政治家や財界人はいう。「憲法を守り、法の範囲ないで政治や企業運営をして、国民の幸せを考えている」。そうはいっても、自衛隊のどこが軍隊でないのか?企業は違法残業をさせ、過労死対策など労務管理もせず、それで国民に健康で文化的な生活を保障しているといえるのか?軍隊や安保条約の考えを突き詰めると、二つの大きな対立があるのがわかる。
一つは、何よりもアメリカとの関係を大事にする。企業は自由に儲けることが大事。という人々と、何をおいても国民の生活が大事、生命を脅かすなどあってはならないという人々の考え。これらは政治体制と資本家と労働者の対立といえる。「世の中は何で動いているのか?」についての答えがこれである。つまり、社会は、「対立」と、「闘争」で動いている。
決して法律や人々の思想あれこれや、あるいは偶然に生まれた個々の人の違いによって動いているのではなく、それよりも大きな、世の中の立場の相違、その対立と闘争によって動かされている。我々の幸せや、ささやかなる望みも、このことに大きくかかわってくる。経済(下部構造)によって政治(上部構造)を規定するのが唯物史観と言われたがそれは正しい?
カール・マルクスは歴史を考えるにあたり、古今東西において、「人間は食べなければ必ず飢えて死ぬ」という人類の普遍的法則から考察を始めた。彼はそこから、「人間がどうやって食を得ているか」という人の生産活動に着目し、「その生産活動の土台の上に政治や法律、あるいは宗教や道徳などの非物質的な概念が生まれる」と考え、これを上部構造とした。
唯物史観は史的唯物論ともいい、社会の土台は経済、物資の生産にあるとし、その経済の変化・発展が歴史の根本におかれ、しかもそれは階級闘争という形態をとる。こういう歴史の見方は人を驚愕させた。つまり国や社会を動かすのは、宗教や精神でもない。国王や英雄といった、高尚なものが歴史を動かすのではなく、経済という物作りを土台としたこと。
「『階級闘争』という争いが歴史を動かし、無知な大衆や愚民が実は歴史を担うという、下賤な考え方など汚らわしいにも程がある」と、人々が騒ぎ立てたのは当然であろう。確かに、哲学や宗教や政治は高尚であるが、人間がものを思考できるのは、人間が生きているからであり、食料や衣服や住居なしに、人間が生きることができないのを、誰も否定できないのだ。
人間の歴史が単に、個人個人の行動の寄せ集めとしてでなく、人間の集団的・社会的なあり方の問題として、科学的な研究がなされるようになった。マルクスの社会主義を科学と位置付けたエンゲルスの提唱する科学的社会主義は、多くの批判を浴びた。なかでもベルンシュタインは、「社会主義はイズムであって、倫理の領域に属す」と、科学であることを批判した。
科学とは認識にかかわるもの、社会主義とは価値に相当するものであって、両者は別のものであり、科学的社会主義などは即時的に成り立たない。となれば、エンゲルスのいう、"思想を科学とする根拠"は崩壊するに至った。新しい思想には害悪があり、それを指摘するのも人間の叡智である。社会主義が、「科学」である恐ろしさは、あまりに前衛的であったこと。
前衛党にあって、方針をめぐって闘争もなされ、所詮、闘争に敗れたものは、「人民の敵」と粛正された。「勝てば官軍、負ければ賊軍」という言葉の出自は日本である。中国なら、「勝てば官軍、負ければ死刑」となろう。文化大革命を主導した江青が権力闘争に敗れて法廷に引き出された時、「我々はなぜ裁かれているのだ?それは我々が敗れたからだ」という至言を吐いた。
「真理」を学問とし、「善」を道徳的に独占する国家に精神の自由はあり得ない。思想や学問や信教の自由もない。親こそ真理、親こそが絶対善とする家庭に、子どもの自由がないようにである。精神の自由は、国家(もしくは親)が、真理とか道徳などの価値に対し、あくまで中立を保っている国家(家庭)においてのみ保証されるもので、科学的社会主義はそうした国家を作り得ない。
難しいが、理論とはこうしたものだ。日本国民の幸福も、中国や北朝鮮国民の幸福も、アメリカやロシア国民の幸福の概念はみな違うが、それらは国家の体制が違うようにである。北朝鮮国民が幸福なら、自爆テロのタリバン兵士も幸福だ。そのように考えるなら、人間の幸せは、一体誰が決めるのか?ということになる。それは日本人に見る日本人の幸福においてもだ。
話は世俗的がいい。例えば、以下のケース。15万円の月給をもらうだけで、満足で幸せに浸る人がいる。ある人は150万円の月給ながら満足ではない。傍から見ると、どちらが幸せといえるのか?見る側によって異なるのは明らかだ。「15万程度の月給で喜ぶなんてバカじゃなかろか?」と思う人もいれば、「150万ももらって不満とは贅沢だ!」と思う者もいる。
自分は15万で喜ぶ人間の方が幸せに思う。150万で不満な奴はいくらなら満足できるというより、いくらもらってもどんどん生活レベルを上げていくだろうから、満足することはない。つまり、幸福を感じてる人は、すべての欲望を満たすのではなく、ある特定の欲望において満足を感じている。同様に幸福を感じない人は、欲望が底なし沼状態にどんどん膨らむのではないのか?
こういう人を別の言い方で、「欲望の青天井」という。それも人なら、人の幸福を客観的に定義することはできない。また、「自分はとっても幸福に満ち足りている」などと、本当は幸福ではないのに見栄を張ったり、嘘をついたり、自己に欺瞞な人もいる。見分けられる場合もあるが、騙されることもある。別のそんなことを騙されたからとどういうこともない。
騙す側が自己満足のためにつく嘘など、他人に害はない。ある時、「自分は特に不満はない。金はないが幸せを感じている」といえば、「なわけないだろう?不満のない人間がこの世にいるわけない」などと返す奴がいた。こういう人間に言葉を返す必要を感じないのは、自分の幸福を強調する必要も、説得する必要もないからだが、言葉を返す人は、どのようにいうのだろう?
人と人のくだらない言い合いとは、くだらないことが原因で起こる。自分は自分の考えを言った。人がどう思うも勝手である。人の欲望には深浅ありて、欲望がないではなく、浅いことを、「不満がない」と言ったまでだ。そうした想像力も発揮せず、価値観を押し付ける人間への対処法とは、口に出さずに心で思っていること。そうすれば角も立たない。人を論でやり込めて勝ち負けなどはくだらない。
自分は論点の核心をつくのが好きで、これは幼少期に親子喧嘩で身につけた。小が大に屈服しないで入れるのは、相手を黙らせる言葉見つけるのがいいと知った。親に負けじと悔し紛れに書店に行き、『議論に絶対負けない法』を、辞書を片手に読み込み、グダグダの言い合いが愚の骨頂であるを知った。自分は今でも、「勉強」とは地味で自発的なものと思っている。
母のパターンは決まっていた。①人と比べる、②勝手に作った子なのに恩着せがましい、③すぐに世間を持ち出す、④昨日と今日でいう事が変わる、⑤子を奴隷と思っている、⑥親孝行を押し付ける、⑦自分の意見はすべて正しいなど、ワンパターンである。同じことばかりいう人間をバカの一つ覚えといい、その言葉も多用したし、ことごとくあしらう言葉を見つけた。
言い合い、言葉喧嘩で常勝だったのは、本にあった孫氏の兵法による、「相手を知り、己を知るは100戦100勝」という言葉である。ついでに、「相手を知らず、己も知らずは100戦0勝」、「相手を知り、己を知らずは100戦50勝」とある。相手を知るのも大事だが、自分を冷静に客観的に捉えることも重要。「わーわー」喚くだけの女はバカに見えたが、それを否定するのは女性の否定になる。
したがって、「わーわー」、「ぎゃーぎゃー」は、女性にとって当たり前という肯定が、その後の女性に対する出発点となった。「ぎゃーぎゃー」いう女に、「怒る顔も可愛い、言ってる言葉も童話みたいで面白い」などと茶化すに限る。一緒になって、「ぎゃーぎゃー」いう男の気が知れん。茶化されていると気づかせれば、バカらしく止めるか、逃げるか、どちらかだろう。
孫氏は、「戦わずして勝つ」を最高の勝利としたが、これを目指すのがいい。想像力を発揮しながら会話できる人間こそ頭がいい。教科書を丸暗記して100点取る人間より、本を読み、映画を観、恋をするなどの原体験は、何より増して貴重である。過去問を沢山解いて成績を上げる勉強から、表現力主体の論文重視の制度変更は、実現すれば最善の教育改革となる。
「悪」と知りつつ、合理優先のマークシート方式によるセンター試験の弊害を改めるのは、真に論理的思考重視の人間を作ろうという意気込みの現れかと。街角で日本の若者に突発的なインタビューを試みて、外国人に比べて日本人の無知、教養のなさ、論理性の欠片もない物言いは、見ていて恥ずかしい。教科書だけを勉強とし、あげく偏差値が高いと自慢をする彼ら…。