人間がいろんなことを考えるのは、考える力があるからだ。犬や猫だって考える能力はあろうが、残念ながら彼らが何を考えているか分からない。ただ、ライオンやチータが、餌を捕ろうとするところを眺めていると、いろいろ頭を使っているのがよくわかる。彼らは誰からも教わらないが、親のやり方を見よう見まねで身につける。言葉がないから見て覚える。
そのことが、幸か不幸かということはない。見て覚えるだけで100%身につける。人間はどうか?言葉で伝達できる。教えようとする人から教わろうとせず、身につけない人間もいる。幸か不幸かと言えば不幸であろうが、本人は不幸などと思わない。人の幸とか不幸との境は一体どこにあるのか?あるいは、誰が決めるのか?自分が決めるのか、相手が思うことなのか?
我々は他人の幸を喜び、不幸を哀しむ。あるいは、他人の不幸を喜び、幸を妬む者もいる、それも人間だ。どちらも、「共感」という現象だが、人間が社会的動物である以上、他人のことは気になるもの。気にすることでプラスにもなれば、卑屈にもなる。どちらがいいのか?といえば、よいことに共感し、よくないことは捨ておくのがよいに決まっているのだが。
これを、「取捨選択」というが、そうそう言葉どおりには行かない。「他人の幸に共感し、不幸に目をつぶる」というのは、浅田真央の金メダルを共に喜び、大震災被害者や娘を犯罪で亡くした人を無視することであろう。この場合の無視とは非人間的ということなのか?あの人は人間的、別のあの人は非人間的などというが、人間的とはどういうことをいうのか?
他人の不幸に同情し、共感することを人間的というなら、相手がこのパットを外せば自分の優勝という場合に、外したパットを哀しむべきなのか?不幸な事故や境遇の人たちに同情したところで、彼らに何がもたらせるというのか?「ヒューマニズム」は理論的には優れているが、実は傲慢な理論である。昨今は、ヒューマニズムを欺瞞と疑わなぬ者はいない。
「人間の存在を世界の中心におき、人間の存在はこの世において最も価値の高いものである」と、人間の尊さを高らかに謳っているが、その主張は結局人間が考えたものであることが傲慢である。ようするに、「困った人を助けなさい」、「人には親切にしなさい」という押し付けが傲慢ということ。しかし、「人が互いに助け合い、大切にしあう」社会の実現に必要である。
こうした、「ヒューマニズム思想」に頼らざるを得ないという現実がある。「人間は教育されるべく、教育の必要な唯一の生き物である」というのが納得できる映像がある。溺れそうな主人を助けるために、迷うことなく海に飛び込む犬を見て、彼らが崇高で純粋であることを確信した。彼らは誰からも人道(犬道)教育など受けていない。なのに、どうしてそういうことができる?
ヒューマニズムとは、ヒューマン(人間)のことであり、犬について当て嵌めるなら、「ドッグイズム」ということになる。ヒューマニズムは欺瞞であるが、ドッグイズムは真性である。情けないことだが、ヒューマニズムに頼らなければ、人間は人間の命を互いに大切にしあうことの理由が見いだせない。だから武器を作り、戦争をし、「ザマ~みろ」などと腹で笑う。
社会のモラルの基礎が築くために作りだしたヒューマニズムさえ行使できない人間だ。知性を持って生まれてきた人間だが、残念ながら人間の知性は絶対的に正しいものではないし、人間が人間の枠を超えて、生命の価値を判断することはでき得ない。人間の価値観というのは、人間の枠を超えて宇宙の中で、普遍的に通用させられるようなものではないということ。
人間があらゆるものに魁け、自らの尊さを主張するのは、人間の勝手な理屈である。それを傲慢と言わず、欺瞞と言わず、して何といおう。今更こんな当たり前のことを言ってみても、昼飯のおかずにもならないが、それが人間である。綺麗ごとはいってみても、何にも実行すらできない人間は、主人を助けるために海に飛び込む不言実行のワンちゃんより恥ずかしい。
犬には犠牲愛という考えすらない。ドッグイズムという本能が、主人に尽くしたい心を増長させたのだろう。子どもの頃に父が教えてくれた。「犬は3日飼えば一生恩を忘れない」。言葉はちゃんと覚えているが、現実にそういう場面に遭遇したことはなかった。この映像を観て、「すごいね~」と笑うものがいた。自分のなかにも半分以上笑いがある。犬は必至なのに人間は笑う。
犬の気持ちになどなっていないのだろう。あくまで人間の視点で、犬の大それた行為を笑うのだ。人間にはさまざまな視点が存在する。例えば、「良い人間」がここにいるとする。「良い」とは誰にとってどう良いのであろう。彼は、マイホームパパで、休日ゴルフなどはせず、休日は妻と子どもと楽しく過ごす。妻から見て良い夫、子どもから見れば良いパパである。
ところが、会社で仕事を終えたらさっさと自宅に帰り、残業も休出もしない彼は、上司から見て良い社員ではない。仲間と飲んだり麻雀などの付き合いもないゆえ、誰にも良い同僚と思ってない。飲み屋の常連は、ママさんにとって良い客だが、飲み屋に行かない彼が良い客であるハズがない。こう考えれば、「良い」の相対性が見えてくる。誰にとっても良い人間であろうとすればどうなる?
無理をすることになりはしないか?少々の無理をしてでも、人から良い人間に思われたく、頑張る人間もいる。それも人の生き方である。自分も何にでも頑張る人間だから、「無理するなよ」などとよく言われたが、実際は何でも頑張ってなどいないのよ。やることは徹底してやるが、反面やらないことはテコでも動かない。これまで幾度ゴルフに誘われたことか。
「カヌーをやろう」、「山登りをしないか?」、「パチンコは面白いぜ」などの誘いもことごとく断る。なのになぜ、「無理をするなよ」と言われるのか?女がいう、「無理しないで…」と同じ社交辞令であろう。「無理しないで」が口癖の女に、「無理ってなんだ?」と聞いたことがある。ユニークな彼女は、「人に無理しちゃダメ。あたしのためにとっといて」と言われて吹きだした。
ユニークな女は楽しい。会話にエスプリがある。同じように、ユニークな男も楽しい。自分では分からないが、「ユニークやな~」とよく言われる。「ユニクロは着ないけどな」という。ユニクロとは、ユニーク・クロッシングをもじったもの。社長の柳井氏はとてもとてもユニークな人ではない、ガジガジ流の合理主義経営者だ。「安定している会社で自己実現は無理」などという。
「完成されてない素人だからいい」というコンセプトが売りのAKBの育ての親、秋元みたいな都合主義に聞こえる。育ての親といっても、綺麗なおべべを着せて、下手な歌を歌わせるだけ。一人では目立つが、多人数で横断歩道を渡れば怖いものはない、みたいな集団主義。不祥事起こしても、完成されてない半プロだから、「しょーがあるめ~」で済ませるズルさが秋元の骨頂。
「ニッポン無責任時代」などと、無責任を標榜する時代があった。1960年代初頭の、高度成長期時代に、植木等やクレージーが、「無責任でいきましょ!」などと、汗して働くサラリーマンの気休めだった。所詮はできもしないから憧れだった。『失楽園』などの渡辺淳一ものが日本経済新聞に連載されたように、兜町の証券マンや大企業の役員に、不倫という夢を与えたのだった。
願望はあれど、とても不倫などできない。それを見事にやってくれる主人公に憧れる。人はできないことをやる人間に憧れを抱く。たとえそれが疑似体験であっても、男女の悪の誘惑は、垂涎というべく理想世界。遅刻をしようが、取引先との約束をすっぽかそうが、すべて笑いになる無責任映画。脚本とは便利なもので、無責任でいれたらどんなに楽であろうか。
親から預かった少女をプロダクションが教育し、自覚を持たせ、責任を持たせて世に出すのがかつてのアイドルだったが、中途半端な大人数少女で稼げると踏んだ秋元の目の付けどころである。すべてがレンジで、「チン」の時代に成り下がっている。成り下がっているとはいえど、下がっていることを知らぬ世代には分からない。「イイもの」を知らない不幸な世代かと。
「別にイイとかワルイとかは感性の問題でしょ?」というが、感性が育たないことは歴然である。感性とは磨き育てるものだ。本物が育たない、フェイク重視の昨今である。他人の、「幸」、他人の、「不幸」で書き始めたが、かつてのアイドルは遠くから眺めるしかない高値の花だった。近年はアイドルがファンの携帯番号を聞くために近づく逆ナンを期待してるのか。
アイドルの質が下がったというより、アイドルを身近に感じ、あわよくば彼女にできるかもという期待に、魅力を感じるヘタレ男に未来はあるのか?と言ってみるが、人の幸は他人に分からない。他人の幸も不幸も当人のものである。幸や不幸を思考するとき、自分の事だけでは解明できず、他人のことも含めて思考する。考えて見れどもなかなか分からない。