題を扱う性質上からして家庭裁判所においても、非公開を旨とし、訴訟の形式によらない非公開手続で処理することが原則であり、図られていた。「家事審判法」が扱っていた手続は、家庭内の事項について訴訟の形式によらない、公権的な判断をすることを目的とする「家事審判手続」と、家庭内の紛争について調停を行う「家事調停手続」があった。
これらが時代の変化とともに、さまざまな問題を膨らませ、非公開が良いというのがニーズに合わなくなってきたといえる。法は問題解決の最善処理ではないが、法で裁断しなければならない以上、非公開や隠匿は配慮の枠を超えたものであろう。是は是とし、非は非とする。そうした毅然とした態度は、凶悪な少年事件の多発から、少年法改正の動きにもなった。
庇護に甘えるばかりか、「自分たちは刑務所には行くことはない」などと、少年法を逆手にとった不埒ともいう少年には、相当の刑罰が必要との世論の高まりも「少年法改正」に拍車をかけた。いかに日本人の精神年齢が低いとはいえ、20歳未満を少年とするのは、世界でもまれである。家庭裁判所を設置し、家裁が少年事件の刑事処分か保護処分を決定する。
して家裁が刑事処分相当として検察に送った事件についてのみ、検察官は刑事処分を科すことができたが、それでも検察官は、少年審判に参加を許されず、審判に対する上告などの不服申し立てすらできないことになっている。こうした「改正前旧少年法」は、敗戦直後の得意な混乱状況を背景に、GHQが押し付けたもので、施工以来問題を抱えていた。
少年法改正にあたって、「家庭裁判所の審判手続きに検察官の出席を認めるかどうかの議論は多方面で論議された。学者の間でも現実認識に大きな差があり、意見が交差・乱舞した。そういえば、『朝まで生テレビ 激論!! 少年凶悪犯罪』では、精神科医の故小田晋筑波大社会医学系教授と、法学者で明治大法学部教授菊田幸一の喧嘩腰の激論もあった。
大島渚:「検察官が戦前のようなある種の権限を持つと…。家裁にすぐに送致するのではなくて。」
小田晋:「そうじゃない。家裁送致はいいけどその前に検察官の立ち合いが必要。家裁が不処分を決定した場合に、検察官の抗告権を認めるべきです」
菊田幸一:「今の発言は現状認識がまったくない。少年法は、現実に16歳以上は刑事事件として十分処理できるようになっている。しかも、家裁の意見では、検察官の意見は80%以上認められている」
小田:「何をおっしゃいます。嘘です」
菊田:「検察官が刑事処分相当と判断すれば、家裁はほとんどそれに従っている」
小田:「菊田先生の言う、検察官送致事件に家裁が大半同意したというのは、事実に反している。検察官の判断と家裁の決定の間の食い違いは1965年から年々増えている。80%同意などと何の根拠もない、『犯罪白書』も『司法統計書』も読まない人間の暴論だ」
菊田:「あなたこそ現実を知らない。その背景に、家裁がなぜできたか。そして、そこに科学主義が生じ、心理学者や社会学者が意見を出し、それと検察官との意見を嚙み合わせて、それで現在の家裁が処理しているわけです」
討論の中の、「検察官の判断と家裁の決定との間の食い違い」は、『89年度犯罪白書』によると、年長者で検察官が37.1%が検察官送致を要求しているが、家裁は18歳、19歳の強盗または殺人でも、9.6%しか検察官送致をしていない。小田はこの数字に対し、「一般に少年犯罪に対する処分が軽いとの世論があるが、本当に軽い」と、「サンサーラ」92年5月号で述べている。
まあ、こういう食い違いは、犯罪者を処罰する検察官と、少年の保護優先の考えに立って更生を目的とする家裁との立場の差であろう。家裁の態度は理解できるが、あくまで問題は更生が真に有効になされるのか、更生プログラムはどの程度効力があるのかに尽きる。話を戻せば、「家庭は安らぎの場」となり得るのか?家長制度で統率はできるが安らぎとは別のもの。
「家」の価値観が重視された時代と、個々の価値観と自由が尊重される時代との違いにおいて、昨今は、「家庭崩壊」は当たり前、それぞれが意思とは別の、「家族ごっこ」をしているに過ぎないという著作が増えた。現代の様相に口火を切ったのが、本間洋平の『家族ゲーム』(1981年)であった。2015年の下重暁子『家族という病』は発売2週間で35万部が売れたという。
読んではいないが、「なぜ、日本で『家族』は美化されるのか。一方で、『家族』という幻想に取り憑かれ、口を開けば家族の話しかしない人もいる。そんな人たちを著者は『家族のことしか話題がない人はつまらない』、『家族写真入りの年賀状は幸せの押し売り』と一刀両断。家族の実態をえぐりつつ、『家族とは何か』を提起する一冊」。のコピーに笑ってしまった。
立ち読みすらしない理由は、他人の家族観より、自身の家族観を持っているからだが、笑えた理由は、『家族のことしか話題がない人はつまらない』、『家族写真入りの年賀状は幸せの押し売り』のコピーで、同じ考えの人もいるんだという含み笑いである。家族写真の年賀状は、まさに他人への家族の押し付けで、なぜ友人の賀状に自分の家族を見せるのか疑問だった。
自身の価値観をお金をとって知らせるのは、有名人の副業だから構わないが、所詮自分が、「こうしてる」でしかない。そうした個人の雑事・日常に興味を持つならそれもよかろう。小事も大事も個々の好みである。『徒然草』のような、自身で自身を眺める楽しさ、これがブログが続く理由である。気負いもなければ清書一発、モーツァルトの楽譜のように、ノーチェックで書きなぐる。
自分の場合、「書く」と、「読む」は違っている。主観で書き、客観で読む。左脳で書き、右脳で読む。後で誤字・脱字を発見して楽しむ。「さすがに人間はミスをするものだ」などと感心したり…。べらべらしゃべって後で録音を聴くようなもの。悪くいえばガサツだが、書くと読むが違うとこうなる。ゆえに書くのは速い。表現とは書いたものであって、途中にあるのは思考である。
にしても『家族という病』が、年間ベストセラー3位には驚いた。この現象は、いかに多くの家庭が病に浸っているかであろう。浸るではなく、苦しんでいるのかも知れない。何事も始めが肝心で、子育ても最初から危機感を持ち、心して向き合い、論理が如く一貫性をもって行えば後手は引くまい。予期せぬ突発的な事案においては、個々の問題解決能力がものをいう。
問題解決能力はどうすれば身につく?能力とはいかに多くそれをやるかで高まるが、「好き」は、「やる」に勝るから、問題の解決を好きになる事。探偵のように、問題を多角的に分析、推理、さらには苦悩し決断する。名探偵といえども、決断の前には苦悩がある。失敗はしたくない、失敗はゆるされないという責任においての苦悩である。子育ても後の責任を考えればの苦悩である。
決断の苦悩であって、ただ甘やかせ、子猫のように可愛がったあげくの苦悩とは訳が違う。問題意識と危機感を常に持てば、問題を早期に把握できる。何も問題がないようすくすく育った子どもが、実は大きな問題を抱えているように、親には子どもの背丈などの表面しか映らない。子どもの見えない心は、実は見せない心であって、それを、「闇」というが、「闇は」また、「病み」である。
「他人の幸福の素晴らしい点は、それがそのまま信じられるということだ」と、この言葉は痛烈な皮肉である。人間には器用な人もいて、笑顔で振る舞い、幸福そうに振る舞う技術を、怖ろしいほどに習得している。笑顔は幸福を生むというが、幸福である=笑顔とは限らない。他人の笑顔や溌剌さを「欺瞞」と嫌う人がいるが、この場合は嫌う側に問題があるのだろう。
いつも笑顔でいた少女がそれだけの理由で、「うざい」といじめられ自殺した。目立ちすぎ、いい子ぶると捉えられたようだが、女は誰にも姑根性があるのか?情緒優先、理性欠如の女世界は多難である。静かで居るだけで好感持たれる人がいるが、真実を隠すのが義務でないように、明るい顔という嘘をつくのも義務ではない。自身に誠実であるのが自身に課す義務であろうか…