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Channel: 死ぬまで生きよう!
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他人の幸福も見えにくい ②

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浴槽のコックをひねればすぐにお湯がでる。洗い物をドラムに入れば誰の手も煩わさないで洗えて乾いて仕上がる。山にしばを狩りに行くことも、川に洗濯に行くこともない時代である。便利になったと、つくづく文明の恩恵に感謝しないでいられない。そうして余った時間を我々は何につかっているのだろう?おやつを食べたり、本を読んだり、テレビを観たり…。

当たり前の日常に気づくことはないが、はっと我に還ることがあるが、我に還ることの、この心地よさは一体何であろうか。その心地よさを味わうために、ぼんやり、もしくは思考のない時間がある。いかなる苦も、楽も、喜びも、哀しみも、一切万事は我より出でて、我に還る。自分の不幸も幸せも、すべては己の気の持ちようである。ならば幸せもよし、不幸もまたよし。

「幸」がもたらせる宝があるように、実は、「不幸」がもたらす宝もあるのだ。はっと我に還るときは、幸による充実よりも、不幸によって得た宝物に浸ることが多い。未来は覗けないが、過去は古書としてしまってある。いつでも読むことができる。「温故知新」という言葉が好きだ。さすがに偉い人はいい言葉を思いつく。古いものがなければ新しいものはない。

そして新しいものもやがては古くなって行くように、現在もやがては過去になり、最初だったものも最後になる。まさに『時代は変わる』のだと、当たり前の事が言葉になっているものに触れたときも、「はっ」と我に還る。ボブ・ディランという人はさすがにノーベル賞の栄誉に相応しいものがある。あの中に、「世の父よ、母よ、自分に理解できぬ子を非難するな」とある。

      PPⅯの『時代は変わる』がいい。下のフレーズのみをマリーのソロで、諭すように聴かせる

  Come mothers and fathers
  Throughout the land
  And don't criticize
  What you can't understand
  Your sons and your daughters
  Are beyond your command
  Your old road is rapidly agin'
  Please get out of the new one
  If you can't lend your hand
  For the times they are a-changin'


その言葉を発する前にディランは、「母たちも父たちも来たれ、国中すべての親たちよ」という呼びかけを前置きしていることをみても、実の腰の入った問いかけである。「息子たちと娘たちはあなたたちの手から離れ、あなたたちの道は急速に老いてゆき、あたらしい道から出ていくのだ」と、気づかせようとする。ディランの声に「はっ!」と我に還る親もいたであろう。

が、耳に入らぬ親もいたはずだ。それならば子どもたちが、「はっ!」と我が身に還ればよいではないか。ディランの言葉は、親に向けたものだが、目に触れることもなく、耳にすることもできない親、耳目にすれども無視する親は、この当たり前を実践できない。ならば子どもが、親に抗えばよい。ディランは動かぬ親を尻目に、実は子どもたちを動かしたのであった。

同時期、ビートルズもそうであった。彼らはプロテストソングを書き、歌うことはなかった。プロテストソング( Protest Song )とは、社会の中の不公平や不正を告発し抗議する歌のことだが、ビートルズの存在そのものが古い体制批判の象徴だった。大人たちは彼らのマッシュルームヘアを、モップ(雑巾)がごときと蔑み、不潔の象徴モップヘアとこき下ろした。

それくらい当時としては、「とんでもない!」というくらいに、センセーショナルなヘアスタイルだった。長髪と言っても、今見ると耳は見えており、パーマもかかっていない大人しいものだが、「男の長髪は汚らしい」とされ、記者たちのインタビューの際も、「髪は洗っているか?」とか、「何ヶ月に1回髪を切っているのか?」などとからかわれたり、皮肉を言われたり…。

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人の価値観は自身の世代が規範となる。したがって、新しい考えとは世代を超えることであり、もしくは世代を戻ることでもある。「古いものが新しい」というのは、その世代を遡ったものに価値を当たる言葉であるが、思考に柔軟性のある人、ない人は確実に存在する。問題になる人は、「柔軟性のない人」であるが、どこが問題なのか、その理由について考えてみる。

思考に柔軟性のない人は、さまざまなパターンやケースがあるが、よく言われるのが「冗談を真に受ける」、「自分の考えに拘る」、「決まりを守るなど遵法心が強い」などで、すべての人間が硬い頭であるなら問題はないが、柔軟な思考を持たぬひとは、周囲と無用な争点を生み出し、人間関係に軋みが生じたり、自分の望んだ成果を手に入れられないと強く苦悩する。

人の性格はさまざまに分類されるが、人間関係においては自分が相手をどのように捉えるかについて、ある程度の把握が必要だ。「柔軟」、「頑固」、「無邪気」、「思考停止」などは代表的なものである。これらの特質が、人と人との会話のなかで生かされ、あるいは配慮されたりし、会話にスムーズな流れを作るが、柔軟性のない人は、「頑固」、「無思考」の類である。

会話で大事なのは、「腰を折らない」ことである。以下は実際に耳にした事例である。女子高生数人がエロ話をしていた。各人は互いを、「エロい女子」と認めあっているが、その中の一人がこういった。「うち、エロくないからそういう話は好きじゃない。したくない」。「ガーン!」。おおよその人はその場の雰囲気を想像できよう。こういう子を、「いいこ、ブリっこ」と蔑むのだ。

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彼女はその後、露骨ないじめ(無視)にあって転校することになった。自分はその当事者と話し、彼女の言い分を聞いた。言い分など聞かなくても状況でわかるが、ようするに彼女は自分は悪くないと思っている。普遍的な善悪や、観念としての善悪においても定義は難しいが、世俗的な日常の善悪は相対的であり、自身の善は他人の悪となる。その逆もしかり。

よって、彼女の「善」は周囲の人間にとって「悪」であった。彼女がそのことに気づかぬかぎり、納得は得られないだろう。自分は、彼女の説得を試みたが適わなかった。上記の分類でいえば、彼女は頑固というより思考停止である。集団にあって人におもねらずそういう言葉を吐いたことに善悪は、今後の彼女の課題である。何が疎んじられ、いじめの対象になったか…。

いじめは、いじめられる側にも理由がある。ただし、備わった容姿や容貌に対するいじめは自己に責任がない以上卑劣であるが、卑劣を卑劣と理解しない人間につける薬はない。学校内におけるいじめは、とりあえずクラスを仕切る担任教師の絶え間ぬ努力にかかるべきだが、人格的、人間的に相応しくない教師を見抜けず、試験が受かれば教師にとの決まりがある。

問題は、無能な人間に教師免許を与えた文科省、雇うことにした市教委など、責任の裾野が広く、だからいじめは彼らの責任逃れとして隠匿されてしまう。人格的無能教師の存在もあるが、「学校は命を尊び、真実と正義を求める人格形成、育成の場である」という事が、まったくの機能不全に陥ってることが問題である。なぜ、このような学校になったのか?

イメージ 4物事の価値観の多様性が求められ、それらに対して広い視野と対応性を持った人材がついていかない現状だろう。戦前の軍国主義教育や、規則・禁止で締め付けている方が、価値観が限定されているので、教師も学校も楽である。それなら少々の無能教師でも、子どもがロボットなら苦労はしない。要するに、柔軟性を持った人間が教師に少ないと自分は見る。

それに拍車をかけるのが教員の評価制度である。評価制度を導入しなければ、企業の社員であれ、教員であれ楽をしようとする。したがって、「評価制度」とは、目には見えない管理という名目の人の監視である、小泉政権の、「聖域なき構造改革」の一端で、教育現場にも競争原理に基ずく、「成果主義」が導入されたが、これは従来の評価制度より厳しい。

統制管理を強化するために現在の職員室はかつての校長・教頭以外は、フラットな空間でなくなり、校長をトップとした、教頭、主幹教諭、主任、指導教諭、教諭の六段階職階制となる。日教組が3割組合に落ち込む以前は、職員室も学校もわが物顔で牛耳っていたし、さながら民主的に行われた職員会議の決定を、「職員会議は議決機関ではない」との態度であった。

組織に制度は必要だが、教師が担任するクラスでいじめが発生しても、人事考課で自分の評価が下げられるのを怖れ、いじめを隠す。当然ながら、同僚にも校長にも相談しない。彼らの本音は、「いじめがあるのを校長や同僚にバレないようにする」に神経を使う。また、校長も自身への市教委の評価の低下を避ける事になる。校長は学校の風評を怖れているのだ。

いじめを受ける生徒は不幸であるが、彼らの不幸を解決してやろうという教師はほとんどいない。いじめる子、いじめられる子、双方の保護者ならびにそれを黙認する子らへの労力は甚大だ。教頭や校長には解決を命じられる。このように、公にすればみなが不幸になる。黙っていればいじめられる子一人の不幸で済む。これが、「いじめの認識はなかった」という言葉である。

「認識がなかった」などと都合のいい言葉は、いじめを受けた生徒からの訴えで名指しされた生徒を聴取し、「いじめていません」、「ふざけ合ってるだけです」を鵜呑みにした程度の認識である。自分からすれば、「バカかこいつら?」である。窃盗の容疑者を捕まえて聴取したら、「泥棒なんかしてません」といわれて釈放する無能警察官と同じ、無能教師ということだろ。

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